第10話『最初の準備』

祖父との対話があった、あの一族の食事会から数日後の深夜。

ウォンラット家の屋敷が静寂に包まれる中、俺は再び、音もなく自室のベッドを抜け出した。

向かう先は、父の書斎。

前回のような侵入者の緊張感は、もはやなかった。そこは父の聖域などではない。俺がこれから攻略すべき「戦場」であり、その戦況を把握するための司令室だった。


月明かりだけを頼りに、俺は決算書類の束をデスクの上に広げた。

手元には、学校で使うタイ語の辞書。流れ込んできた記憶と、前世の知識、そして辞書を頼りに、俺はタイ語で書かれた会計用語を一つずつ、パズルのピースをはめるように解読していく。


「……ひどいな」


思わず、ため息が漏れた。

数字が示す現実は、俺の予想以上に深刻だった。

売上総利益率が低い。父サクダーには機械の目利きができないため、価値のないガラクタを高く掴まされているか、あるいは宝の山を安く買い叩かれているかのどちらかだ。

在庫回転期間が異常に長い。売れない中古機械が、倉庫で眠ったまま、会社の資金を圧迫している。

そして何より危険なのが、リース事業の不良債権リスクだ。貸倒引当金の計上が甘すぎる。タイ経済が一度傾けば、この事業は一瞬でウォンラット家の息の根を止める時限爆弾と化すだろう。


橘正人として、俺が前世で見てきた倒産する会社の典型的な数字が、そこにはあった。


次に、俺は例の中古機械の資料を広げた。

今度は、ただ眺めるだけではない。俺は持参した、ごく普通の学生用ノートの最後のページを開き、日本語で書き込みを始めた。この家の誰も、この文字を読むことはできない。


――『ナカノ工業製 NRP-200』:現状、不良在庫。安全装置をタイの安全規格(TIS)に対応するものに変更。金型を小型化し、汎用性を高める。ターゲットはチョンブリー工業団地の日系自動車部品下請けA社。予想売上90000バーツ、利益率180%。交渉担当は父、技術的な助言は俺が『雑誌で読んだ知識』として行う。


――『コマツ製 PC200』:油圧シリンダーのパッキン交換で油漏れは止まる。アタッチメントを追加すれば、サトウキビ農園で活用可能。ターゲットは東北部の農園主グループ。輸送コストを考慮しても利益大。


ノートが、まるで未来を予言するかのように、具体的な計画で埋め尽くされていく。

機械の型番、問題点、具体的な改善案、ターゲットとなる顧客、そして予想される利益。それは、もはや子供の落書きなどではなかった。会社の再生を賭けた、緻密な事業計画書そのものだった。


窓の外が、わずかに白み始めてきたことに気づき、俺は手早く資料を片付け、全てを元通りに戻して書斎を後にした。


自室のベッドに戻り、ノートを机の奥深くへと隠す。

そして、窓から差し込み始めた朝の光を、俺は静かに見つめていた。


計画は、できた。宝の山の地図は、もうこの手の中にある。

だが、問題は、どうやってこの地図を父サ- クダーに信じさせ、彼を動かすかだ。

あのプライドの高い王に、十歳の息子の進言を、どうやって受け入れさせるか。


力ずくではダメだ。反発されるだけだ。

誘導し、気づかせ、あたかも彼自身が思いついたかのように行動させる。


俺の頭脳は、橘正人としての四十五年分の経験を総動員し、最初の、そして最も重要な「交渉」に向け、静かに回転を始めていた。

第一部の物語は、今、静かに幕を開けた。

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