第45話『未来のライバル』
俺とピムの間にあった氷が解けてから、家の空気は少しだけ穏やかになった。
その変化を敏感に感じ取った母ノイが、「たまには息抜きも必要よ」と、週末に俺たち二人をバンコク中心部の高級デパートへ連れ出してくれた。
ひんやりとした冷房が効いた、きらびやかな空間。
息の詰まるような勉強部屋から解放され、俺もピムも、久しぶりに年相応の子供に戻ったような、晴れやかな気分だった。
「見て、ウィン! 日本の新しいゲームが出てるわ!」
ピムが、目を輝かせてゲームソフトのコーナーを指差す。その無邪気な笑顔に、俺の心も自然と和んだ。この笑顔を守るためなら、どんな苦労も厭わない。俺は、改めてそう思った。
その時だった。
穏やかなデパートの空気を切り裂くように、甲高い、横柄な声がフロアに響き渡った。
「まだ見つからないのか!? この役立たず! 僕が誰だか分かっているのか!」
声のした方に目をやると、俺たちと同い年くらいの少年が、若い女性店員に向かって、罵声を浴びせているのが見えた。
少年は、一目で分かる高級ブランドのポロシャツに身を包み、腕には大人びた腕時計をしている。その顔立ちは気品があるが、今は傲慢さと怒りで醜く歪んでいた。
「申し訳ございません、お客様。その商品は、ただいま品切れで……」
店員は、震える声で必死に謝罪している。
「言い訳をするな! 僕が欲しいと言ったら、今すぐ用意するのがお前たちの仕事だろうが! 僕の父さんは、このデパートの役員とも知り合いなんだぞ!」
少年は、聞くに堪えない言葉で、店員をさらに詰(なじ)る。
「……なんてひどい人」
隣で、ピムが嫌悪感を込めて呟いた。俺も、全く同感だった。
俺は、何も言わずに、その光景を冷たい目で見つめていた。
橘正人として生きていた頃、こういう人間を、俺は嫌というほど見てきた。
生まれた時から全てを与えられ、働く人間の苦労や尊厳を踏みにじることを、何とも思わない特権階級の人間。
銀行に頭を下げ、従業員の生活のために必死に戦ってきた俺が、最も軽蔑する種類の人間だった。
やがて、少年の母親らしき派手な身なりの女性が現れ、店員に謝罪させる代わりに、別の高価なオモチャを息子に買い与えて、その場を収めた。少年は、最後まで勝ち誇ったような顔で、店員を一瞥すると、母親と共に去っていった。
楽しいはずだった息抜きの時間は、後味の悪いものになってしまった。
デパートの帰り道、俺は、先ほどの少年の、あの傲慢な顔を思い出していた。
胸の中に、どす黒い嫌悪感が渦巻いている。
この時の俺は、まだ知らなかった。
あの少年の名前が、アーティットであることも。
そして、彼が、やがてSatit Chulaで再会し、俺の生涯のライバルとなる運命であることも。
だが、俺は確信していた。
俺がこれから戦い、そして支配しようとしているこの世界には、ああいう人間が数多く存在する。
そして、俺は、彼らのような人間を決して許さないだろう、と。
未来の敵との、最初の邂逅は、俺の心に、新たな闘争心という名の火を静かに灯した。
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