三章〈露呈〉
第16話
大学に行ってからしばらくした後。ハルカの提案で、実家まで帰省することにした。
理由を訊くと、「二人きりの時間が中々取れなかったから、デートのつもりで」なんて可愛らしいことを言っていた。
友人と呼べる仲になったナガブチには、帰省する旨を伝えておいた。「ぜひ楽しんできてください。……僕も帰省した方が良いかなぁ」と、好青年な見た目に似合わず、疲れた中年のような台詞を吐きながら、優しい笑みを浮かべていた。
そういえば、僕の家には彼が買い置きしてある酒類が冷蔵庫の中に眠っているなと思い出して、部屋の鍵を預けておいた。「自由に使って貰って構わないので」と鍵を渡すと、彼はなぜか固唾を飲んだ。
「どうしました?」
素っ気ない反応が返ってくる
「いえ、なんでも。……楽しんできてくださいね」
何かをはぐらかされたということだけは分かった。だが、その内容まで追求しようとは思わない。彼なら——僕の部屋に盗むものなんて何も無いけれど——物色するような真似はしないだろうと信頼しているから。
「ねぇ、帰省したらまずどこ行こっか」
浮足立っている彼女に問われ、僕は少し思案する。
僕の地元など、何もない。……いや、検索エンジンに地名を入れてその後に観光名所と付けてみれば、案外結果が出てくるかもしれないが、少なくとも僕は地元に対して有名な観光地があるだとか、目立つものが建っているだとか、そういうイメージを持っていない。
「そうだな——」
ただ、そう。
きっとこの答えは、『どこへ行くか』は重要じゃない。
「どこへでも行こう。どこだっていいんだ、君といられるなら」
僕の言葉に、ハルカは柔和に笑んで「なにそれ」と軽口を返した。
「じゃあ……私が行きたいところに連れていって。たくさんあるから」
「いいよ。どこなんだ?」
「んー……まだ教えない」
着いてから教えてあげる、と悪戯っぽく微笑む。その表情が陽光で明るく照らされていることを意識して、あぁ夏が始まっていたんだなと、そんなことを考えた。
二人分の切符を買って、下りの電車に乗り込む。
車両内の乗客は、誰も彼もが浮き足立っているように見えた。それは夏の陽気のせいかもしれないし、各々がこの季節の思い出を作るために全力で今を楽しんでいるからかもしれない。それなりに人の多い車内の、進行方向から見て右端の席が運良く空いていたので、二人で腰掛ける。すると丁度、電車が進行を始めた。喧しい蝉の音が遠ざかり、体に纏わりつく暑気とべたつく汗を、冷房が拭い去ってくれる。
「このまま三十分かぁ……」
ハルカが一度伸びをする。
「——一応訊くけど、」
続きを言いかけた僕より先に、彼女が先んじて意図を汲み取り口を開く。
「地元の場所も、どこに住んでたかも知ってるよ」
「だよな」
もはや慣れてしまったが、彼女は本当に、僕のことを隅々まで知り尽くしているのだと改めて実感する。むしろ今では、安心感さえ覚えている。それが抱くに正しい感情かは、別として。
「…………」
そこでふと、気付く。
外出すらできなかった僕が、突然来訪してきたハルカと出会い、こうして普通に外を歩けるようになるまで、一ヶ月も経っていないのだと。
何もできなかった——外に出ることさえできなかった僕が、今では平然と、彼女の隣を歩いている事実に、言い知れない違和感を覚えた。
それは表面的なものじゃなく、もっと根源的で、与り知らないところで病が進行しているかのような、そういうイメージ。
それは純然な齟齬だった。
彼女の存在然り、僕の現状然り。全てが常軌を逸していて、それなのに調和性を帯びてそこにあるという、圧倒的な齟齬。
決定的な誤謬があるはずなのだ。直感がそう告げていた。
しかし、眼前の幸福に全てを奪われていく。
ハルカという少女を前にすると、何もかもがどうでもいいと感じてしまう。
彼女と一緒に居られるなら、それだけで満足なのだ。僕は素直にそう思っている。そこには決して悲観的な考えがあるわけじゃない。あくまで純然に、実直に、そう思う。これ以上の幸福を望もうとは、一切考えていない。そうするべきではないとさえ。
「どうしたの?」
難しい顔をしていたのだろう僕を見ながら、彼女が静かに言う。
「なんでもないさ」
そう言って車窓に目を向ける。景色は高速で過ぎ去り、残像を残して去っていく。
まるで、隣の気配だけが本物の現実のように思えた。
電車に三十分も揺られれば、僕の地元に着く。閑散としていて何もない駅前だが、最近は開発が進みファストフード店がちらほらと出てきている。しかし、ゲームセンターなどの若者に向けた娯楽施設は、今もない。一番近くて五キロ先だ。
「あんまり変わってないね」
ハルカはそう言った。まるで長年この土地を見てきたような言い方だ。どの時点から観測して『あまり変わっていない』のか、判然としないが。
