第9話 越後統一、魂の囁き

圧倒的な武力と「義」の精神で

越後を統一する謙信。

しかし、勝利の影で、彼は戦で失われた

命の重みを深く感じる。

遥か遠く、白椋の木が風に揺れ、

彼の心に静かに語りかけるかのようだった。

それは、名なき願いが継承されるという象徴だった。


春日山城の庭に

雪が完全に解けてから

幾月かの時が流れた

桜は散り

新緑が山々を覆い尽くし

越後には

本格的な夏が訪れていた

謙信の治世は

順調に進んでいるかに見えた

民の暮らしは安定し

兵の士気も高かった

しかし

乱世の終わりはまだ遠く

周辺諸国との紛争は

絶えることがない

城下の畑には

汗を流す農夫たちの姿があり

収穫の喜びを願う

彼らの歌声が

遠くから聞こえてくる

その歌声は

平和の訪れを

静かに告げているようだった


謙信は

日夜

政務と軍事に励み

越後の統一に向け

着実に歩みを進めていた

彼の指揮の下

上杉の兵は

連戦連勝を重ね

「越後の龍」の名は

天下に轟き始めていた

彼の決断は迅速で

家臣たちは

その采配に

迷うことなく従った

戦場での彼の姿は

まさに

毘沙門天の化身

そのものだった


直江兼続は

謙信の傍らに仕え

その才覚を遺憾なく発揮していた

彼は

謙信の「義」の理念を深く理解し

その実現のため

献身的に尽力した

兼続は

謙信の指示を的確に伝え

兵の士気を高め

戦略の立案にも

積極的に関わった

彼の働きは

謙信の重荷を

大きく軽減していた

兼続は

謙信の孤独を

誰よりも理解している者だった

彼は

謙信が記憶を失っていながらも

これほどまでに

民を愛し

「義」を貫こうとする姿に

深い感銘を受けていた

その感情は

彼の謙信への信頼を

さらに強固なものにしていた


静もまた

小姓として

謙信の身の回りの世話をしながら

彼の内面を

静かに見守っていた

謙信は

記憶はないが

民を慈しみ

「義」を重んじる心は

綾姫そのものだった

しかし

時折見せる

彼の孤独な表情に

静は胸を締め付けられた

彼は

その「義」の根源が

どこにあるのかを

知らずに

戦い続けている

その事実が

静には

ひどく切なく感じられた

静は

姫が遺した詩歌の断片を

常に肌身離さず持っていた

それは

彼女にとっての

姫との絆であり

謙信を守るための

唯一の手がかりでもあった


越後統一に向けた最後の戦が

始まった

敵は

越後北部に勢力を張る

揚北衆(あがきたしゅう)

彼らは

謙信の記憶の空白につけ込み

謀略を巡らせていた

特に

中条藤資の縁者たちは

謙信を打倒し

新たな当主を擁立しようと

密かに画策していた

彼らは

越後各地に

謙信の偽者だという噂を流し

民の間に

不安を煽り立てた

謙信は

その謀略を知っていた

しかし

彼は

その噂に惑わされることなく

ただひたすらに

「義」の道を進むことを誓った

戦場では

兵の叫びと

刀のぶつかる音が

鳴り響く

空には

血の匂いが立ち込め

地面は

泥と血で染まっている


戦は熾烈を極めた

越後の山々は

兵の怒号と

剣戟の音に包まれた

謙信は

自ら先頭に立ち

敵陣へと斬り込んでいった

彼の刀は

光の軌跡を描くように舞い

次々と敵兵を

打ち倒していく

その姿は

まさに

毘沙門天の化身

「越後の龍」そのものだった

兵たちは

謙信の勇姿に鼓舞され

一丸となって

敵へと突き進んだ

彼の戦い方は

記憶のない彼の内側から

とめどなく湧き上がる

本能的なものだった

それは

神であった頃の経験と

そして

綾姫の魂が

彼に与えた力だった

彼の脳裏に

白い椿の幻がよぎる

そして

綾姫の囁きが聞こえる

「あなたの義は

必ずや

光をもたらす…」

その声が

彼の心に響き渡り

彼を突き動かした


数日間の激戦の末

謙信は

揚北衆を打ち破り

ついに越後を統一した

越後の地に

長きにわたる戦乱の時代が終わりを告げた

勝利の報告が

春日山城に届けられると

城内は

歓喜の声に包まれた

民は

謙信の偉業を称え

彼の名を叫び続けた

謙信は

城下を見下ろした

そこには

彼の勝利を

心から喜ぶ民の姿があった

彼らの顔には

安堵と希望の光が宿っていた

その光景を見るたびに

彼の心は

温かくなるのを感じた

この民のために

自分は戦い続けたのだと

その確信が

彼の心を満たした

**越中・信濃の諸将にもその名は響き渡り、上杉の名は他国へと波及し始めていた。**


しかし

勝利の影で

彼は戦で失われた

命の重みを深く感じた

多くの兵が命を落とし

多くの民が

傷つき

苦しんだ

彼は

静かに目を閉じた

脳裏には

戦場で散っていった兵たちの姿が

鮮明に蘇る

彼らは

何のために

命を落としたのか

この勝利に

どれほどの犠牲が伴ったのか

その問いが

彼の胸を締め付けた

彼は

戦の勝利を

心から喜ぶことができなかった

彼の心には

深い哀しみが

横たわっていた

城下からは

無邪気な声が聞こえた

「越後様が勝った!」「綾姫様が守ってくださった!」

子どもたちは小旗を振り

誰一人

戦の恐ろしさを知らぬまま声をあげていた──

その無垢な喜びと

彼の心に沈む重みが

深く対比された

**年老いた百姓が子の戦死を語りながらも、土を見つめて呟いた──「あの人の義に、土も泣いておる。これで、また種が蒔ける…」**


その夜

謙信は一人

庭の白椋の木の下に立っていた

夜空には

満月が輝き

白椋の木を

白く照らしている

風が吹き

木の枝が

ざわめくように揺れる

その揺れる枝の間に

かすかに

綾姫の姿が見えるような気がした

彼女は

何も語らず

ただ静かに

彼を見つめている

その瞳には

深い哀しみと

そして

彼の勝利を

慈しむような光が

宿っていた

彼は

綾姫の姿に

語りかけた

「姫…

あなたは…

何を願っていたのだ…?

この勝利に…

あなたは何を見る…?」

彼の問いに

綾姫は答えない

ただ静かに

そこにいるだけだ

しかし

その存在が

彼にとって

いかに大きな意味を持つのか

彼は理解していた

綾姫の存在こそが

彼の「義」の根源であり

彼を突き動かす力なのだと

その時

遥か遠く

白椋の木が風に揺れ

彼の心に静かに語りかけるかのようだった

「白椋とは、雪が落ちるたびに目覚める記憶。誰かの祈りが、名もなく咲く樹──」

…あれは、綾姫が最期の夜に詠んだ詞だったのかもしれない…。

その言葉が

彼の魂に深く響き渡る

それは

名なき願いが継承されるという象徴だった

謙信は

改めて

綾姫の願いを継ぎ

民のために戦い続けることを誓った

記憶はなくても

彼の魂は

すでにその使命を受け入れている

越後統一は

彼の新たな旅路の始まりだった

そして

その旅路の先には

さらなる戦いと

そして

綾姫との

魂の対話が

待ち受けているだろう

夜風が

彼の頬を撫でる

その風は

まるで

綾姫の優しい手のように

彼の心を

温かく包み込んだ

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