『夜、肌に触れるのは君じゃない ――第三夜』

第31話『ラブホの“割れた鏡”には映る』

都市伝説は、知っていた。

「〇〇市にある古いラブホテル、102号室だけは絶対に使うな」

“鏡の中の女”が出る。

“ヤってる最中に、もう一人の顔が映る”。

“連れて帰られる”。

そんな噂──ただの作り話だと思っていた。


だからこそ、あえて泊まった。


肝試しと、

エッチなノリと、

ほんの少しのスリルで盛り上がる、

付き合い始めのカップルにありがちな軽率さだった。



部屋は、古いが清潔だった。

ベッドの正面に大きな姿見の鏡。

その隅には、ひび割れた傷跡が残っていた。


(……これか、噂の“割れた鏡”って)


けれど、実際は何も起きず、

シャワーを浴び、

お互いバスタオル一枚になってベッドへ。


明かりを落とし、軽くキスを交わす。

彼女の腰に手をまわし、

滑らかな肌が触れ合うたびに、呼吸が熱を帯びていく。


鏡越しに、ベッドの上のふたりが映る──はずだった。


(……ん?)


視線を逸らした鏡の中、

彼女の顔が、ふたり分映っていた。


こちらに抱きつく彼女の“首の後ろ”から、

もうひとつ、笑顔の女の顔が重なっていた。


その口元は、ゆっくりと開いて、

俺に向かって、くっきりと微笑んだ。


「……やっと、見てくれたんだ」


声は聞こえなかったのに、

そう言われた気がした。



一瞬、動けなくなった。

目を凝らして見ると、

彼女の“顔”はそのまま。

でも、鏡の中では、明らかに“別の顔”が映っている。


──目元が濡れている。

──唇が赤すぎる。

──首筋に、真っ赤な痣のような傷。


「おい……お前……」


咄嗟に彼女を引き離す。

彼女は不安げな顔で俺を見た。


「……なに? 痛かった?」


その表情に、さっきの“もうひとり”の影はなかった。


だけど、鏡の中では──

その女が、ベッドの上で俺にまたがるように、

ぬるりと身体を乗せてきていた。


そして、彼女の唇とまったく同じ動きで、

俺にキスをしようとしていた。


(……これ……入れ替わってるのか?)


俺が感じているのは、

果たして誰のぬくもりなのか。



翌朝。

チェックアウトしても、異常はなかった。

気のせいだったか、と自分に言い聞かせる。


だが──

それから、鏡を見るたびに、違和感を覚えるようになった。


洗面所、コンビニのミラー、スマホのインカメ。


必ず、俺の隣に“誰かの輪郭”が映り込む。


それは彼女じゃない。

あの夜、割れた鏡に映っていた“もうひとりの女”。


しかも次第に、

その女だけが鮮明に笑いかけてくるようになった。


彼女と並んで撮ったプリクラ。

俺の肩に腕をまわしていたのは──

彼女ではなかった。


(あの鏡から、出てきたんだ)


“彼女”と別れてしばらくしても、

その影は消えなかった。


今ではもう、

どの鏡を覗いても──

俺の隣には、あの女の微笑みがある。


しかも最近は、

鏡の中の自分が、勝手に笑い返していることに気づく。


「もう、逃げなくていいよ」

唇の動きが、そう言っていた。


【完】

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