第14話:檻の中の獣【side:凛火】

錆びついた鉄骨が剥き出しになった、廃工場の天井。そこから吊るされた一つのスポットライトが、金網で囲まれたリングを白く照らし出していた 。観客はいない。いるのは、無機質な数台のカメラと、そのレンズの向こう側で、私たちの物語を貪り食う、顔の見えない神様だけだ。


「……準備はいい、凛火?」


耳に仕込んだワイヤレスインカムから、詩凪の静かな声が流れてくる。俺はリングの中央で、ゆっくりと息を吐いた。目の前には、梶原が用意した対戦相手。筋書き通りに俺に負けるために雇われた、三流の格闘家だ。


ゴングの音が、だだっ広い空間に虚しく響いた。戦いが始まる。

相手が、台本通りの大振りなパンチを繰り出してくる。俺はそれを、台本通りにかわし、台本通りのカウンターを腹に叩き込む。相手が苦悶の表情で後ずさるのも、台本通り。


『――凛火、そこ。相手の反撃を受けて』


詩凪の声が、脳に直接響く。俺は一瞬、動きを止めた。

本能が、避けることを命じている。だが、詩凪の声は、それを許さない。


『大丈夫。浅くもらうだけでいい。少しよろめいて、苦しそうな顔をして』


俺は、奥歯を噛みしめた。そして、わざと相手のパンチが頬を掠めるように、体を動かした。鈍い衝撃。大した痛みはない。だが、魂が軋むような、別の痛みが胸を貫いた。


――これは、タルタロスで戦っていた頃とは違う。


あの頃は、ただ心を殺し、目の前の敵を壊すだけだった。何も考えず、何も感じず、獣のように暴れるだけ。だが、今は。

今は、詩凪の言葉で、飼い慣らされた獣を演じなければならない。弱さを、苦しみを、計算されたタイミングで演じなければならない。


『いいよ、凛火。すごくいい。コメントが「凛火様をいじめるな!」って』


詩凪の声は、少しだけ弾んでいた。彼女が喜んでいる。俺のこの惨めな姿が、彼女の夢の糧になっている。そう自分に言い聞かせ、俺は屈辱を飲み込んだ。


『次は、ロープ際に追い詰められて。もっと、絶望的な顔でカメラを見て』


言われるがままに、俺はロープを背負う。相手のわざとらしいラッシュを受けながら、俺は指定されたカメラを睨みつけた。唇の端から血が滲む。これも、事前に仕込んでおいた血糊だ。


――ああ、そうだ。俺は檻の中の獣だ。


この金網のリングが檻じゃない。詩凪が作る「物語」という、見えない檻。俺はその中で、彼女の歌に合わせて踊るだけの、哀れな見世物。


『――クライマックスだよ、凛火』


詩凪の声のトーンが変わる。インカムの向こう側で、彼女がマイクを握りしめる気配がした。


『私の歌の、一番高いところが来る。それに合わせて、立ち上がって。そして、あの台詞を』


俺は、膝をついた状態から、ゆっくりと顔を上げた。

詩凪の、悲痛で、しかし美しいソプラノが、廃工場に響き渡る。

スポットライトが、まるで俺だけに降り注いでいるかのように、眩しかった。


俺は、震える唇を開いた。


「――私の歌姫に、指一本触れさせるものか」


台本通りの、陳腐な台詞。

その言葉を吐いた瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。


俺は雄叫びを上げ、相手に飛びかかる。これも台本。相手は俺の一撃で派手に吹き飛び、リングに沈む。これも台本。

鳴り響く勝利のゴング。熱狂するコメント欄。インカムから聞こえる詩凪の嬉しそうな声。

その全てが、ひどく遠くに聞こえた。


スポットライトの下、勝利のポーズをとる俺は、誰の目にも英雄に映っただろう。

だが、俺自身にはわかっていた。

俺は、今この瞬間、誰よりも惨めに、負けたのだと。

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