第23話『マリカの野心』
数学教師が、驚愕の表情でウィンを「天才」と評したという噂は、その日のうちに、ウォンラット家の隅々にまで広まっていた。
そしてその報は、母屋から離れた別棟に住む、もう一人の女の耳にも、もちろん届いていた。
父の妾、マリカ。
彼女は、自室の豪華なソファの上で、苛立たしげに長い指を組んでいた。
「……天才、ですって」
吐き捨てるように、その言葉を繰り返す。彼女の美しい顔は、嫉妬と、そして得体の知れないものへの恐怖で、わずかに歪んでいた。
目の前には、娘のピムが、不安そうな顔で立っている。
「ピム、聞きなさい」
マリカは、立ち上がると、娘の肩を強く掴んだ。
「あの坊や……ウィンは、もはやただの三男坊じゃなくなった。あの子は、怪物よ。この家の全てを、いずれ飲み尽くすつもりだわ」
彼女の声には、ヒステリックな響きが混じっていた。
「いいこと? この家で、私たち母娘は所詮、客人なのよ。頼れるものは、お父様の寵愛、ただ一つ。もし、あの坊やがその寵愛を独り占めしてしまったら……私たちは、また昔の、あの貧しい暮らしに逆戻りするのよ!」
それは、ピムに幼い頃から何度も言い聞かせてきた、マリカの口癖だった。
彼女の野心は、全て、貧しさへの恐怖から生まれていた。
そして、マリカは、娘に最終通告を突きつけた。
その瞳は、もはや母親のものではなく、勝負師のそれだった。
「お前も、Satit Chulaの試験を受けなさい」
「え……?」
ピムは、息を呑んだ。
「そして、ただ合格するだけじゃない。首席で合格するのよ。あの坊やを叩き潰して、お前こそが、このウォンラット家で最も優れた子供なのだと、お父様に、そして本家のあの女たちに見せつけてやるのよ!」
「で、でも、お母様……ウィンは……」
ピムは、思わず反論しようとした。ウィンの才能は、この数ヶ月、自分が一番近くで見てきた。あれは、努力だけで超えられる壁ではない。
だが、マリカは、娘の弱音を許さなかった。
「言い訳は聞きたくない!」
鋭い声が、部屋に響く。
「お前の美貌と、その頭脳は、そのためにあるのよ! 勝ち抜くための、あなたの武器でしょう!? これは遊びじゃない。私たちの、戦争なのよ!」
ピムは、母の鬼気迫る表情に、何も言えなくなった。
母の言う通りかもしれない。この家で生き抜くには、戦うしかないのだ。
そして……。
ピムの脳裏に、ウィンの顔が浮かんだ。最近、時折見せる、あの優しい顔。そして、全てを見透かすような、大人びた瞳。
彼と、本気で戦ってみたい。彼と同じ場所に、立ってみたい。
恐怖と、母への反発。そして、ライバルへの対抗心。
全ての感情が、ピムの中で混ざり合っていく。
やがて、彼女は、震える唇をぐっと引き結んだ。
目に浮かんでいた涙は、いつしか、強い意志の光に変わっていた。
「……分かったわ、お母様」
ピムは、母の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「受ける。試験、受けるわ」
そして、彼女ははっきりと宣言した。
「そして、絶対に、ウィンに勝ってみせる」
その言葉を聞き、マリカの顔に、獲物を狩る蛇のような、満足げな笑みが浮かんだ。
彼女の放った、最も美しく、最も危険な矢は、確かに、標的へと向かって飛んでいく。
ウォンラット家を舞台にした、二人の天才の、長い戦いが、今、静かに幕を開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます