第31話 毘沙門堂の再建、神と人の距離
民の信仰に戸惑いつつ
彼は神と人の距離を測り直す。
関東での戦いは
いまだ続いていたが
謙信は
一時的に越後へと戻っていた
兵の補充と物資の調達のため
そして
来るべき戦に備えるためだった
越後の地は
束の間の平穏に包まれていた
春日山城には
夏の暑さが去り
秋の涼やかな風が吹き抜けていく
謙信は
越後に戻ると
まず
老朽化していた毘沙門堂の再建を命じた
毘沙門天は
上杉家の守護神であり
民の信仰の中心でもあった
かつて彼自身が
毘沙門天の化身として顕現した場所
その記憶は
今も彼の胸に深く刻まれている
再建の命が出ると
多くの民が
喜んで奉仕に駆けつけた
彼らは
謙信を
毘沙門天の化身として
深く敬愛していた
男は
彼らのその信仰の眼差しに
戸惑いを覚えた
彼らが抱く「謙信公」の姿は
彼自身の真実とは
かけ離れているからだ
毘沙門堂の再建は
着々と進められた
木材を運ぶ人々の声
槌の音
そして
念仏を唱える声が
城下全体に響き渡る
謙信は
時折
再建現場を訪れ
民の働きぶりを
静かに見守っていた
民は
彼の姿を見ると
一斉にひれ伏し
熱心に祈りを捧げる
彼らの瞳には
純粋な信仰心が宿っていた
その信仰の深さに
謙信は
畏敬の念を抱くと同時に
深い戸惑いを覚えた
彼らは
自分を神として崇めている
しかし
彼は
もはや神ではない
神性を捨て
人となることを選んだのだ
その選択は
綾姫との契りによってなされた
彼の胸に
綾姫の消えゆく笑顔がよぎる
「名を継ぐは、あなたです」
その言葉が
彼の魂に響き渡る
謙信は
自らの過去と現在を
深く内省した
神であった頃の自分は
感情を持たず
ただ絶対的な存在として
世界を見下ろしていた
痛みも
悲しみも
喜びも
全てが無縁だった
しかし
綾姫との契りによって
人となり
彼は
民の苦しみに心を痛め
兵の犠牲に涙し
そして
綾姫への深い愛を知った
この人としての感情こそが
彼が選び取った
「義」の根源だった
民の信仰は
彼を神として祭り上げる
だが
彼自身は
人としての痛みを愛し
人として生きることを選んだ
この隔たりが
彼の心を
深く苦しめた
直江兼続は
謙信の苦悩を
間近で見ていた
兼続は
謙信が
民の信仰に戸惑っていることを察した
兼続は
謙信の傍らに近づき
静かに語りかけた
「謙信公…
民の信仰は
公を支える力にございます
それは
公が民の安寧を
願われるがゆえに
生まれるものでございます」
兼続の声は
深く
そして温かかった
謙信は
兼続の言葉に
静かに耳を傾けた
彼の言葉は
謙信の心を
わずかながらも
和ませた
兼続は
謙信の孤独を理解し
その苦悩を
共に分かち合おうとしていた
彼は
謙信の「義」が
神の導きではなく
人としての選択であることを
知っていた
しかし
その「義」が
民に希望を与えるならば
彼は
謙信の選択を
支持した
静もまた
毘沙門堂の再建現場を訪れ
民の働きぶりを見守っていた
彼女の瞳には
涙が溢れていた
綾姫が命を賭して守ろうとしたものが
今
こうして
民の信仰という形で
具現化されている
それは
静にとって
何よりも深い喜びだった
彼女は
姫の詩歌を
心の中で口ずさむ
「御胸の白雪、幾夜に積もらば
安らかに 民の寝息が 降る世こそ
私が見たき 春の夢なれ」
姫の願いは
謙信という存在を通して
民の心に深く根ざし
物語として
語り継がれていく
静は
謙信の孤独な背中を見つめながら
心の中で
祈りを捧げた
「姫様…
あなたの願いは
確かにこの世に
生き続けております」
謙信は
兼続の言葉と
静の祈りを通して
民の信仰の意味を
改めて理解した
民が彼を神として崇めるのは
彼が民を愛し
その安寧を願うからだ
彼らの信仰は
彼の「義」がもたらす
平和への希望の表れなのだ
そして
この信仰が
綾姫の犠牲を
「物語」として昇華させ
後世へと語り継いでいく
彼は
自らの真実を隠しながらも
民の信仰を受け入れることを選択した
それが
彼の「義」を
より深く
そして
より広範なものにする
唯一の道だった
再建された毘沙門堂は
以前にも増して
荘厳な姿を現した
堂内には
新たな毘沙門天像が安置され
清らかな香が立ち込めていた
謙信は
堂内で
静かに手を合わせた
彼の心は
穏やかだった
彼は
もはや神ではない
しかし
神の記憶を抱き
人として
この世に存在する
その存在こそが
綾姫の願いを叶える
唯一の道なのだと
彼は理解した
毘沙門堂の窓から差し込む
白い光が
彼を包み込む
それは
神が去った後の
彼の空虚さを埋める
新たな「人としての希望」の光だった
その光は
彼の行く道を
照らし
彼に
新たな力を与えた
越後の地は
秋の深まりとともに
穏やかな静寂に包まれていた
しかし
日本の各地では
いまだ戦乱が猛威を振るっている
謙信は
この越後の平和が
一時のものに過ぎないことを知っていた
真の平和は
天下が統一されて初めて訪れる
そのために
彼は
これからも
戦い続けなければならない
その覚悟が
彼の心に
強く宿っていた
彼は
綾姫の願いを胸に
「義」の道を
進み続けるだろう
毘沙門堂の前に立つ
白椿の木が
秋風に揺れている
その白い花びらは
綾姫の願いのように
清らかだった
謙信は
その白椿を
静かに見つめた
彼の行く道は
まだ遠い
しかし
彼は
決して諦めない
希望の光を胸に
彼は
歩み続けるだろう
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