第39話 近所の公園で
翌朝、目覚ましの鳴る三分前に目が覚めた。
熱は……引いている。額に手を当てると、クマの冷却シートは夜のあいだにどこかへ旅立っていたが、頭の重さはうすくなっていた。体温計は三六度八分。勝ちだ。
(よし、“生存”)
枕元のスマホを開いて、送ると決めていた短い一文を打つ。
『おはよう(生存)』
送信から十秒もしないうちに既読がついて、すぐ返信が来た。
『おはよう(よかった)
朝ごはん、食べられそう?』
『いける。パンとスープ』
『えらい。……ね、もしちょっとだけ外の空気吸えるなら、家の角の公園、十分だけどう?』
少し悩んで、窓を開ける。早朝の空気は、ひんやりしていて、秋の訪れを感じる。咳の気配はほとんどない。母さんは遅番で、午前中は家にいる。玄関先より一歩だけ外――それくらいなら。
『十分だけ、行ける。マフラーしてく』
『うん。無理しないで、ゆっくり』
*
角の小さな公園は、まだ人影が少なかった。ブランコの鎖が風でかすかに鳴っている。ベンチの向こうから、手を振る小さな影。
「おはよう、裕樹くん」
彩香は薄手のパーカーの上にカーディガンを重ね、マスクの下から少しだけ息を弾ませていた。手には小さな紙袋——昨日と同じ、でも今朝はふくらみ方が控えめだ。
「本当に十分だけね。気温も低いし」
「監督、了解しました」
冗談を言うと、目だけで笑う。ベンチの両端に腰をおろし、距離をとって座る。彩香が紙袋から取り出したのは、細長い包みだった。
「これ、受験のときにもらった“のどに良い飴”。昨日のはちみつと似てるけど、こっちはハーブ多め。もし合わなかったら無理しないで」
「ありがと。昨日のクマも効いてた」
「クマ、優秀だよね……あ、笑ったら咳でない?」
「もう平気。……ほんと、ありがとな」
言って、ポケットから小さな封筒を取り出す。二つ折りの厚紙に、夜のうちに描いた下手な星が二つ。片方の星の中心には「Thanks」の落書き、もう片方には、ちいさく「Rain OK」と書いた。
「なにこれ?」
「“星ふたつ券”。ひとつは俺からの礼。もうひとつは——雨でも外でも、どっちでも、“次の約束OK”の意。使い道は任せる」
「……へたで、かわいい」
「絵心はないんだよ」
笑いあって、風が一度だけ強く吹いた。彩香が前髪を耳にかけなおす。その仕草に、昨日の玄関の影と、文化祭の照明の白がふっと重なる。
「ねえ、次の約束——」
言いかけて、彼女が言葉を選ぶように間を置く。
「来週末、図書室じゃなくて、駅前の喫茶店、行ってみない? ホットココアがおいしいらしいの。……でも、体調最優先で」
心臓が、静かに一拍跳ねた。図書室じゃない場所。二人で選ぶ、外の席。
「行きたい。星券、そこで使う」
「じゃあ、“星ふたつ券”、回収します」
彩香は封筒を胸元に大事そうにしまった。目が合うと、マスク越しにでもわかるくらい表情が緩む。
「昨日、玄関で言いそびれたことがあって」
「うん?」
「“迷惑じゃなかったら”って書いたの、私の癖なんだけど……ほんとは、迷惑でも来たかった。だから、言わせて。“頼ってくれて、ありがとう”」
胸の真ん中に、やわらかい何かが落ちる。言葉が喉の奥で熱に溶けて、上手く形にならない。代わりに、手袋越しに指先を上げた。
「——ナイス」
「——ナイス」
こつ、と小さな音。ふざけた仕草なのに、やけに胸に残る。
ベンチの向こうで、小学生がランドセルの金具を鳴らしながら走り抜けていく。朝の街が、ゆっくりといつもの速度を取り戻していくのが見えた。
「そろそろ、戻ろっか」
「そうだな。十分、守ったし」
立ち上がって、ベンチの背に手を添える。彩香はマスクの上から小さく息をして、「じゃあ、またメッセージするね」と言った。
「夕方、“おはよう(続行)”送る」
「謎の挨拶……でも待ってる」
公園の角で互いに手を振る。別れ際、彩香が何か思い出したみたいに戻ってきて、俺の手の甲を見た。
「星、もう消えちゃったね」
「うん。昨日のは」
「じゃあ、また——」
彼女は指先で、今度は俺の手袋の甲の“上から”、空に小さく星を描いた。触れない距離を守ったままの、やさしい悪戯。
「追加。今日の分」
「了解。蓄光タイプだな、これは」
「夜に光るやつ。……じゃあね、ほんとに無理しないで」
今度こそ、彩香は角を曲がっていった。背中が陽の光に溶けて、見えなくなるまで目で追う。
*
家に戻ると、母さんがリビングの戸口で腕を組んでいた。
「“十分だけ”の顔ね」
「監視カメラでも付いてる?」
「母の勘という最強センサーがあるの。——で?」
「“星ふたつ券”を渡した」
「なにそれ」
「……秘密兵器」
母さんは呆れたように笑って、「昼は麺にするから座ってな」と台所に戻っていった。
机の上のコルクボードには、昨日の写真と、寄せ書き。そこに、封筒の予備をひとつ、押しピンで留める。自分でも笑ってしまうくらい下手な星。だけどこの稚拙さが、今日だけは悪くない。
スマホが震く。小桜から“体温は?”“水は?”という容赦ないチェックリスト。奏斗からは“図書室じゃないデート、ポイント高い。倒れるな”。まとめて親指を返す。
その下に、新しい通知。
『星券、ほんとにかわいい。
喫茶店、席調べておくね。静かで、窓が広い場所。』
読んだだけで胸が温かくなる。文字の向こうで、彼女が地図アプリとにらめっこしている顔が浮かぶ。
『頼む。“星券”の価値、上げてくれ』
『任せて。——お昼、ちゃんと食べてね』
『了解。お昼=うどん』
『優勝。』
画面に残る「優勝」の二文字を見て、思わず笑った。たしかに、今の俺の世界はちょっとだけ優勝だ。
湯気の立つどんぶりの前で手を合わせる。スープの温度が、喉のざらつきをやさしく撫でていく。食べ終えるころには、体の芯の重さももう一段軽くなっていた。
(来週末。喫茶店。星ふたつ)
言葉を並べると、目の奥がすこし熱くなる。けれど、その熱はもう昨日の発熱じゃない。もっと、歩くための熱だ。
窓の外の雲がゆっくり流れていく。俺はコップの水を飲み干し、深呼吸をひとつ。
“おはよう(続行)”の時間まで、少しだけ机に向かってみる。台本の余白に、無意識に星を描きながら。
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