「そうそう変わるものじゃないさ」
幾分かの懐かしさを込めてそう返す。
それほど思い入れのある土地というわけではないが、それでも幼い頃から暮らしてきた街なのだ。この駅前に始まり、この街の中には至る所に思い出の欠片が散らばっていた。それはさながら地上に墜ちた星屑のようで、確かな煌めきと共に僕を旧懐の世界に誘う。例えば……商店街にある駄菓子屋はまだやっているだろうか、とか。
「ね、まずはどこに行こっか」
嬉々として彼女が訊ねてくる。
その喜び様といったら、まるで遊園地に着いたばかりの子供のようで、無性に可愛らしかった。普段は鳴りを潜めている溌溂さが滲み出ていて、それほど今回の帰省を楽しみにしていてくれたのだと身に染みて感じる。
そんな彼女を見て、僕もこれから訪れる時間に期待を抱いた。どれほど緊密で濃厚な時間が過ごせるのかと、胸が躍る思いだった。
しかし。
運命というものは、いつも唐突に顔を覗かせる。
「——戸村?」
*
「久し振りじゃないか」
ノガワは、静かに喜びを湛えた微笑を浮かべた。
高校時代と比べると、大分大人びて見えるのは気のせいではないのだろう。僕が世間と隔絶した生活を送っていた間にも、彼は大学生らしい生活を謳歌していたはずだから。
「痩せたか?」
「まぁ、ちょっと」
本当はちょっとどころではない。体感だが、間違いなく六キロ以上は体重が減少している。だがそれを、彼に言う義理はない。もちろん僕が、どうやって二年という月日を過ごしてきたのかも。
昼間のファミレスは、学生の夏休みの時期ということもあってか、それなりに混雑している。パソコンを広げていたり、歓談していたり、黙々と食事をしていたり、電話を掛けながら慌ただしく料理をかき込んでいたり。中には酒を飲んで騒いでいる大学生らしき集団も見受けられる。
店内の右奥、四人掛けのテーブルに向かい合う形で着席した。ハルカは「折角二人きりで午後を過ごせると思ってたのに」と不貞腐れている。涼し気な白を基調としたフレアスカートから覗く、ぞっとするほど白い両脚をぶらぶらとさせながら。
「まさか、帰省のタイミングが被るなんてな。……というか、お前が帰省すること自体、予想外だったわけだが」
「そうだよな」
僕が帰省するメリットなど、無いに等しい。親戚関係も家族関係も希薄な上に、両親は数日家を空けることも珍しくなかった。兄弟姉妹は一人もおらず、大して友人もいない。ノガワからすれば、なぜ帰省する必要があるのか疑問だろう。
「思うところがあって、帰省することにしたんだ」
デートの為とは言いたくなかった。言わずとも隣のハルカを見れば勘付かれるだろうが、それでも。
そう考えてふと隣を見ると、斜め上を見上げる彼女の姿が目に入った。視線の先を観察して、彼女が何を考えているのか合点がいった。
僕はそっと、彼女と左手を繋ぐ。気付いてくれた、とでも言いたげに優しく笑んで、「あったかい」とただ一言、そう零した。彼女にとっては、店内の冷房は少し寒いだろうという予想は的中していた。なぜそう予想できたのかは分からないが、なんとなくそうじゃないだろうかと思った。それほど、僕らの中は進展していて、言葉にしていないだけで想い合っている間柄だからこそかもしれない。一方彼女は、友人の前だというのに、容赦なく腕を引き寄せ、僕の手のひらと腕で暖を取り始めた。
「悪いな……」
向かいのノガワに謝ると、「え? あ、あぁ」と随分上の空な返答があった。何というか……何に対して謝ったのか、要領を得ていないという感じだった。彼にとって僕と彼女が現在進行形で晒している醜態(痴態?)は日常なのだろうか。
そんな馬鹿げたことを考え始めた僕に対して、彼が再び口を開いた。それは実に奇妙なことで、噛み合わない内容だった。
「でも、お前がこの土地に帰って来る理由なんて、俺は一つしかないと思ってるけどな」
……一つしかない?
「受け入れるとか受け入れないとか、そういう話はしたくないけどさ——」
……受け入れる? 受け入れない?
「お前の心が決まったんなら、それで良いんだ」
……彼は、何の話をしているのだろう。
どうやら、彼とは根本的な部分で話が噛み合っていないようだった。同じ場所に立っていながら、一人は桜を、もう一人は紅葉を見ているような、そういう感じだ。
胸騒ぎがする。
「——どういうことだ?」
徐々に、ヴェールが剥がされていくような感覚。
「……まさかとは思ってたけど、覚えてないのか」
この現実の裏側にあったもの。ハルカを始めとした、全ての〝異常〟を異常たらしめているもの。僕が忘れているもの。気付かないままでいるもの。
「悪い。何を忘れているのかも分からない」
それらが白日の下に晒される。
「
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