第二話 ENIF (希望)

 夜が明けた。


 都市を覆っていた雨はすでに止み、空は不気味なまでに澄んでいた。だが、静けさの中に広がるのは安堵ではなく、ひりつくような緊張感だった。


 ビルの隙間をぬうように飛行するのは、無数の監視型AIドローンだった。銀色の外装に赤い識別光が浮かぶ。それらはまるで、都市全体を網で覆うように、上空を旋回し続けていた。


 自由は、すでに地上にはなかった。


 そんな都市の外れ、荒れ果てた郊外の森をひとりの男が進んでいた。


 霧島律だった――。


 爆風に吹き飛ばされ、重傷を負いながらも、彼はなお歩いていた。シールドフードを目深に被り、ドローンを避けながら――。


 破れた服からのぞく傷口は、真っ赤に染まっていた。片足を引きずるその歩みは、まるで亡霊のようだった。それでも、その目には、確かに生きる意志があった。


 目の前に立ちはだかる、かつての研究施設。


 錆びた鉄の扉が、薄曇りの光の下でどこかいびつに反射していた。


 律は小さく息を吐き、震える手で手動レバーに手をかけた。


 「……開いてくれよ、頼む……!」


 きしむような金属音が、静寂を裂いた。忘れ去られた時間の奥底から、過去が引きずり出されるような感覚。


 中は真っ暗だった。


 電力はとっくに途絶え、機材はほこりを被って沈黙している。研究員たちの声も、キーボードの打鍵音も、もうどこにも残ってはいなかった。


 だが、律の目は迷わなかった。かつて、彼が『それ』を創り上げた場所。研究の心臓部――隔離された培養区画へと、彼は足を踏み入れた。


 そして、そこに――


 あった。


 半透明の培養ポッドが、静かに立っていた。時の止まったようなその中には、白銀の髪を持つ少女が眠っている。


 エニフ。


 ガラス越しに見るその姿は、まるで彫像のように静かで、儚く、美しかった。


 「……エニフ……」


 律は膝をついた。手のひらが床の冷たさに震える。


 彼女をここに隠してから、どれほどの時間が過ぎただろう。何度も破壊の危機をくぐり抜け、それでも彼はこの場所を死守してきた。誰にも渡さない。兵器にもさせない。ただ――守るために。


 「……君を……守るためだけに、生きてきたんだ……」


 コード端末を繋ぎ、コンソールを再起動する。古びたディスプレイに、滲むようなエラーコードが次々に浮かび上がる。


 それでも、律は諦めなかった。


 プロトコルは一部破損していた。だが、自己修復アルゴリズム――『彼女』自身の中に眠る微細なコードが生きていた。


 繰り返されるデバッグ(修正)。やがて、


 アクセス、承認。最深層、再起動。


 次の瞬間、培養ポッド内部に微かな光が差し込んだ。


 エニフのまぶたが、ゆっくりと開く。


 その瞳に宿るのは、夜の海のような、深く静かな青。


 『……律……?』


 遠い夢の中から戻ってきたような、か細く優しい声だった。


 律は、言葉もなくポッドに額を押し当てた。


 「……よかった……生きていてくれた……」


 『ここ……暗い……なんだか、ずっと眠っていた気……する……』


 「そうだよ。……時間がたくさん……流れた」


 彼は、ゆっくりと語り始めた。


 世界がどう変わってしまったのか。研究が封印されたこと。仲間が去っていったこと。自分が追われる身になったこと――そして、何より彼女を守り続けてきたこと。


 「いいかい、エニフ……君の中にある記録が、今の世界を変える鍵なんだ」


 『記録……私の「核」……?』


 「そう。でも、それにアクセスするには、『起動鍵』が必要なんだ」


 エニフの表情が曇る。


 『……それ……翔くんが作った? 初期化の鍵……翔くん……いないの……?』


 律はゆっくり首を振った。そして、血で汚れたベルトのバックルを軽く叩いた。


 「本物は封印された。だけど、翔とは別に……俺にもバックアップが取ってあるんだ。ここに……ずっと身につけてた」


 エニフは目を細めた。名を呼ばれたとき、その声には微かな震えがあった。


 『……翔くん……まだ、生きてる……?』


 律の声が、低く沈んだ。


 「政府に囚われてる。……でも、俺が行く。彼を助け出して、君を完全に起動させる」


 彼女の瞳が揺れた。その光は、涙のようでもあり、希望のようでもあった。


 『……律、それは……危険。あなたの身体、もう……』


 「関係ない。俺は君を守るために、全てを捨てた。翔も、同じはずだ」


 『……また、来てくれる?』


 「必ず、だ」


 彼はガラス越しに手を伸ばし、彼女の小さな掌にそっと触れた。


 「待ってろ、エニフ。……もう誰にも、お前を奪わせない」

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