『夜、肌に触れるのは君じゃない――甘くて冷たい心霊体験短篇集』
常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天
第1話『隣の部屋の喘ぎ声』──前編
その日、俺はひとりで眠れなかった。
いや、正確には「眠りかけていた」と言うべきだろう。時刻は深夜一時を回っていたはずだ。スマホを布団のそばに投げて、うつ伏せになり、ようやくまぶたが重くなってきたところで──
「……あっ……んっ……」
女の、喘ぎ声が、壁の向こうから聞こえた。
思わず、目を開けた。
……はっきり聞こえる。
リアルだ。耳元で囁くように。
寝ぼけているわけじゃない。耳を澄ませば、しっかりとした呼吸音と、ベッドがきしむような軋み。
(……隣、って空き部屋じゃなかったか?)
そう、俺の部屋は賃貸アパートの一階。隣は「しばらく空き」のはずだった。二ヶ月前、管理会社の張り紙で見た。「103号室、長期空室」って。
──だけど、今そこから、明らかに、女の嬌声が聞こえている。
「あっ……はぁ……だめぇ……そこ……っ」
……妙にリアルすぎる声。俺の鼓膜に触れた瞬間、反射的に心臓が跳ねた。
たぶん、男の誰もがそうだと思うが、夜中に、壁越しの喘ぎ声は──“興奮”と“好奇心”を呼び起こす。
けど、それ以上に、奇妙だったのは──その声の主が、ひとりでしゃべってることだ。
「……んんっ……気持ちいい……もっと、来て……」
「……ああっ……あなた、だけ……」
返事がない。
男の声は、まったく聞こえない。喘ぎも、笑い声も、喋り声も。ずっと女の声だけが響く。
(独り言……? まさか、音声とか、そういうやつ……?)
俺は起き上がり、壁に手を当てて耳を近づけた。壁は薄い。築30年以上のボロアパートだ。もしこれがスピーカーからの音なら、もっと機械的に聞こえるはず。けれど──
「……すき……ずっと……いっしょ……に……」
──あまりに生々しい声だった。
いや、それだけじゃない。息づかいの合間に、なにかこう──壁の向こうの“湿度”まで伝わってくる気がした。濡れた唇、絡む髪、シーツの音……そういう“気配”が混じっている。
俺の喉が、カラカラに乾いた。
だけどそのとき──
「――見てるの、知ってるよ?」
壁の向こうで、女が、そう言った。
凍った。
誰に言った?
まさか──俺に?
どこかにカメラでもあるのかと部屋を見渡した。けれど、あるはずがない。隣の部屋とこの部屋は、仕切りの壁を挟んでいるだけ。モニター越しの音ではない。明らかに、生声だった。
「……君の部屋、やっぱりいたね……ふふ……じゃあ、次はそっち……ね?」
唐突に、音が止んだ。
空気が変わった。
……おかしい。
今まで喘いでいた“彼女”は、明らかにこっちを見ていた。こっちの存在を“知っていた”。俺のことを──わかっていた。
やばい。
ぞくりと背中に氷が這った。
(──逃げよう)
体が勝手に立ち上がる。無意識に玄関に向かう。ドアに手をかけた、そのとき──
「ガチャ……」
隣の部屋のドアが開く音が、した。
誰かが、出てきた。足音が──こちらに向かってくる。
「……や……やめろ……」
思わず声が漏れた。
けれど、足音は止まらない。ぺた、ぺた……と、裸足の足音のような音が、俺の部屋の前で止まった。
(くるな、くるな……!)
すると──
「コン……コン……」
俺の部屋のドアが、ノックされた。
……誰が?
深夜一時半。隣は空室のはずだった。
そしてなにより──
……インターホンは、押されなかった。
ただ、ドアの表面が“素手で”叩かれた音。
「……あなたの声が、聞きたかったの」
女の声が、ドアの外から聞こえた。
聞いたことのない、甘く、艶やかで、そしてどこか──冷たい声だった。
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