第22話『家族の思惑』
あの夜の宣言は、ウォンラット家の朝を、まるで別のものに変えてしまった。
父サクダーの動きは、迅速かつ徹底的だった。彼は、一代で財を成した華僑のネットワークを最大限に活用し、朝からひっきりなしに電話をかけまくっていた。相手は、教育省の役人、チュラロンコン大学の教授、そして、受験戦争を勝ち抜いた他の華僑の有力者たち。
「金に糸目はつけん。タイで最高の家庭教師を、全教科分、今すぐに見つけてくれ」
その声は、もはや息子に教育を施す父親のものではなく、社運を賭けた一大プロジェクトを始動させる、経営者のそれだった。
対照的に、母ノイの心配は、より切実なものだった。
「ウィン、あまり根を詰めてはだめよ。ちゃんと、おやつも食べるのよ」
彼女は、栄養満点のスープや、頭に良いとされる漢方薬を、ひっきりなしに俺の部屋に運んでくる。彼女の愛情は、俺の成功ではなく、俺という十一歳の息子の健康と幸福にのみ向けられていた。
そして、長兄エークの反応は、予想通り、最も幼稚で、最も直接的だった。
父がいないのを見計らって、俺の部屋の前に立ちふさがると、嘲笑を浮かべて言い放った。
「おい、天才坊主。せいぜい勉強、頑張るんだな。お前が泣きべそかいて、試験から逃げ出すのが今から楽しみだぜ」
俺は、そんな彼の挑発を、ただ静かな笑みで受け流した。その無関心な態度が、彼の苛立ちをさらに煽っているのが、手に取るように分かった。
俺の心は、家族のそんな思惑の渦中にありながら、不思議なほど凪いでいた。
全ては、計画通りに進んでいる。
その日の午後。
父が手配した最初の家庭教師が、屋敷にやってきた。
現れたのは、チュラロンコン大学で教鞭をとるという、いかにも厳格そうな初老の数学教師だった。彼は、挨拶もそこそこに、俺を値踏みするような目で見た。
「まずは、君の実力を見せてもらおう」
そう言って、彼が差し出したのは、数枚のプリント。それは、中学編入試験の過去問をベースに、さらに難解な問題を加えた、診断テストだった。
「時間は、一時間だ。始めなさい」
父と、なぜか様子を見に来たエークが、固唾をのんで見守る中、俺はテストに取り掛かった。
問題に目を通す。なるほど、確かに難しい。普通の小学生では、手も足も出ないだろう。
だが――その程度だ。
俺の頭脳には、四十五年分の知識が詰まっている。三角関数も、微分積分も、とうの昔に通り過ぎた道だ。
俺は、淡々と、しかし驚異的なスピードで、解答用紙を埋めていく。
一時間後。
教師は、俺の解答用紙をひったくるように受け取ると、ペンを片手に採点を始めた。
最初は自信に満ちていた彼の表情が、採点を進めるうちに、徐々に驚愕の色に変わっていくのを、俺は見逃さなかった。
採点を終えた教師は、しばらく黙り込んだまま、解答用紙と俺の顔を、何度も見比べている。
エークが、待ちきれないというように口を開いた。
「先生、どうです? こいつには、まだ早すぎたでしょう?」
教師は、エークの言葉が聞こえていないかのように、ゆっくりと顔を上げた。
そして、信じられないものを見るような目で、父サクダーに告げた。
「……サクダー様。このテストは、中学編入試験の中でも、最高難易度の問題を揃えたものです」
彼は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あなたの御子息は……その八割以上を、完璧に正解しています。失礼ながら……私が、彼に教えることなど、一体何があるのでしょうか?」
書斎は、水を打ったように静まり返っていた。
エークの口が、間抜けにぽかんと開いている。
父は、驚愕と満足感が入り混じった、複雑な表情を浮かべていた。
俺は、ただ子供らしく、少し照れたように俯くだけだった。
この家の力関係を変えるための、次の一手は、完璧な形で成功した。
だが、本当の戦いは、まだ始まったばかりだ。
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