バンコク夜明け前〜サパーンプットの向こう側で、禁断の絆を〜
@NASUBIN157
第一部:覚醒と胎動(1990年/10歳)
【転生と現状把握】
第1話『終焉と覚醒』
第一話『終焉と覚醒』
俺の最後の記憶は、いつも雨と油の匂いがした。
降りしきる冷たい雨が、プレハブの事務所のトタン屋根を執拗に叩く音。そして、もう動かなくなった機械たちが発する、酸化した油の匂い。デスクの上には請求書の山。守ると誓った従業員たちの顔が、その紙の裏にチラついては消えた。
橘正人、四十五歳。この町工場の、三代目社長。その肩書が、鉛のように重かった。
「……逃げ出したかった」
無意識に、声が漏れた。
何もかも捨てて、あのネオンが煌めく夜の喧騒に、安酒と女の匂いに、一晩だけでも溺れてしまえたら。どれだけ、楽だったか。だが、責任という名の鎖は、そんな逃避すら許してはくれなかった。
疲労困憊の体を引きずり、事務所を出る。降りしきる雨の中、傘を差す気力もなかった。
ふらつきながら横断歩道に足を踏み出した瞬間、世界が真っ白に染まった。大型トラックの、全てを飲み込むようなヘッドライト。衝撃はなかった。ただ、ああ、これでやっと終われるのだと、どこか安堵したことだけを覚えている。
◆
死後の世界というには、やけに生々しい感覚があった。
最初に感じたのは、不快なほどの熱気。日本のまとわりつく夏とは違う。もっと濃密で、湿度と、そして未知の香りをたっぷりと含んだ空気が、肌にまとわりついてくる。
次に、音。天井で大きな羽が気だるげに回る音と、遠くから聞こえる、けたたましい鳥の鳴き声。
ゆっくりと
視界に映ったのは、染みだらけのアパートの天井ではなかった。チーク材だろうか、褐色の美しい木目が組まれた高い天井。視線を巡らせれば、そこは明らかに日本の部屋ではなかった。簡素だが趣味の良い調度品。開け放たれた窓の外からは、熱風と共に、嗅いだことのない甘ったるい花の香りが流れ込んでくる。
何かがおかしい。
体を起こそうとして、二度驚愕した。
まず、鉛のように重かったはずの体が、まるで羽のように軽い。そして、視界に入った自分の手。それは、日に焼けてはいるが、皺も傷一つない、小さな子供の手だった。
「……なんだ、これ」
喉から漏れたのは、自分の声ではなかった。
甲高い、聞き慣れない少年の声。そして、その言葉は日本語ではなかった。意味は分からない。だが、なぜか俺は、今自分が発した言葉の意味を「理解」していた。
混乱の極みで、ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がる。おぼつかない足取りで、部屋に置かれた姿見の前に立った。
鏡の中には、見知らぬ少年が呆然とこちらを見つめていた。
年は十歳くらいだろうか。
艶のある黒髪に、華僑の血筋なのか、東南アジアの少年としては驚くほど色白の肌。そして、どこか日本人を思わせる整った顔立ち。
俺じゃない。橘正人ではない。
これは、誰だ?
「お前は、誰だ……?」
そう呟こうとした言葉が、再び未知の言語として口から滑り出た。
その瞬間、頭蓋の内側で何かが弾け飛んだ。
「ッ……ぐ、ぁああああ!」
激痛。
奔流のような映像と情報が、俺の意識を飲み込んでいく。
――少年の名前は『ウィン』。
――ウィン・ウォンラット。
――父親はサクダー、母親はノイ。兄はエークとオー。
――スクンビット通り、1990年、バンコク。
他人の、全く知らない10年分の記憶が、俺の45年間の記憶と無理やり混ざり合い、一つの人格を再構築しようと脳を焼き尽くす。
橘正人としての人生は、あの雨の夜に終わったのだ。
そして今、俺は、「ウィン」として、ここにいる。
その事実を叩きつけられた瞬間、俺の意識は、再び暗転した。
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