第17話『シャワーの音に混じる声』
引っ越してきたのは、夏の終わりだった。
駅近、築浅、オートロック付き。
不動産サイトでは「掘り出し物」と書かれていたが、内見時の印象は悪くなかった。
ただ──風呂場だけが、どこか“湿っていた”。
換気扇を回しても、どことなく水気が抜けきらない。
特に夜は、壁がじっとりと濡れているような気配があった。
(まぁ、水回りだし……)
その程度にしか思っていなかった。
*
異変に気づいたのは、3日目の夜だった。
バイトから帰ってシャワーを浴びていると、
シャワーの音の奥で──女の声のようなものが聞こえた。
「……ふふっ……」
ほんの一瞬。
水のリズムの隙間に差し込まれるような、笑い声。
(気のせい、だよな……)
それでも、少しずつ頻度は増えていった。
シャワーの音に混じって、何かが囁いている。
「……あったかい……」
「……いいね、そこ……」
そんな声が、耳元をかすめる。
*
ある夜、風呂場の鏡に何か違和感を覚えた。
湯気で曇ったその鏡に、赤いシミのような跡が浮かんでいた。
それは──口紅のキスマークだった。
誰もつけていないはずの口紅。
キスの形に、はっきりと唇の輪郭が残っていた。
(……女の、唇……?)
思わず手で拭こうとしたが、
その瞬間、肩に誰かの手が触れた。
ゾクリと背筋が凍る。
明らかに“指”だった。
爪の先でなぞられるような、湿った冷たさ。
「……そこ、気持ちいいの?」
耳元に、声。
(──気のせいじゃ、ない)
確信した。
誰かが、この風呂場にいる。
シャワーを浴びるたび、
その“誰か”が、俺の身体を観察し、撫でている。
目を閉じると、気配がよりはっきりとわかる。
息遣いが、湯気の奥から、俺の肌にまで届く。
*
怖くなって管理会社に問い合わせると、
担当者は言葉を濁しながら、こう答えた。
「……前の入居者、女性だったんです。独り暮らしで、ちょっと精神的に不安定だったらしくて……」
「何があったんですか」
「……風呂場で、首を……。
でも、一度失敗して、数日間、生きていたんです。
その間、何度もシャワーを浴びて、ずっと“愛されたかった”って……」
「“心中したかったのに、一人だった”って、メモに残されてました」
風呂場で。
愛を思いながら、シャワーの下で──死んだ女。
それが、今も“誰かに見てもらおう”として、
シャワーの音に紛れて、俺を探っている。
*
それ以来、風呂場では目を閉じられなくなった。
シャワーの温度が下がると、誰かの吐息がすぐ背後に感じられる。
鏡には、日によって違う位置に、新しいキスマークが浮かぶ。
ある夜、湯気に指でなぞられたような文字が現れた。
「今度は、いっしょに流れて」
俺は、もう風呂場で“ひとりではいられない”。
あの女は、
シャワーの音とともに、
今日も俺の肌を探している。
【完】
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