第2話『ウォンラット家』

次に意識が浮上した時、あれほど激しかった頭痛は嘘のように引いていた。

代わりに残ったのは、奇妙な感覚だった。俺は四十五歳の町工場経営者・橘正人であり、同時に十歳のタイ人の少年、ウィン・ウォンラットでもあった。二つの記憶、二つの人生が、混濁しながらも一つの精神の中に収まっている。


「……まあ、いい。死んだよりはマシか」


俺はウィンの声で、日本語でそう呟いた。前世の経営者気質が、この非現実的な状況を無理やり「現状」として受け入れさせようとしていた。嘆いても、喚いても、状況は変わらない。ならば、この与えられた駒で、どう戦うかだ。


その時、控えめなノックの音と共に、ドアが静かに開いた。

入ってきたのは、記憶にある「母親」――ノイだった。彼女は心配そうな顔でベッドに近づいてきた。


「ウィン? 大丈夫なの? お昼からずっと部屋に籠って……」


その声も、言葉も、流れ込んできた記憶の通りだった。そして、俺の口は、脳で考えるより先に、ごく自然に動いていた。


「大丈夫だよ、メー(お母さん)。少し、考えごとをしてただけ」


流暢なタイ語。自分の口から滑り出たそれに、内心で驚く。まるで、ずっと昔から使っていたかのように馴染んでいた。

ノイは優しく微笑むと、ウィンの額にそっと手を当てた。ひんやりとした、母親の手。その無償の愛情がじわりと伝わってきた瞬間、俺――橘正人の心の奥底が、ちくりと痛んだ。前世で、病気がちだった母親に、俺は一度でもこんな風に優しくしてやれただろうか。


「さあ、夕食の時間よ。お父様も、お兄様たちも待っているわ」


彼女に促されるまま、俺はダイニングルームへと向かった。

チーク材の重厚なテーブル。壁に飾られた、誰の作かも分からぬ抽象画。豪華だが、どこか冷たいその空間で、初めて「家族」と顔を合わせた。


食卓の主座には、父サクダーがふんぞり返っていた。四十代後半だろうか。日に焼けた肌、がっしりとした体格。華僑二世として、父の築いた財産をさらに拡大させた男の自信と、事業が停滞していることへの苛立ちが、その威圧的なオーラから見て取れた。


彼の隣には、十七歳の長兄エーク。父親似の体格だが、その目には覇気がない。プライドだけが高い、凡庸な跡継ぎ。

その向かいには、十四歳の次兄オー。母親似の甘い顔立ちをしているが、どこか締まりがなく、食事中も上の空だ。


この食卓は、戦場だ。

俺は瞬時に理解した。父という王が中央に座り、後継者たる長男がその言葉を待つ。ここは家庭の食卓ではなく、ウォンラットという会社の、冷たい会議室なのだ。


案の定、サクダーが口にしたのはビジネスの話だった。

「エーク、日本のAUS社との取引だが……」

「は、はい、父上」


トムヤムクンの酸味と辛味が鼻をつく。だが、この家の空気は、それ以上に張り詰めていた。


やがて、サクダーの矛先がエークの学業に向いた。

「それにしても、お前の成績はどうにかならんのか。これでは、いずれ会社の舵取りなど任せられん」

「……努力はしています」

不機嫌に言い返すエーク。そして、その鬱憤の矛先を、一番弱い存在に向けてきた。


「……こいつみたいに、一日中ぼーっとしているよりはマシですよ」


侮蔑的な視線が、俺に突き刺さる。

父の無関心な視線。母の心配そうな視線。長兄の侮蔑。次兄の無関心。

四方から向けられる、四つの感情。


俺は、何も言わなかった。

ただ、十歳の少年に戻ったかのように、純粋な笑顔を浮かべてみせる。


だが、その瞳の奥では、四十五歳の経営者の思考が、冷徹にこの「盤面」を分析していた。


――なるほど。面白くなりそうだ。


この日から、俺の二度目の人生の、最初の戦いが始まった。

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