9-3 前と違う心の距離

re:十月一日 教室


 秋の曇り空が教室を覆い、開け放たれた窓から冷たい風が入り込んでいた。

 カーテンがゆっくり揺れ、夏の名残を引きずった空気が、少しずつ入れ替わっていく。


「はい注目〜」

 教卓に立った辰巳先生が、手にしたプリントをばさばさ揺らしながら言った。


「来週の水曜から中間テストな。範囲はこれにまとめてあるから各自で確認。……それと文化祭もあるから、委員長の飯田を中心に動くように」


 教室にどよめきが広がる。

「は? 来週?」「無理無理!」「もうちょっと余裕くれよ!」

 悲鳴や笑い声、ため息が入り交じる。


 その中でひときわ大きな声を上げたのは、クラスのお調子者・田中孝介だった。

「先生ー! 一之瀬と東雲は大丈夫なんすか? 転校生って勉強遅れてるんじゃないっすか?」


 笑いが広がる。

 先生は半笑いで肩をすくめた。

「そりゃ転校組には不利かもしれんけどな……この二人、転入試験でかなりの点数とってるぞ。田中、お前よりは安心できるわ」


「ええー!? 俺、公開処刑!?」

 机に突っ伏す孝介に、再び笑いの渦が起こった。


 私はヒナと顔を見合わせて小さく笑う。

「やばい……私ほんとに英語とか全然だめなんだけど」

「同じ……助けてほしいよ〜」


 ユウヤも頭を掻きながら苦笑する。

「俺も赤点フラグ立ってる。どうしよ」


 カレンはノートをぱらぱらめくりながら涼しい顔で言った。

「私は大丈夫かな。理系は好きだし、去年と傾向似てるし」

「え、カレンって頭良かったんだ!?」

 ヒナが素直に驚くと、

「才・色・兼・備、ってやつよ」と得意げに笑った。


 ——ああ、そうだ。

 ここから勉強会の流れになったんだっけ。

 私は胸の奥に小さな既視感を抱えながら、口を開いた。


「じゃあさ……今度、うちで勉強会しない? みんなでやれば集中できるかもしれないし」


 言った瞬間、教室がぱっと明るくなる。

「いいね!」「やるやる!」とヒナとカレンが即答。

 ユウヤは「ノート貸してくれるなら行く!」と笑った。


 そして隣に座るイオリ君と目が合う。

 彼は少し間を置いてから、ふっと口元を緩めて言った。

「……いいと思う」


 ——あれ?

 前の世界線の彼はもっと淡々としていた気がする。

 でも今は、どこか柔らかく笑っている。

 その笑顔に、心臓がひどく鳴った。


(違う……この世界線は、少しずつ違うんだ)



 勉強会の午後───


 土曜の昼下がり。

 私の家のリビングに、6人が集まった。

 低いテーブルの上にはノートと参考書とお菓子。

 笑い声が絶えず、部屋はまるで文化祭の準備みたいに賑やかだった。


「うわー無理。英語の長文読解、全然意味わかんない」

 ヒナが頭を抱えると、イオリ君が横から静かに覗き込む。


「ここは助動詞の後に原形を使うんだよ」

「えっ、すご! 一之瀬くん、分かりやすい!」


 驚いたヒナに、彼は少しだけ微笑む。

 その表情が、やっぱり優しい。

(やっぱり……違う)


「イッチーやるじゃん!」とユウヤが冷やかすと、

「……その呼び方はどうなんだ」と苦笑しながら返す。

 そのやり取りすら、前より柔らかく見えた。


 私は自分のノートを見つめ、ちらりと視線を上げる。

 春樹が隣に座り、数列の問題を一緒に解いてくれていた。


「ここは式を整理すると楽だよ」

「ほんとだ……ありがとう、ハルキ君!」


 嬉しそうに笑う私を見て、春樹も照れたように微笑む。

 その視線に気づいたのは——イオリ君だった。

 彼の目が無意識にこちらに向く。

 けれど何も言わず、ただ伏せた目に影が落ちる。


 ……その揺れに気づいた瞬間、頭の奥がぐらりと歪んだ。


【世界線同化率:85% → 83%】

(やばい……また下がった……)


 思わずノートに視線を落とす。

 胸の奥でざわつく気持ちを必死に抑え込んだ。



 勉強会の終わり───


 夕食を一緒に囲んだあと、玄関先で全員を見送る。

「今日はありがと! また勉強しようね!」

 私が笑顔で手を振ると、みんな口々に「楽しかった!」と答えてくれる。


 ユウヤがイオリ君に向かって軽口を飛ばす。

「じゃあな、イッチー!」

「……まあ、好きに呼べばいいさ」

 わずかに眉を下げながらも、彼の口元には確かに笑みが浮かんでいた。


 その笑顔が、どうしようもなく胸に残る。

 ——こんなふうに笑う人じゃなかったはずなのに。


【世界線同化率:83% → 81%】

 視界がふっと二重に揺れ、イオリ君の横顔が重なって見えた。

 前の世界線と今の世界線。

 その両方の記憶がぶつかって、私の中できしむ。


 私は小さく息を吐き、ひとり玄関に取り残されながら呟いた。

「……やっぱり、違う」


 胸の奥で震える気持ちを押し殺しながら、

 それでも、ほんの少しだけ嬉しいと感じてしまった自分が怖かった。


 【美月の日記 十月一日】


 今日は、みんなでうちに集まって勉強会をした。


 ヒナはいつも通り大騒ぎで、ユウヤは冗談ばっかりで、カレンは頼れるしっかり者だった。

 春樹くんは相変わらず勉強が得意で、すぐに私のわからないところを解いて見せてくれた。

「やっぱり春樹くんはすごいな」って、素直に思った。


 ……でも。

 そのとき、イオリくんがこちらを見ていた気がした。

 ほんの一瞬だけ、彼の目が揺れたように見えて。

 どうしてか、それが胸に引っかかっている。


 前の世界では、イオリくんはもっと淡々としていた。

 笑顔を見せることなんてほとんどなかったはず。

 でも今日の彼は……優しく笑っていた。

 ヒナに教えるときも、ユウヤにからかわれたときも。

 私に向けてじゃないのに、なのに——心臓が鳴った。


 ……だめだ。

 この気持ちを追いかけたら、また「世界線」が揺れる。

 あのときもそうだった。

 今日も数字が落ち、頭の中が一瞬ぶれた。


 私が任務を忘れてしまったら、全部が壊れてしまう。

 イオリくんを未来に帰すために、私は記憶を消さなきゃいけないのに。


 それでも。

「優しい笑顔のイオリくん」に触れた瞬間、どうしようもなく嬉しかった。

 泣きたくなるくらいに。


 ——やっぱり、違う。

 前の世界線と今の世界線。

 どちらのイオリくんも私の中で混ざって、私はどうしたらいいのかわからなくなる。

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