第15話



 昼食を食べ終えた後、ハルカが僕にとって一番酷なことを言い出した。


「ちょっとの間、別行動しよ」


 最も恐れていた事態だ。僕の症状は——


「分かってるよ、私がいないと不安なんでしょ?」


 僕の脳内を言い当てた彼女が緩く笑んだ。


「分かってるけど、祐二さんを『普通』に導くには、絶対に必要になってくることなの。だから理解して」


 理解はできる、できるのだが、納得はできない。


 第一に、ハルカと別行動をとるなど、今の僕にはできない。自分のことだから分かるのだ。彼女が傍に居なければきっと、僕は何もできなくなる。路傍の石の如く蹲り、呼吸さえ忘れてしまう。


 そうなることさえお見通しという風に、彼女は「だからさ、」と続ける。


「これ、持ってて」


 そう言って、彼女は右手に何かを包んでこちらへ差し出してくる。

 左手のひらを差し出して、それを受け取る。

 そこには、純白の羽根があった。


 質感はまさに鳥の羽のように滑らかで、どこか硬質なイメージを持たせる。いや、白鳥から羽根を貰って来たと言われればその言葉を信じてしまう位には、白く綺麗な羽根だった。絵に描いたような純白に目を奪われる。


「そこに『私』を込めておいたの」


 そんなことを彼女は口にする。


「信じてくれなくても良いけど……そこには、私の存在が少し移ってるの。だから、私が傍にいるって言えるでしょ? それを持って、少しの間一人で行動してみてほしいの。祐二さんならきっと大丈夫って、私は信じてる」


 無責任に、僕を鼓舞する。

 そう言われてしまったら、僕は格好をつけるしかなくなってしまうじゃないか。

 きっとそれが分かっていたから、彼女はこうしたんだ。

 僕が、やるしかない状況に追い込んだ。


 そのことに、少しだけ不満があった。まるでひな鳥を見守り成長させる親鳥がするようなことだ。そんなに信用されていないのかと、思わざるを得ない。

 僕だってやればできるのだと、見せてやりたくなった。


「ああ、これなら絶対、大丈夫だ」


 無根拠に言い切る。言わばこの状況は、ただの暗示に過ぎない。信じるには足りないただの口約束を、忠実に果たそうとしているようなものだ。このちっぽけな——けれど美しく純白に煌めく羽根の中に、彼女の存在と呼べる成分が少しだけ含まれているなどという妄言を信じて、僕にとっての地獄へ自ら身を放り出すような。


 それでも、僕はやらなくちゃいけない。

 彼女の無責任な期待に応えるために。


「うん。絶対大丈夫だよ。信じてる」


 そう言って彼女はゆっくりと僕から離れていった。その間、僕は彼女から貰った白い羽根を——天使の羽根を握り締めていた。


 そこには微かに、体温のような温もりがあった。




 ハルカと別れた後、僕は早々に図書館棟へ逃げ込んだ。


 ……情けない話だが、彼女に大見栄を切った手前、格好をつけておきたかったのだが、薄らいだながらも恐怖は感じていたので、本能に従うまま人気のない——人の流れの少ない場所に逃げたのだ。


 大学構内には人が多い。多すぎる。まともに他人と交流をしてこなかった時間が半年以上にもなると、視線を向けられていなかったとしても、ただそこに人がいるというだけで緊張してしまう。たとえハルカが勇気づけてくれて、天使の羽を貰っていたとしても、持たないものは持たないのだ。


 空調が効いていて静かな空気に、思考が同調していく。

 すると必然的に、思考は今ある疑問へと向いていく。


 僕の高校時代のこと。


「…………」


 誰一人として私語を発しない空間で、僕は思考に没入する。


 ……まず、そもそもの話。なぜ僕は、高校時代の出来事が思い出せない——あるいは記憶していないのだろう。


 可能性として挙げられるのは、主に二つ。


 一つは、憶えている価値もない程、つまらないモノだったという可能性。


 これに関しては、些か妙な話ではある。いくらその価値がないにしろ、断片的な記憶の一つや二つ、憶えていておかしくない。綺麗さっぱり忘れ去ってしまっているこの状況は不可解だ。


