第30話『父の決断』

兄エークへの、父サクダーの怒りは凄まじかった。

その夜、屋敷中に響き渡った怒声は、長男としての彼の権威とプライドを、粉々に打ち砕いた。彼は無期限の外出禁止と、小遣いの差し止めを言い渡され、部屋に閉じこもるようになった。

ウォンラット家における権力の天秤は、その日を境に、決定的に俺へと傾いたのだ。


数日が過ぎた、ある日の夕食後。

父は、再び俺を書斎に呼び出した。

以前のような、探るような、あるいは試すような雰囲気は、もう彼からは消え失せていた。そこにあったのは、経営者が、最も信頼する腹心に向ける、真剣な眼差しだった。


「ウィン」

父は、デスクに両肘をつき、まっすぐに俺を見た。

「この数ヶ月、私はずっと考えていた。そして、一つの結論に達した」


彼は、ゆっくりと言葉を続ける。

「あのプレス機は、日本のものだった。それを買ったのは、日系企業の下請けだ。そして、お前が持っている、あの不思議な知識……。全てが、日本という国を指し示している」


父は、自分自身で答えにたどり着いたのだ。

俺が、彼にそうと思わせるように、巧みに誘導した、その答えに。


「我が社の未来は、日本との関係を、より深く、より強固にすることにある。私はそう判断した」

その声には、揺るぎない確信がこもっていた。


「お前の中国語は、我ら華僑の社会で生き抜くための武器だ。英語は、世界と渡り合うための盾になるだろう。だが、ウォンラット家が今、すぐにでも手に入れるべきは、日本という名の、最強の矛だ」


父は、立ち上がると、俺の肩に手を置いた。

「ウィン。お前には日本語を、ただの言葉としてではなく、文化、商習慣、そして日本人の思考そのものを、完全にマスターしてもらう」


そして、彼は宣言した。

「タイで最高の日本人家庭教師を探し出す。単なる語学教師ではない。日本のビジネスの最前線を知る、本物の男をだ」


俺は、内心の興奮を完璧に隠しきり、ただ、尊敬の念に満ちた息子の顔で、父を見上げた。

計画通りだ。いや、計画以上だ。

父は、俺が望む未来を、自らの意志で切り開こうとしている。


「お父様の、賢明なご判断だと思います」

俺は、静かに、しかし力強く答えた。

「必ず、ご期待に応えてみせます」


その言葉に、父は満足げに頷いた。

彼の中にあった、息子への畏怖の念は、今や、ウォンラット家の未来を託すに足る存在だという、確かな信頼へと変わっていた。


父は、その場ですぐに受話器を取り、日本の商工会議所の知人へと電話をかけ始めた。

「……ああ、俺だ。サクダーだ。実は、息子のために、特別な家庭教師を探している。ただの教師じゃない。日本のビジネスを、その魂まで叩き込めるような、一流の男を……」


受話器の向こうで、相手が誰かの名前を挙げたのが聞こえた。

その名前を、俺はまだ知らない。

だが、その人物こそが、俺の野望を加速させる、最強のパートナーとなる男、スズキその人であることを、この時の俺は、まだ知る由もなかった。

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