第3話


 ――自分が涼州りょうしゅうで死んだら、曹操そうそうと会えるのはこれで最後かもしれない。


 だから最後に聞いておきたかった。


 荀彧じゅんいくは曹操の戴冠を許した。

 許しがたいことだったが、許したのだ。

 その曹操が、後継者に指名した曹丕そうひを冷遇するのを感じた時、静かな荀彧の心の底から、凄まじい怒りが吹き出して来るのを、郭嘉かくかは感じることがある。


 何故曹丕を冷遇するのか、

 憎しみを植え付け、父を憎むような、

 権力争いのような関係を敢えて作ろうとするのか、

 荀彧がそう問いかけてきた時、

 郭嘉は答えた。



『玉座は人の世の褒美じゃない』



 玉座に指名し、ただそこに座らせる。

 それはかん王朝がしてきたことだ。

 そういうやり方で、彼らは空虚になっていった。

 玉座に座ることが苦痛であり苦行であることを理解出来ない王は、また歴史を繰り返す。


「それでも愛情は、伝えられますよ」


 荀彧はもう泣いていなかった。

 いつも通りの優しい声で、郭嘉を論破してきた。

 郭嘉は曹操も荀彧も好きだったから論破されようがされまいがどうでも良く、笑って返しただけだったけど。


 荀彧がどんなに苦渋の決断で曹操の側に残ったかは知ってる。

 だから、最後になるなら聞いておかねばならないと思ったのだ。


『自分の子供の中にも、

 愛しいものと、そうでないものがいる。

 聡明さや素直さ、どれも違う。

 平等には愛せない。

 私は子供の頃から曹丕だけには後を継がせたくなかったが、

 曹昂そうこうが死に、

 曹沖そうちゅうが死に、

 曹丕を後継にする運命になった。

 その運命を、憎んでいる』


「では曹丕そうひ殿がどこかで死んでいたら、愛しましたか」


 曹操が郭嘉を見つめて来た。

 郭嘉かくかは目を反らさず、静かに見返した。


 死んでは駄目だと、荀彧じゅんいくに言ったのだ。

 曹操は彼を愛していると思ったから。


 荀彧がどんなに苦しんで曹操を理解しようとしたのか、郭嘉はそれだけは伝えておきたかった。

 自分が死んだら、荀彧と曹操が残される。

 残された二人が斬りつけ合うなんて嫌だ。

 だからこれだけは伝えておかなければならない。


「死んで愛せるような人間なら、

 生きているうちに愛してやらなければ愚か、か」



「私が分かっているのは、愛情というのは素晴らしいものだということだけです。

 それがあるだけで世界に光が射し込む。

 貴方や荀彧殿が、私にそれを教えてくれた」



 曹丕は多分、すでに曹操の愛情など欲していない。

 かつて幼かった頃は欲したこともあっただろうが、今は違う。

 彼は彼の愛するものをちゃんと見つけている。

 それは曹丕の強さなのだ。


 絶対に分かり合えない父と子はこの世にはいる。

 だけど、憎しみを煽るかどうかはまた別の問題だった。


 曹操が曹丕を憎むと、

 荀彧が悲しむ。


 だから憎しみは仕方なくても、

 これ以上煽らないでほしいとは思った。


 自分も、曹操に物を言ったことが無い。

 言わずとも分かってくれたから。

 言い争った事が無い。

 でも多分たった一度だけ逆らったことや、言い争ったことで、

 お前をもう信用しないとか、

 二度と来るなだとか言われたら、きっと自分も荀彧ほど傷つくのだろうと思う。

 その覚悟もして言ったつもりだったが、曹操は怒らなかった。


 何も言わず、郭嘉の頭を父親のような手で撫でて、笑みを見せると去って行った。


 最後は、夏侯惇かこうとんが送り出してくれた。


「風邪を引くなよ。

 ……必ず無事に戻れ」


郭嘉を一度抱き寄せて、彼は言った。


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