 不可解なことと言えば——友人の名前はなぜか憶えているというところ。


 高校時代に関わっていた、数少ない友人の名前は記憶にあるのだ。コムラにノガワ、マナベの三人は確かに憶えている。だというのに、高校三年間での『出来事』に関する記憶だけが曖昧で、紙上に垂れたインクで文字が読めなくなったような現状だ。


 可能性として挙げられるもう一つのものは、意図的に消し去られている、ということ。


 それはもちろん、彼女——ハルカによって。


 こちらもあり得ない話ではないだろう。何せ彼女は、僕の全てを知っているという、異常な特性を持っているのだ。今更天使であることを疑うつもりはない。本当に天使かどうかはともかくとして、それに近い、何か理を歪めることができてしまうほどの存在であることは十二分に有り得るから。


 僕の高校時代には、彼女にとって不都合な——『僕を救済する』という使命を阻害しかねない情報があって、だからこそ僕に内緒で該当する記憶を消去した、とか。しかし、僕に危害を加えるようなことを、彼女がするのだろうか、という疑問が残る。


「……いや、」


 考えてもきりがない。


 結局のところ、僕がどうして視線恐怖に悩まされているのか、その明確な理由を突き止めるには、高校時代に何かヒントが隠されているのではないかという確信はあっても、思い出すことができなければ意味がない。思い出そうにも、鍵の付いた箱を素手で開けようとするようなものなのだ。


 思索を諦めて、何か面白い本でも探そうと向かいの本棚へ移動する。


 そこは丁度文豪の作品を集めたエリアだった。浅学な僕でも知っているような名立たる文豪の名が連なっている。


 そのうちの一冊、背表紙が日に焼けて読めないものを引っ張り出す。

 果たしてそれは、中原中也の詩集だった。特段知識のない僕にとっては、有名な詩人程度の認識しかないが、掠り傷だらけのその本は、何か僕を惹きつける力があった。


 パラパラとページを捲って流し読みをしていると、一つの詩が目に留まる。




『月夜とポプラ』




 なぜその詩が目に留まったのか、なぜその詩の部分で捲る手を止めたのか、自分でも分からないまま中身を読む。




木の下かげには幽霊がゐる

その幽霊は、生まれたばかりの

まだ翼弱いかうもりに似て、

而もそれが君の命を

やがては覘はうと待構へてゐる。







 僕がハルカから貰った天使の羽根を握り締めながら図書館棟を出ると、丁度僕を迎えに来た彼女と鉢合わせた。


 僕がなぜ図書館棟に居たことを知っているのだろうという疑問は、彼女とのこれまでの生活で麻痺した感覚が無意識に排除していた。僕について何でも知っている彼女のことだから、僕がどこに逃げ込んだかも予想がついて当然だろうと。


 ハルカが緩く手を振る。


「おまたせ」


 その声を聞くだけで、全身の緊張が弛緩していくのをはっきりと自覚した。同時に、握り締めていた手のひらの発汗も引いていく。


「どうだった? 大学は」


 そんな安堵を気取られたくなくて(そんな努力をしても無駄だろうけれど)、そんなことを訊いてみる。


 果たしてハルカは相好を崩した。


「うん、楽しいね。色んな景色が見れるし、色んな授業があるし、色んな人がいるし!」


 はにかむその姿に少しの間見惚れる。彼女が笑顔になってくれるのであれば、僕の努力も報われたというものだ。


「帰ろ」


 そう言って彼女は、手を差し伸べてきた。

 僕は迷わずその手を取る。


 繋いだ手のひらからは、夏の陽気とは違う、生温かく安心できる温度が流れ込んでくる。それに身を委ね、僕は彼女の隣を歩く。


 しかし、思考の片隅には疑念が残留していた。


 彼女は一体、何を知っているのか。

 僕が亡失した空白の高校時代。そこに何を見たのか。


 そこには必ず、彼女の存在を紐解く鍵があると、そんな予感がしていた。だからこそ、安易に踏み込むことができない。僕を救い出してくれた彼女との永劫の別れが思考の隅を巣食い、開きかけた口を縫い付ける。


 僕は、幸せだ。この上なく幸福だ。


 だったらそれでいいじゃないかと自分を納得させて、温かい手のひらを少しだけ強く握り返した。



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