第9話『野望の形』

祖父が去った後も、俺はしばらく東屋サーラーから動けなかった。

庭の喧騒が、まるで遠い世界の音のように聞こえる。俺の頭の中では、翁順昌ブンチューという男が語った八十年分の人生と、その言葉の重みが、繰り返し反響していた。


宝石。磨かなければ、ただの石ころ。

その輝きは、一族を、そしてこの国を照らすために。


橘正人として生きた四十五年間、俺は何を照らせただろうか。

守るべき従業員たちを守れず、親から受け継いだ小さな工場すら、守り切れなかった。最後は、雨の中で無様に命を散らしただけの、ただの敗者だ。


その敗者が、今、もう一度チャンスを与えられた。

健康な体。裕福な家庭。そして、未来を知る頭脳。

祖父は言った。お前も、その「宝石」の一つだと。


違う。

俺は、宝石なんかじゃない。

俺は、宝石を磨くための、砥石といしだ。


前世で果たせなかったこと、守れなかったものへの後悔。

今生で、自分の力を試したいという、どこまでも利己的な欲望。

そして、祖父から託された、「ウォンラット」の名を輝かせるという大義。


それら全てが、俺の中で一つの形を結んだ。


――「完全な勝利」。


金も、権力も、名誉も。

この人生で手に入れられるもの全てを、一切の妥協なく、この手で掴み取る。

それが、橘正人としての敗北を乗り越え、ウィン・ウォンラットとして生きる、俺の唯一の道だ。


決意が固まった時、俺の心は不思議なほど静かになっていた。

俺は立ち上がり、再び家族が集う庭へと戻った。


その様子を、母屋の窓から、祖父が静かに見つめていたことに、俺は気づかなかった。

東屋に入る前と、出てきた後。

たった数分の間に、孫の纏う空気が、まるで別人のように変わったことを、この老獪な創業者は見抜いていた。

子供の無邪気さが消え、代わりに宿ったのは、目的を定めた者の、静かで、しかし獰猛(どうもう)な光。


「……火を、つけてしまったか」

祖父は、誰に言うでもなくそう呟くと、満足そうに口の端を上げた。それは、かつての自分と同じ、全てを喰らい尽くさんとする野望の炎だった。


庭に戻った俺の目には、家族の姿が今までとは全く違って見えていた。

父サクダーは、乗り越えるべき、今の王。

兄エークは、排除すべき、無能な後継者。

母ノイは、守るべき、心の安寧。

そして、マリカとピムは……まだ分からない。だが、決して油断のならない、重要な駒であることは確かだ。


俺は、自分のやるべきことを悟った。

戦に勝つには、まず、戦場を知らなければならない。

このウォンラット家という戦場の、資産、負債、金の流れ、そして弱点。その全てを。


俺の視線は、父の書斎がある母屋の方角へと、静かに向けられていた。

本当の戦いは、今夜から始まる。

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