第2話 サミットの沈黙
ヒマラヤの空は、どこまでも青かった。
標高8,000メートルを越える空は、もはや空ではない。
それはもう、ただの「無」であった。色も音も、ほとんど存在しない。あるのは自分の呼吸音だけだ。
川合咲(かわい さき)は先頭を歩いていた。
エベレスト無酸素登頂を目指す河合と柴田。
足元は崩れやすく、息を吸っても吸っても、肺は満たされない。
高度8,000mを超えると
「デスゾーン(死の地帯)」と呼ばれ、無酸素状態での活動は命に関わる。
酸素は、平地の三分の一。
足りるわけがない。
そのような過酷な状況の中で、
咲にはもう一つ切実な問題があった。
腹具合が、どうにもよろしくない。
サウス・コルのキャンプ4を出発した時点で、すでに兆候はあった。
高山病から来る便意。
前夜のレトルトカレーが、内臓のどこかで反乱を起こしていた。
高所の過酷さとは、精神や筋力だけでなく、肛門にまで及ぶのだと咲は知った。
すぐ背後には、ザイルで命を結び合うバディ
柴田重義(しばた しげよし)がいる。
元・自衛官の屈強な男は、終始ぴたりと背後にいた。
だがその距離が、災いした。
「はー、はー……っ」
柴田は浅くて重い呼吸を河合の尻のそばで続ける。
まるで咲の尻を狙う猟犬のように。
彼は酸素を集めるのに必死だった。
この酸素の薄さの中では、
わずかな気体の動きも嗅覚を刺激する。
雪と空だけの空間で、己の排泄音がどれほど響くか、想像するだけで咲は恐ろしかった。
最後の難関、ヒラリーステップを越えたとき、目の前に現れたのは、白銀の穂先。
地球のてっぺんが、目前にあった。
世界の頂のその穂先が、美しく陽を浴びていた。
その瞬間だった。
あらゆる緊張が、するりと抜けた。
――ぶっ。
軽やかだった。
むしろ誇らしいくらい、よく響いた。
「うっ……!」
背後で柴田が声をあげ、むせて大きく体勢を崩した。
次の瞬間、ザッという鈍い音とともに、ロープが急に引かれた。
「しばたさん――!」
咲が振り返ると、柴田の姿はもうなかった。
白い雪と岩の狭間、ほんの数秒前までいた場所に、男の影はなかった。
ロープは二人を繋いでいたが、
ロープを引くのに、力は必要がなかった。
摩擦で焼け焦げた、ロープのその先には、
柴田はいなかった。
柴田重義は、落ちたのだ。
それでも咲は、懸命にロープを手繰った。
指の感覚が失われていく中、ただ一つ、心に浮かんだのは謝罪だった。
「ごめんなさい……止められなかった……
屁も、柴田さんも!」
風は、何も答えなかった。
(続く)
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