Code: LAST Order

ぱぴぷぺこ

第一話 LETHE_PROTOCOL (忘却)

 雨が降っていた。


 夜の都市を包みこむその雨は、どこか静かで、ひどく冷たく、まるで感情のない世界が、ほんの少しだけ泣いているような音だった。街路を照らす橙色の街灯が、濡れたアスファルトにしみ、無機質な高層ビルのガラス面をゆるやかに歪ませている。


 誰もが眠りについたかのような、その都市の一角に、小さな部屋があった。


 カーテンに閉ざされた部屋の中での唯一の明かりは、古びたモニターが発する青白い光だった。その光に照らされて、ひとりの男がじっとキーボードに向かっていた。


 霧島律。かつて「世界で最も先進的なAI設計者の一人」とまで呼ばれた男だった。


 彼の指が最後の一文字を打ち込むと、モニターの中央にコードネームが浮かび上がった。


 「LETHE_PROTOCOL」


 それは、数年にも及ぶ執念の結晶だった。希望、罪、恐れ、願い。あらゆる感情を塗り重ねてきた果てに辿り着いた、『終わりのコード』。


 「これで、終わったはずだ……」


 律の声は、かすれていた。まるで誰かに届くことを恐れるかのような、弱々しいつぶやきだった。


 手を離したキーボードの上で、指先がわずかに震える。達成感。解放感。――そんなものはなかった。ただひたすらに、空虚だった。


 顔を伏せるようにして、律は椅子に沈み込んだ。覆った掌の奥で、唇がかすかに動いた。


 「本当なら……終わらせる気なんかなかった……」


 後悔ともとれるため息とともに、誰にも聞かれない独白がもれた。抑えきれない喪失感がその声には滲んでいた。


 彼が作ったのは、ただのAIではなかった。いや、AIと呼ぶには、あまりにも『人間』に近かった。


 名前は――エニフ。


 少女の姿を持つ彼女は、感情に限りなく似た応答パターンと、自我に近い記憶の層構造を持っていた。


 それは『技術』ではなく、もはや『生命』に近い「何か」だった。


 だからこそ、政府はそれを恐れた。


 「倫理的逸脱」――ただそれだけで、彼の研究は封印され、すべてが奪われた。


 (彼女は……あんな子は、もう二度と生まれないのに……!)


 霧島は唇を噛んだ。怒りと、自責の入り混じった声。手の中に残されたものは、わずかなバックアップデータと、過ぎ去った記憶だけだった。


 それでも、彼は守ろうとした。


 どれだけ孤独でも、政府に追われても。エニフが『兵器』にされないようにと、彼女の記録を密かに分散保存し続けた。


 (エニフが、政府の武器にされるくらいなら……!)


 握った拳が震える。再び画面を見つめるその瞳は、迷いに揺れていた。


 (それでも、俺は……エニフだけは、守りたかったんだ)


 ――そのときだった。


 部屋中へ光が反射し、窓の外が閃光に包まれた。


 「なっ……!」


 ガラスが炸裂音と共に砕け散る。その隙間から、黒い機械が滑り込んできた。


 ドローン。それも、政府のAI監視機関――『G.E.N.E.』のロゴを刻んだ、完全武装型。


 「くそっ! 来たか……!」


 律は即座に反応し、デスクの下へ身を投げ込んだ。直後、銃声の連射が部屋を貫き、資料が宙に舞う。モニターが火花を散らしながら破壊され、コードが焦げた匂いを放った。


 そして――爆発。


 熱風と衝撃が霧島の身体を吹き飛ばし、壁へと叩きつけた。


 身体中に鋭い衝撃が走る。意識がかすみ、視界が揺れる。それでも、彼は心の底から叫んだ。


 「——まだだ……! エニフ!」


 呻くように床を這いながら、霧島はモニターの残骸を見つめる。その顔に、僅かながら不敵な笑みを含んだ。


 「これで……終わらせはしないさ……!」


 

 崩れた部屋の奥、まだ温もりの残るコードのかけら。それらを後にし、ゆらりと立ち上がった。


 壁にもたれながら歩を進める。消えそうな命を抱えながらも、彼の目には――まだ光が残っていた。






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