第43話 雨を待ちながら
週の真ん中、朝の空は薄く白かった。
教室の窓から見える雲はぬるい灰色で、天気予報アプリの傘マークは、週末の欄にだけ小さく点いている。
「おはよう、裕樹くん」
いつもの席。胸ポケットの透明ケースには、ミニ写真。今日はその横に、細い金色の星型シールが一つ貼ってあった。
「おはよう、彩香。……星、増えた?」
「“がんばった自分へのご褒美”。あと、雨待ちの印」
「いいルールだな。俺も採用する」
拳を軽く合わせる。こつん。合図の音は小さいのに、呼吸がふっと楽になる。
*
一時間目の化学。マーカーのインクが薄いと、彩香がカチカチ振り始め——。
「……あれ、フタ……」
次の瞬間、俺のノートに赤い点々が降った。
「わぁああっ、ご、ごめんっ!」
「大丈夫。星、増えただけ」
ノートに散った赤を見て、そう言うと、彩香は耳まで赤くして俯いた。
小桜が前の列から首を伸ばして「それ、芸術点」と冷静に評し、奏斗が「星座っぽく線で結んでみ?」と余計な提案をする。
「結ばない。授業中」
「はいはい、真面目神〜」
肩をすくめながら、彩香がそっと俺の袖口をハンカチで押さえる。ハンカチの端にも、小さな刺繍の星。なんでもない動作のはずなのに、胸の奥がやわらかくなる。
合図。こつん。
“止まるときは止まる”。ふたりのルールは、賑やかな授業の真ん中でもちゃんと効いた。
*
昼休み。廊下の掲示板に、地域の科学館のポスターが新しく貼られていた。
『今週のプラネタリウム 午後の部:雨の音と星の話』
「タイトル、勝ちじゃん」
「ね。……予約、いるかな」
「当日券、残数ありって。——早めに行こう」
ポスターの隅のQRに目だけで印をつける。小桜が通りかかり、「雨の日デート顔だ」と一刀両断。奏斗は「俺も行く」と言いかけて、小桜に襟首をつままれて連行された。
「……元気だな、あいつら」
「うん。でも、ちょっと、ありがたい」
「なにが?」
「“普通にからかわれる”って、安心するから」
すこし照れながら言った彩香の言葉に、胸の真ん中があたたかくなる。
俺も同じことを思っていた。こうやって笑われる日常が、少し前は眩しくて遠かったのだ。
*
放課後。図書室の前で合流して、今日はそのまま校門まで歩くことにした。
雨の地図の精度を上げるため、アーケードまでの最短・最弱風ルートの下見。途中のベンチ、コンビニ、屋根の切れ目。
「ここ、段差。雨の日は滑りやすい」
「マップに“注意”って書いといて」
「了解。——あと、喫茶はこの角曲がったところ。窓が大きくて、外の音がよく聞こえる」
「雨の音、聞けるね」
言いながら、彩香が靴紐を結び直そうとして——
「……あっ」
結んだ紐が、ループだけ綺麗に抜けた。
「新記録だな」
「む、むずかしい……」
「貸して」
しゃがみ込んで、ゆっくり蝶結びをつくる。ほどけにくい結び目の作り方を説明すると、彩香は「覚える」と真剣に頷き、でも指先は少し震えている。
「緊張してる?」
「ちょっとだけ。……“練習”だから」
「よし、じゃあ“止まる合図”の練習も」
こつん。
結び目の上で、指同士が軽く触れた。ほんの一瞬の温度でも、心の輪郭が落ち着いていく。
空の色が、夕方の手前で鈍くなった。
遠くで、まだ乾いたアスファルトに風が走る音。
「降りそう?」
「匂いは、まだ……でも、近い気がする」
彩香が防水スプレーの小瓶を取り出した。
「ブックカバー、しとこうかなと思って」と笑って、ベンチの端に布を広げて、しゅっ、しゅっ。
その慎重さが妙に愛おしくて、「任せて」と言いかけた言葉を飲み込む。自分の物を自分で大事にする手つきに、俺は口を挟まない方がいい。
「……よし。完璧」
「“ポンコツ返上”が続いてる」
「たまにはね」
「たまに、が、いい」
視線が重なって、同時に目を逸らす。夕風が、ふたりの間を軽く抜けた。
*
帰宅後、予報をもう一度確認する。降水確率は、朝より五%だけ下がっていた。
心がざわめく前に、深呼吸。チャットを開く。
『降水確率、ちょっとだけ下がった。けど、プラネタリウムは“雨の音”回あるって』
すぐに返事。
『見た! もし晴れても行こう。——“星ふたつ目”は、空じゃなくても、ちゃんとあるから』
たった一行で、胸のざわめきが静まった。
“ある”。場所じゃなくて、ふたりの合図に紐づく約束。
『了解。“ある”で固定』
送ってから、引き出しの奥から、前に買って忘れていた小さな星のピンバッジを見つけた。
金色の、ほんの米粒みたいな星。ジャケットの内ポケットにそっと忍ばせる。
雨の日、言葉に詰まったら、代わりにこれを渡せばいい。そう思うだけで、心が少し軽くなった。
*
翌日。
朝の教室で、昨日のマーカーの赤い点を、彩香が消しゴムでこすっている。消えないタイプだったらしく、眉間に小さな皺。
「無理に消さなくていいよ。——ほら」
赤い点を細い線で結ぶ。できた図形は、冴えない台形みたいなものだけど、俺は最後に星型の小さな印を一つ、角に打った。
「“星座”になった」
「……うん。ちょっと、かわいい」
笑って、こつん。
合図の練習は、もういちいち言葉にしなくても自然にできるようになっていた。
放課後の帰り道、空の端にほんの少し、暗い縁取り。
風の温度が、朝よりも柔らかい。駅前のアーケードの入口に立ったところで、彩香が小さく囁く。
「週末、降るといいね」
「降っても、降らなくても。——行こう」
「うん。行こう」
“行こう”が合図みたいに響く。
俺たちは拳を合わせて、家路を分けた。
*
金曜の夜。
窓を流れる街灯の光が、カーテンの隙間で細く揺れる。スマホが震えて、短い通知。
『明日の集合、駅改札、午前十一時。——“ゆっくり”で来てね』
“ゆっくり”。
約束の真ん中に置いておくには、これ以上ない言葉だ。
『了解。——“止まる合図”も持っていく』
『こつん、ね。おやすみ』
おやすみを受け取って、電気を落とす。
耳を澄ますと、遠くでごくごく細い音。もしかすると、屋根のどこかに、うっすら何かが当たっている。
(……始まってるのかもしれない)
目を閉じる。
雨の地図。ブックカバー。星のピン。
“いいところ”のメモと、拳の合図。
——雨を待ちながら、俺たちはもう、ちゃんと歩き始めている。
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