第20話:神の誕生
梶原に腕を引かれるまま、私たちは廃工場の裏口から闇へと逃げ出した。
背後で、サイレンの音が急速に近づいてくるのが聞こえる。梶原は用意していたのだろう、一台のバンに私たちを押し込むと、乱暴なアクセルでその場を離れた。
「……凛火、大丈夫?」
揺れる車内、私は凛火の脇腹の傷を心配そうに覗き込む。
大丈夫なわけがない。腹に穴が空き、血が流れ続けているのだから。凛火は浅い呼吸を繰り返し、私の問いかけに答える力も残っていないようだった。
「それより…」
凛火が、か細い声で呟き、私の腕に目をやった。
配信中、私が自らを切りつけたガラスの傷。痛々しい赤い線が、私の白い肌を走っている。
「お前の腕こそ」
「え? ああ、これ? 平気だよ」
私は、こともなげに笑った。
「凛火の痛みに比べたら、こんなの、全然」
その笑顔は、きっと、どこか壊れていたに違いない。
梶原は、苛立った様子でバックミラー越しに私たちを睨みつけた。
「おめでたいお喋りはそこまでにしろ。お前ら、自分が今どんな状況にいるか分かってんのか?」
「……」
「傷害事件だ。しかも、全国に生中-継されちまった。もう、ただの地下アイドルじゃいられねえぞ」
その言葉は、私の胸に重く突き刺さる。
私たちは、ただ歌いたかっただけ、ただ居場所が欲しかっただけのはずだった。
どこで、間違えてしまったのだろう。
「安心しろ。まだ手はある」
梶原は、不敵な笑みを浮かべた。
「お前たちは、ただの犯罪者じゃない。『物語』になったんだ。社会に虐げられた、悲劇のヒ-ロインにな。世間は、お前らを同情し、崇拝するだろうよ」
その言葉通り、私のスマホには、無数の通知が届き始めていた。
メディアからの取材依頼、ファンからの応援メッセージ、そして、私たちの逃亡を支援するという、匿名の団体からのコンタクト。
「見ろ。世界は、お前たちの味方だ」
梶原の言葉は、悪魔の囁きのように甘く、抗いがたかった。
バンが辿り着いたのは、都心にそびえ立つタワーマンションの地下駐車場だった。
「しばらく、ここに潜伏する。一歩も外に出るなよ」
そう言い残し、梶原は再び闇へと消えていった。
案内された部屋は、私たちが今まで住んでいたアパートとは比べ物にならないほど、豪華で、広かった。
窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。
「すごい…」
私は、ガラス窓に顔を近づけ、恍惚とした表情で呟いた。
その瞳に映る無数の光は、まるで、私たちの成功を祝福する、無数のサイリウムのように見えた。
応急処置を終えた凛火は、ベッドの上で、浅い眠りに落ちていた。
私は、傷だらけで眠るその横顔を、静かに見つめる。
自分のせいで、彼女をここまで傷つけてしまった。罪悪感が、波のように押し寄せる。
しかし、それと同時に、胸の奥から、黒く、甘い感情が湧き上がってくるのを止められなかった。
凛火の痛みこそが、私を輝かせる。
凛火の血こそが、私の歌になる。
この残酷な真実の上に、私たちの王国を築くのだ。
たとえ、それが血塗れの玉座だとしても。
私は、眠る凛火の頬に、そっと触れた。そして、恍惚と囁く。
「あなたの血が…私を……」
この日、一人のアイドルが死に、そして、一人の神が、産声を上げた。
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