8-5 答えは風の中、恋は帰り道の中

 re:九月十一日──


 校門の影が長く伸びて、歩道の端っこを淡い橙が塗っていく。風がさらりとスカートの裾を撫でて、どこか遠くで鈴虫が鳴いた。


「イオリ君、帰ろー」

「……ああ」


 もう、それが当たり前みたいに口から出る。彼の返事も、いつもの短さで、でもちゃんと私に向いている。そんな気がする。


 並んで歩き出すと、靴音がリズムみたいに重なる。少し前より、肩と肩のあいだが近い。近いのに、怖くない。むしろ、その近さのほうが落ち着く。


「ねえ、変なこと言っていい?」

 夕焼けに溶けるみたいな声で切り出す。言ってはいけない気がするのに、言いたい気持ちの方が強い。


「私……前にも、イオリ君とあったことある感じがするの」

 言ってしまった。胸の奥がきゅっと鳴る。

「この帰り道とか、話してる時間とか。ほんとは、もう知ってるみたいな……。変だよね」


 イオリ君がわずかに首を傾げて、私の横顔を見る。風で前髪が揺れて、視界が一瞬だけほどけた。


「……そう感じることは、あるのかもしれない」

 彼の言葉はいつも通り少ないけれど、否定ではなかった。それだけで、救われる。


 信号が赤に変わって、二人で足を止める。横断歩道の白線が、夕陽で薄金色に見えた。

「イオリ君って、やっぱり落ち着いてるね。安心する」

「そうか」

 短い返事。けれど、静かな肯定がちゃんとそこにあった。


 青になって、また歩き出す。言葉が喉まで上がってくる。

(今なら言える。もっと、近づきたいって)


「これから、もっと仲よ――」


 脳内にあの声が響く―

〈第8条 該当リスク検出。〉

〈世界線同化率:82% → 80%(低下)。〉

〈推奨:対象との関係深化行為の回避。発話抑制をお願いします。――〉


 息が詰まった。足が止まる。

世界が一瞬だけ、音を落としたみたいに静かになる。胸の高鳴りに、蓋をされる感覚。近づいちゃいけない──そう突きつけられた。


「……っ、ごめん」

 何も続けられなくて、立ち尽くす。理由を言えない涙が、勝手にあふれてきた。頬が熱くなる。視界がにじんで、白線が波みたいに揺れる。


 イオリ君が横で足を止める。私の方を見て、眉が少しだけ寄る。だけど、何も言わない。触れもしない。ただ、そこにいる。


 わかってない顔だ──どうして私が泣くのか。そうだよね、言ってないんだもん。言えないんだもん。


「……風、目に入っちゃって。大丈夫」

 自分でもわかるくらい下手な言い訳をして、指の甲で涙を拭う。彼は小さく頷いた。


「……そうか」

 それだけ。責めないし、追い詰めもしない。その沈黙が、どうしようもなく優しくて、また泣きそうになる。


 電車の走る音が遠くを横切っていく。私たちは歩き出す。横並びのまま、いつもの速度で。少し距離を戻して、でも離れすぎない場所に落ち着いた。


(近づくほど、同化率は下がる。好きって言葉が喉まで来ると、世界が退く。)

 それでも、私の足は彼と同じリズムで進む。抑えることと、諦めることは、同じじゃないから。


 夕焼けが私たちの影を長くして、街の音は暮色に溶けた。泣いたことの理由はどこにも置けなくて、胸の中だけが少し軽くなった。


 それでも好きだ、と思う。言えないままで、思う。


 ――玄関の前で足が止まる。


「じゃあ、また明日ね」


 いつものように、笑って手を振ろうとした。けれど喉の奥に何かが引っかかって、声が上手く出ない。

 頭の片隅では、あの「警告」の音声がまだちらついていた。


 イオリ君は気づかないふりをしているのか、それとも本当に知らないのか。横顔はいつもと変わらない静けさで、私の胸のざわめきだけが浮き立っているみたいだった。


「……気をつけて帰ってね」


 ようやく絞り出した言葉に、彼は短く「また」と返す。その淡白さが、かえって私を安心させるような、突き放されるような、不思議な感覚を残す。


 ドアが閉まった瞬間、張り詰めていた息がどっと溢れた。背中を預けて、玄関の扉に手をつく。

 心臓の鼓動はまだ早く、耳の奥で警告の声が残響している。


 足を重く引きずりながら階段を上がり、自分の部屋に戻る。机の上に広げたノートが目に入った。

 ペンを取る手がかすかに震える。今日の出来事を残さず書き留めないと、あの警告も、自分の気持ちも、消えてしまいそうで怖かった。


【美月の日記 9月11日】


 校門の前で「一緒に帰ろ」って言った。もうそれが自然になってる。私たちは並んで歩いて、同じ速さで家に向かう。

 言っちゃった。「前にもあったことある感じがする」って。本当のこと。イオリ君は否定しなかった。それだけで嬉しかった。


 でも、そのすぐあとに──頭の中で警告が鳴った。

 〈世界線同化率:82% → 80%〉。〈関係を深めるな〉って。

 「好き」って言いたくなると、数字が下がる。世界が邪魔してるみたい。


 横断歩道の真ん中で泣いてしまった。イオリ君は何も言わずに隣にいてくれた。理由はきっとわかってないと思う。でも、それでいい。

 ……イオリ君は、今日の事どんな報告書を書いてるんだろう。


 もっと近づきたいのに、近づいたらダメになる。

 でも、離れたくない。

 どうしたらいいのか、全然わからないよ。

 

 ただ一緒に歩いた今日のことは、ちゃんと残しておきたい。

 ──いつか忘れることになっても。

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