第17話『シャワーの音に混じる声』

引っ越してきたのは、夏の終わりだった。


駅近、築浅、オートロック付き。

不動産サイトでは「掘り出し物」と書かれていたが、内見時の印象は悪くなかった。


ただ──風呂場だけが、どこか“湿っていた”。


換気扇を回しても、どことなく水気が抜けきらない。

特に夜は、壁がじっとりと濡れているような気配があった。


(まぁ、水回りだし……)


その程度にしか思っていなかった。



異変に気づいたのは、3日目の夜だった。


バイトから帰ってシャワーを浴びていると、

シャワーの音の奥で──女の声のようなものが聞こえた。


「……ふふっ……」


ほんの一瞬。

水のリズムの隙間に差し込まれるような、笑い声。


(気のせい、だよな……)


それでも、少しずつ頻度は増えていった。


シャワーの音に混じって、何かが囁いている。


「……あったかい……」

「……いいね、そこ……」


そんな声が、耳元をかすめる。



ある夜、風呂場の鏡に何か違和感を覚えた。


湯気で曇ったその鏡に、赤いシミのような跡が浮かんでいた。


それは──口紅のキスマークだった。


誰もつけていないはずの口紅。

キスの形に、はっきりと唇の輪郭が残っていた。


(……女の、唇……?)


思わず手で拭こうとしたが、

その瞬間、肩に誰かの手が触れた。


ゾクリと背筋が凍る。


明らかに“指”だった。

爪の先でなぞられるような、湿った冷たさ。


「……そこ、気持ちいいの?」


耳元に、声。


(──気のせいじゃ、ない)


確信した。

誰かが、この風呂場にいる。


シャワーを浴びるたび、

その“誰か”が、俺の身体を観察し、撫でている。


目を閉じると、気配がよりはっきりとわかる。

息遣いが、湯気の奥から、俺の肌にまで届く。



怖くなって管理会社に問い合わせると、

担当者は言葉を濁しながら、こう答えた。


「……前の入居者、女性だったんです。独り暮らしで、ちょっと精神的に不安定だったらしくて……」


「何があったんですか」


「……風呂場で、首を……。

でも、一度失敗して、数日間、生きていたんです。

その間、何度もシャワーを浴びて、ずっと“愛されたかった”って……」


「“心中したかったのに、一人だった”って、メモに残されてました」


風呂場で。

愛を思いながら、シャワーの下で──死んだ女。


それが、今も“誰かに見てもらおう”として、

シャワーの音に紛れて、俺を探っている。



それ以来、風呂場では目を閉じられなくなった。


シャワーの温度が下がると、誰かの吐息がすぐ背後に感じられる。


鏡には、日によって違う位置に、新しいキスマークが浮かぶ。


ある夜、湯気に指でなぞられたような文字が現れた。


「今度は、いっしょに流れて」


俺は、もう風呂場で“ひとりではいられない”。


あの女は、

シャワーの音とともに、

今日も俺の肌を探している。


【完】

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