第4話
だが別に似ている必要はないのだ。
曹操と曹丕の背負うべき時代は、異なっている。
覇王の道を辿った曹操は、
曹丕は恐らく、長江を渡る気はない。
しかし長江を渡らなかったからといって、曹丕が劣っている王というわけではない。
彼は父親とは違う道を辿って行っていい。
「曹丕殿が季節外れの蝶に見えたことがありましたよ。
あの人は内に怒りを飼っているから、戦乱の世では優れていただろうけど、曹操殿ほど安定した治世を生み出せるどうか、分からなかった。
……けれど、世が平穏になったからといって、別にこの世から怒りや憎しみが完全になくなるわけじゃない。
人の怒りや憎しみを理解出来ること、
自分の中のそういうものを、飼い慣らせることは、
王の素質の一つだと思います。
曹丕殿には曹丕殿の思い描く天下がある。
曹丕殿下は
なにか上手く生きれず、弱々しくしか羽ばたけない。
でも自分の手なら望む時代を生み出せる。
そのために
優れた者は畑を問わないんだとか。
これは我らの総指揮官である
そこに生えていた枝に長い間留まっていた蝶が、 ふわ、と羽を広げ空に翔んでいった。
まともに話したこともこれまでほぼ無かった。
優れた軍師であるから、もっと戦場では冷淡な感覚を持っている男なのかと想像していたが、季節外れの蝶の例えなど、随分と情感的な部分がこの男の中には生きている。
ふと、
戦場で見せる姿と、普段の姿が全く違う。
双剣を手にして戦場に立つと瞳に戦気が現れるが、普段はああいう瞳を陸遜は見せない。
どうしたら戦場であんな苛烈な剣が振れるのかと思うほど、平時は穏やかな空気を纏っている人間だった。
司馬懿は戦場の陸遜は知っていたが、普段の姿は知らなかった。
陸遜や郭嘉はもっと自然に穏やかな感性を表現している気がする。
陸遜はまだ未知数だが、
郭嘉の軍才は疑いようがなく、この男の場合、戦も女も同じ情熱で愛でられることが異質な才だった。
陸遜に女を所望する趣味はないが、と考えふと、
司馬懿は陸遜に愛されているわけではないので分からなかったが、
殺すことと、愛すること。
この二つを共存させるためには、非常に高い知性と、柔和な感性が必要とされる。
司馬懿自身は共存させられない性質だった。
軍才はあるが、人への愛情がない。
人への愛情を欠落させた分、軍事に集中し、力を発揮する。
家族を溺愛する人間ではない。
陸遜は性質としては郭嘉に似ているのだろうか。
そんなことを初めて思った。
しかし陸遜の持つ誰とも似ていない、多彩な人間としての色は、確かに郭嘉の持つ多彩な才能の方に似ている。
「郭嘉」
「はい?」
遠ざかっていく蝶を見上げていた郭嘉が振り返った。
「お前は女の存在が煩わしいと思ったことはないか?」
え? と彼は瞳を瞬かせる。
「女に自分の時間を分け与えている時、無駄な人生を送っていると考えたことはないか」
司馬懿の質問の意味が分かりにくかったのか、少し郭嘉は反芻したようだが、一応噛み砕くことは出来たようだ。
小さく笑んだ。
「無駄な人生も何も……彼女達に惹かれない人生の方が無駄な人生ですよ。
戦をする。
命の遣り取りをする。
そればかりだったら私の人生は血と屍しかない。
でも彼女達と触れ合ってる時は、幸せや温かさを感じさせてもらえる。
私の時間を分け与えていると貴方は言いましたが、
私も彼女達の時間を分け与えてもらっています。
戦では勝利の美酒に酔えるし、
戦っている高揚感も味わえますが、
安らぎは無理です。
女性は私に安らぎや平穏を与えてくれる存在ですよ。
だから戦い続けられる」
陸遜が戦場であれほど輝いたのは、あの男を愛していたからなのだろうか。
初めてそんな発想に至る。
陸遜の失われた、戦場の感性。
欠落は戦場でしか取り戻せないと、そんな風に思ってここまで連れて来た。
「……驚きの答えだな」
司馬懿がそう言うと、郭嘉が少し声に出して笑っている。
「貴方は愛する女性がいないんですか。司馬懿殿。
女性も愛さず、
貴方の方が私は驚きですが」
郭嘉は歩き出した。
愛情を失ったから、それが上手く共存していた軍才を輝かすことが出来ない。
郭嘉の理論ではそういうことだ。
その理論では、司馬懿が陸遜の軍才の覚醒を心から望むのならば、
彼に愛される存在にならなければならないということになる。
誰かに愛されようと、努力などしたことのない司馬懿は眉を少し寄せた。
(馬鹿馬鹿しい……本当に戦う才があるならば、
戦場で掻き立てられる本能だけで剣は振れるはずだ)
――愛など。
道楽の一つで、
暇な時に手に取って遊べばいいものだ。
気晴らしでしかない。
愛することと、戦う意志が強く結びついていたのだ。
それは双翼のように寄り添って、
戦場を駆らせた。
(愛情を再び持ったらお前は、
戦う才を再び覚醒させるのか?)
ふと、側の補佐官に
「
そうだった。
先程そんなことを聞いたと思い出す。
「呼び戻しますか?」
補佐官がそう言った。
「……いや。いい。
今は大きな用事は特に無い」
司馬懿は深く腕を組み、涼州の晴れた空を見上げた。
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