第28話 約束

 朝、どこか気まずい空気を感じた。


 気のせいかもしれない。でも、昨日送ったLINEの既読がついたまま、返信がなかったからか、どうしても落ち着かない。

 いや、そもそも送ったのが夜遅くだったんだから、返事がないのは普通だ。

 それはわかってる。わかってるのに、やっぱり気になってしまう。


 彩香は、もう席に着いていた。

 ノートを開いて、ペンを動かしている。横顔はいつも通りだけど、どこか、壁があるように感じてしまう。


 声をかけようか迷ったけれど、そのまま自分の席に座った。

 いつもなら、「おはよう」くらい交わせていたのに。


 昨日、藤崎から「気になる人はいる?」って訊かれたことを思い出す。

 あのとき、ちゃんと答えられなかったのは、今のこの距離のせいだ。


 彩香と、話がしたい。

 そのために送ったメッセージだった。


(……やっぱり、無理だったのかな)


 そんなことを考えているうちに、チャイムが鳴った。



 授業が終わり、午前中の教室はざわついていた。


 文化祭が近いこともあって、どの教科も早めに切り上げられ、準備の時間が多めに確保されている。

 劇の大道具を手伝いに行く人、衣装係として家庭科室へ向かう人、それぞれが動き出す中、俺もカバンからパソコンを取り出した。


 と、そのときだった。


「……裕樹くん、ちょっといい?」


 振り返ると、彩香が立っていた。


 一瞬、時が止まったように感じた。


「え、あ、うん……なに?」


 自分でも驚くほど、声がうわずっていた。


 彩香は、ほんの少しだけ迷ったような顔をして、それから小さく笑った。


「昨日のLINE、ありがとう。……放課後、少しだけ話そう」


 それだけ言って、彼女はすぐに自分の席へ戻っていった。


 小さな背中が、やけに遠く見える。


 けれど、俺の胸の中には、小さな灯がともった気がした。


(……やっと、少しだけ、進めるかもしれない)



「花宮ー! ごめん、台本の演出部分、今確認できる?」


藤崎の声に呼ばれ、俺はパソコンを手に立ち上がる。


……昼休み、彩香に声をかけるつもりだったのに。


検討する余裕もなく、俺はそのまま職員室前の廊下へ向かった。


「ここ、舞台の中央で使いたいって話があってさ……」


藤崎は本気で劇を成功させようとしている。その目を見ていると、自分も自然と気が引き締まる。


だけど。


心のどこかで、ずっと引っかかっていた。


(――“放課後、少しだけ話そう”)


彩香の言葉が、頭の片隅から離れない。


今やるべきことは、目の前にある。だけど、気持ちは別のところにある。


……せめて、終わったらすぐ行こう。


その一歩が、今の俺には、何より大事なことだと思えた。。


放課後。


 教室内はすでに人がまばらになり、実行委員たちは体育館や美術室へと散っていった。


 俺は、教室に残っている彩香の姿を探して、少し緊張しながら席を立った。


 彼女はまだ教室にいた。窓際の自席で、鞄を膝に置いたまま、何かを待っているようだった。


 ──いや、きっと俺を、だ。


「……彩香」


 少しだけ声が震えてしまった。でも、彼女はその声に気づいて、ゆっくりと顔を上げた。


「……裕樹くん」


 名前を呼ばれただけで、胸が熱くなるのはずるいと思った。


「話、いいかな。ちょっとだけ」


「うん。……外、行こっか。教室だと、落ち着かないし」


 俺たちは並んで廊下に出て、何も言わずにそのまま階段を降りた。向かったのは、校舎裏の中庭。昼間は誰もいない静かな場所。春には花壇が咲くけれど、今は雑草だけが風に揺れている。


 ベンチに並んで腰掛けると、自然と会話が途切れた。


 でも、今日はその沈黙も、少しだけ心地よかった。


「昨日……ごめんね。既読だけつけて、返せなくて」


 先に口を開いたのは、彩香だった。


「ううん、いいんだ。俺、急に送っちゃったし。びっくりさせたよな」


「びっくり、はした。……でも、ちょっと、嬉しかった」


 俯いたまま言うその声が、少しだけ震えていた。


「私ね、最近、ずっと自分のことばっかで。……変な態度して、ごめん」


「いや、それは俺も。文化祭のことでバタバタしてて、全然話せてなかったし……」


 気づけば、言い訳の応酬みたいになっていた。でも、それでも良かった。やっと、お互いの気持ちが少しずつこぼれている気がして。


「……藤崎さんと、最近仲良いよね」


 ふと、彩香がぽつりと呟いた。


 その言葉に、俺の呼吸が少しだけ止まった。


「あ……うん。実行委員の仕事で、一緒に動くことが多くて」


「そうだよね。分かってるんだけど……ちょっとだけ、苦しかった」


「……ごめん」


 謝ることなのか分からなかった。でも、自然とその言葉が出た。


 彩香は、ゆっくりと首を振った。


「違うの。私が勝手にモヤモヤしてただけ。裕樹くんは、何も悪くない」


 彼女の声は、少しだけ震えていて、でも確かに真っ直ぐだった。


「本当は、もっと話したかった。笑いたかった。……でも、うまく話せなくて」


 その言葉に、俺の胸の奥が、ぐっと締めつけられる。


「俺も、同じだよ。彩香と、もっと話したかった。だけど、どう接していいか分からなくて……気づいたら、距離ができてた」


 それは、後悔にも似た言葉だった。


「ねえ、裕樹くん」


「ん?」


「また……前みたいに戻れるかな」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 でも、答えは決まっていた。


「戻りたいよ。ちゃんと、話したいし、笑いたい。彩香と」


 俺がそう言うと、彩香の肩が、ふっと少しだけ緩んだ気がした。


「……じゃあ、また図書室、行こう?」


「うん。……明日、放課後」


 たったそれだけの約束なのに、胸がすごく温かくなった。


「よかった……」


 彩香は、そう小さく呟いて、それから、ふっと笑った。


 その笑顔は、ずっと見たかった笑顔だった。


 ようやく、届いた気がした。



 帰り道、スマホに届いた文化祭関連のLINEを見ながら、俺は少しだけ空を仰いだ。


 雲の隙間から、夕日が覗いていた。


 何も解決したわけじゃない。でも、一歩は踏み出せた。


 きっと、これからだ。


 彼女ともう一度、ちゃんと向き合っていくために。


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