第3話
瞼の裏に痛みを感じ、意識が覚醒した。
……この痛みは何だ?
どこか物懐かしさを覚えるそれの正体を探るべく、瞼を開ける。
飛び込んできたのは白い天井。だが、普段よりも輝度が高い。それが何を示しているのかは、火を見るよりも明らかだ。
「…………」
予想通り、カーテンが開けられていた。
若干の頭痛にこめかみを抑えながら起き上がる。……そこでようやく、昨晩の記憶が蘇ってきた。
——昨晩、僕はあまりに従順だった。それは彼女を殺そうとした罪悪感からかもしれないし、ただ単に僕が主体性を失っていただけかもしれない。ともかく、ハルカに言われたことを片っ端から実行し、床に就いた。具体的には、入浴と食事を無理にでもして、押し入れで埃を被っていた来客用の布団一式を引っ張り出し、なぜかそちらで寝ることになった。来客は彼女の方だというのに。
酒を飲まず純粋な睡眠を取れたのは、実に三ヶ月振りだった。普段であれば寝付けずに昼まで起きていて、気絶するように眠りに落ちるとか、折角眠れても三、四時間で目が覚めてしまうとか、そんなことばかりだった。
食事もそうだ。まともに摂ることができず、冷凍パスタを半分以上残すことも珍しくなかったというのに、昨晩は久々に一人前を完食できた。
そして入浴も。……この中で一番体力と気力を奪われるのがそれだ。だからこそ、しなければならないと理解していながら体が動かない場合が殆どなのだ。けれど昨晩は違った。彼女の口から「お風呂に入った方がいい」と言われるだけで、すんなりと実行に移せた。まるで言霊だ。
昨晩の自分の態度を顧みて、何て馬鹿な人間なんだと呆れた。けれどその回顧も、眼前の光景によって断ち切られる。
風を孕みふわりと舞い上がるカーテンのその隙間から、ハルカの姿が見えた。ベランダに備え付けられた踏み台に腰掛け、イヤホンを耳に当てていた。あの天使のように可憐な微笑はどこへやら、風で靡く黒髪から覗く横顔は、およそ表情というものがなく、大理石に彫り込まれた彫像画のように、硬質だが透明感のあるイメージが際立っていた。凛々しい、とはこういうことを言うのだろう。
危うく見惚れそうになった。……いや、きっともう、とっくに見惚れていた。目を離すのが勿体なくて、一秒でも長く視界に収めていたいとさえ。
そんな僕の視線に気づいたのだろう。彼女が振り返った。そこにはいつも、超然とした夜空がある。僕を射止めて放さない、澄んだ黒色。
「……起こしちゃった?」
イヤホンを外しながら、ハルカは僕に問う。
「まぁね」
視線を逸らす。今がそうするのに適切な場面だと判断したから。
少しぶっきらぼうな僕の態度に、彼女はお淑やかにくすくすと笑った。
「まだ寝てていいよ、祐二さん」
「いや、一度目が覚めたらもう——」
「まぁまぁ、物は試しだよ。ね?」
どういうわけか僕のことを知り尽くしている彼女は、僕が一度眠りから覚めてしまうと再び寝付けないことを、やはり既に知っているようだった。ならばなぜ、「物は試しだ」と二度寝を勧めてくるのだろう。
そう考えている間に、昨晩彼女が占領していた僕のベッドが整頓され、寝起きだったことが原因か、抵抗する間もなくハルカに腕を引かれてそこへ放り込まれた。
ぼす、とくぐもった音を立て、ベッドが僕の体を受け止める。仄かに香る陽だまりのような……花の蜜のように甘い香りに気が散って、到底眠れそうにない。変に緊張したせいか、肩が強張って少し痛んだ。
「いや、僕は……」
頑なに二度寝を拒否しようと試みる僕の目元に、ハルカの左手のひらが被せられる。
「だいじょぶ。寝られるよ」
何の根拠もない言葉。ただ、それでも——不思議と安心感がある。
この言葉の通り、僕はもう一度眠ることができると、そう思わされる。
「目を閉じて」
言われるがまま、瞼を閉じた。細く折れそうな指の隙間から見えていた、朝日の光が消える。心地よい暗闇が広がる。
——その感覚を最後に、僕の意識は遮断された。
馬鹿げた話だが、本当に眠ってしまったのだ。
三時間ほど二度寝をして、再び目が覚めた。
