第32話 神と人の狭間、夢の断片と白い光

夢の中で神性を垣間見

彼は人間としての生を深く内省する。


秋の深まりとともに

越後の地は

冷たい雨に見舞われるようになった

関東での戦い

佐渡遠征

そして越後の政務

度重なる激務は

謙信の肉体を

深く蝕んでいた

彼は

疲労困憊の状態で

春日山城に戻ったが

その身体は

すでに限界に達していた

ある日

謙信は

激しい高熱に襲われ

病床に伏した

彼の顔は蒼白で

呼吸は荒く

その身体は

熱にうなされ

微かに震えていた

静や兼続は

彼の傍らを離れず

献身的に看病にあたった

彼らの顔には

深い心配の色が

刻まれていた

彼らは

謙信が

これほどまでに

衰弱している姿を

見たことがなかった

静の心には

綾姫の最期の姿がよぎる

「姫様…

どうか謙信公を…」

彼女は

心の中で

必死に祈り続けた


謙信は

熱にうなされながら

深い夢の中にいた

夢の中の彼は

かつて神であった頃の

自身の姿を見ていた

そこは

白い光に満たされた

無限に広がる空間だった

感情も

情も

痛みも

悲しみも

何一つ存在しない

ただ

絶対的な力と

冷徹な理性が

全てを支配する

彼は

世界全体を

見下ろし

全てを

知覚することができた

人の営み

生と死

喜びも苦しみも

全てが

彼にとっては

単なる現象に過ぎなかった

その力は

ひどく甘美で

心地よかった

何の迷いもなく

何の痛みもなく

ただ存在し続ける

それが

神としての彼だった


しかし

その光景の中に

かすかな違和感が生まれた

遠くから

微かに聞こえる

ある温かい音

それは

彼の記憶の奥底で

ずっと響き続けていた音

「綾丸…」

その音を追うように

彼の意識が

冷たい光の世界から

ゆっくりと離れていく

彼の脳裏に

白い椿の花びらが舞い落ちる

その花びらは

彼が神であった頃には

決して知ることのなかった

温かさを帯びていた

そして

花びらの中から

綾姫の姿が

鮮やかに浮かび上がる

彼女は

雪のように白い肌と

黒髪を持ち

その瞳には

深い哀しみが宿っていた

しかし

その哀しみの奥には

揺るぎない決意が

輝いていた

綾姫は

神であった彼に向かって

ゆっくりと手を差し伸べた

その手は

温かく

彼の心を

深く包み込む

彼女は何も語らない

ただ静かに

彼を見つめている

しかし

その瞳が

彼に

深く語りかけていた

「あなたはもう、ただの人です。あなたの命は、あなたのものです。」

その言葉が

彼の心に

直接響き渡る

それは

彼が自ら選んだ道

神性を捨て

人として生きる道

その道を選んだからこそ

彼は

痛みを知り

悲しみを知り

喜びを知った

そして

綾姫への深い愛を知ったのだ


夢の中で

綾姫が差し出した白椿を受け取る幻覚

その白椿は

純白で

清らかな香りを放っていた

その花は

彼の心を

温かく包み込み

彼に

新たな力を与えた

神としての全能感と

人としての脆弱さ

その二つが

彼の中で

激しく交錯する

しかし

綾姫の存在が

彼を

人としての道へと

強く引き戻す

彼は

神としての力を

再び手に入れることもできた

しかし

彼は

それを選ばなかった

人としての痛みを愛し

人として生きることを

彼は選んだのだ

それは

彼の「義」の根源であり

綾姫との「契り」の証だった


夢の終わりに

彼の目の前に

眩いばかりの

白い光が広がった

それは

神としての冷たい光ではなく

人としての温かい希望の光

神が去った後の

彼の空虚さを埋める

新たな「人としての希望」の光だった

その光が

彼を包み込み

彼に

新たな力を与えた

彼は

その光の中で

綾姫の微笑みを見た

彼女は

彼が人として生きることを

心から喜んでいるようだった


謙信は

目覚めた

身体の熱は

まだ残るが

彼の心は

かつてないほどに

研ぎ澄まされていた

彼は

自分が病に伏していたことを理解し

傍らに静や兼続が

心配そうに自分を見守っていることに

気づいた

静の顔には

安堵の表情が浮かび

兼続は

深く息を吐いた

「謙信公…!

お目覚めになられましたか…!」

静の声が震える

謙信は

静かに頷いた

彼の瞳には

以前よりも深く

澄んだ光が宿っていた

彼は

自らが神であったこと

そして

綾姫の犠牲によって

人となったこと

その全てを

はっきりと理解した

彼は

もはや神ではない

しかし

神の記憶を抱き

人として

この世に存在する

その存在こそが

綾姫の願いを叶える

唯一の道なのだと

彼は理解した

彼の胸には

人としての痛みと慈愛が

深く刻み込まれている

それは

彼の「義」の根源であり

彼を突き動かす力なのだ

謙信は

静に

かすかに微笑んだ

「心配をかけたな…」

彼の口から出た言葉は

静にとって

何よりも深い安堵をもたらした


直江兼続は

謙信の回復に

深く安堵した

彼は

謙信の瞳の奥に

新たな光が宿っていることを感じ取った

それは

神の記憶を抱えながらも

人として生きることを選んだ者の

強さと

そして

孤独の光だった

兼続は

謙信の傍らに立ち

その「義」の道を

支え続けることを

改めて誓った


越後の地は

秋の深まりとともに

穏やかな静寂に包まれていた

しかし

日本の各地では

いまだ戦乱が猛威を振るっている

謙信は

この越後の平和が

一時のものに過ぎないことを知っていた

真の平和は

天下が統一されて初めて訪れる

そのために

彼は

これからも

戦い続けなければならない

その覚悟が

彼の心に

強く宿っていた

彼は

綾姫の願いを胸に

「義」の道を

進み続けるだろう

毘沙門堂の前に立つ

白椿の木が

秋風に揺れている

その白い花びらは

綾姫の願いのように

清らかだった

謙信は

その白椿を

静かに見つめた

彼の行く道は

まだ遠い

しかし

彼は

決して諦めない

希望の光を胸に

彼は

歩み続けるだろう

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