何か、とても暖かい夢を見た気がする。
その夢の内容は一切覚えていないのだが、確かに人肌のような温もりが感じられた。空気の代わりに微温湯で満たしたシャボン玉に、何の憂いもなくただ浮かんでいる……そういう類の温もり。それが僕の記憶の山に埋もれてしまった「人生の良い思い出」が夢に出てきたからなのか、ハルカが窓を開けていたことで入り込んだ陽光の温度のせいなのかは、はっきりしない。
壁掛け時計を確認して、そういえば先日息の根を止めていたなと、何度目かの気付きを経てスマホの電源ボタンを押す。表示された時刻は十一時三十二分。もう昼時だ。
ふと、部屋に彼女の気配が無いことに気付いた。代わりと言ってはなんだが、キャリーケースが一つ増えていた。色は落ち着いた青で、傷一つ見当たらない。中身を検めるまでもなく、衣服が詰め込まれているのだろう。
そこでようやく意識が完全に覚醒した。開け放たれた窓からの、鳥の囀りや自動車の駆動音、風のそよぐ音、葉が擦れる音に紛れ、反対方向からノイズが聞こえていた。壁越しに聞くその音は、テレビの砂嵐に似ていた。……言うまでもなく、シャワーの音だ。
まさか、彼女はここで暮らすつもりなのだろうか。この何もない(個室さえない)マッチ箱のような部屋で。
そのリスクが理解できないほど子供ではないだろう。……そもそも、昨晩の殺人未遂の件で人間であることを疑っているが、それでも彼女は高校生くらいの年齢だろう。世間一般で言う思春期であって、健全な精神の成長に妨げが生じかねない。
あるいは——本当に、人間ではないのだろうか。「年齢は重要じゃない」と本人も言っていたし、もしかすると、少女の姿に化けた怪物か……彼女自身が口にしていたように、天使なのかもしれない。
「……はは」
馬鹿らしい。あり得ない。
実存性のない、架空の存在だ。
それに、天使と云うからには『天の使い』であって、それはすなわち神様の意思に従っている存在ということになる。神様なんてものが、存在しているはずがない。天使同様、架空の存在に過ぎない。世界は結局、自分の手の届く範囲にしかないのだから。
扉の開く音で、思考を止めた。音に釣られて視線が動く。
「…………」
「…………」
少しの間、沈黙が降りた。
なぜならそれは、服も着ずに風呂場から出てきたハルカと目が合ったからだ。
仄かに湯気を纏う裸体は、扇情的な色味があった。しかしそれよりも、細くて折れてしまいそうな、華奢な体つきが嫌なほど目を惹く。本当に臓器が欠けずに揃っているのか、心配になるくらいだ。
道端で眠っている野良猫を見つけ、撫でようと思い近づき、結局逃げられてしまう……時間にするとそのくらいの間があった。そして、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「えっち」
僕はこめかみを抑えた。全くそういう目で見なかったかと問われれば、素直に頷くのは躊躇われるが……少なくとも、抗い難いリビドーは感じなかった。それよりも、警戒心や常識の方が心配になった。
「服を着てくれ……」
懇願するように吐き捨てる。するとハルカは「ちぇ」と悪態をつきつつ、脱衣所へ引き返していった。着替えを用意しておいて、わざわざ僕に見せつけるために出てきたとでもいうのか。勘弁してほしい。
ものの一分程度で、ハルカが再び僕の前に現れる。今度はしっかりと服を着ていた。オーバーサイズの英字が施された空色のTシャツと、丈の長い白のドロワーズだ。それが彼女の部屋着なのだろう。
その後、平然と僕のベッドに腰掛けて、あまつさえスマホを弄り出したときは、流石に頭を抱えた。まるで数分前の出来事など、初めから無かったかのように振る舞うのだから、脳味噌が酷く混乱する。彼女には、人間として必要なものが、いくつか欠けているように思えてならない。……それを僕が言うのは、些か失礼かもしれないが。
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