第十八章 ラスト・ファクト


   fact 1


 三朝を載せたボートが走り去っていく。雨降りしきる霞んだ川面を、猛スピードで遠ざかっていく。

 ざんざんと雨に打たれながら、2人は見送った。

 幌は傍らの隼人に言った。

「いいのか、これで」

 隼人は答えない。幌はもう一度、訊いた。

「いいのか、椎名」

「……そう思うよりない」

「そうか」

 去って行くのに。

 連れ去られていくのに、三朝が。

 おまえの中に警告音は鳴ってないのか?

「だったら何も言わねーよ」

「そうしてくれ」

 隼人はつらそうに、そう言った。そして、おもむろに携帯電話を取り出す。

 画面を見、幾つかボタンを押して電話を掛ける。

「俺だ……ああ、行った。頼んだぞ」

 ピッと終話ボタンを押して、電話を切った。

 隼人はそのまま立ち尽くしている。険しい顔をして、濡れた髪から雫が落ちるのも気にせず、もう見えなくなったボートが走り去った方向を眺めている。

 きっと死ぬほど痛いんだろう。

 本当は死ぬほど追いたいんだろう。

 心を殺しているのだ。

 椎名は心を殺している。

 だったら俺も、そうするっきゃないわな?

「行くぞ」

 断ち切るようにそう言って、踵を返した隼人の後を幌は追った。

 目前を隼人は歩いていく。ずぶ濡れになった背を見せて、たったと歩いていく。顔は少し俯き加減で何を考えているのか、何を思っているのか、幌には読めるようで読めなかった。

 やがて車を停めたホテルの駐車場に辿り着く。

 車のロックを開けた隼人の手から、幌はやんわりとキーを奪い取った。一瞬、驚いた顔をした隼人だったが、頷いて助手席に回った。

「濡れたままでもいいの?」

「気にするな」

 そう言った隼人自身、濡れそぼった体を倒れ込むようにして車に滑り込ませている。幌も運転席に乗り込んだ。

 隼人はコンソールボックスから取り出したタオルを幌の方へ投げつけた。仕事柄いつ濡れても平気なように、タオルの類は幌も車に積んでいる。幌は礼を言って受け取り、体を拭いた。

 しかし、隼人はろくに頭も拭かず、タオルを被ってシートに体を埋め込んでいる。疲労の濃い様子でそうしているのを、幌はしばらく見守った。

 雨はどんどん勢いづいていた。天井から車体を打ち付ける激しい雨音が響く。傾斜のついたフロントガラスの上を、小波を描きながら水が流れ落ちていく。勢いづいて降る雨は視界をも遮断し、向かいに停まる車のノーズすらもぼやけはじめていた。

 こんな時の雨は、あまり歓迎できるものではない。

「ひどい降り方だな」

 幌は思わず呟いていた。だが隣にいる隼人の言葉はない。隼人は憔悴し、傷心しきっている。黙って、その痛みを受け止めている。こんな姿を隼人は誰にも、おそらく付き合ってきた女にも見せたことはないだろう。隼人を見つめながら、幌はぼんやりそう思った。

 隼人は相当、参っている。そして、その気持ちは痛いほど分かるような気がした。幌はその隼人の心に石を投げ込まないよう注意しながら訊いた。

「とりあえず待機ですか」

「……ああ」

 くぐもった声で隼人は返した。幌はうなずき、後部座席に置いてあるノートパソコンに手を伸ばした。

「じゃあ、そろそろ準備しておきます。そのうち宏司から連絡があるでしょう。心配ないですよ」

 パソコンを膝の上で開きながらそう言ったが、我ながらカスにもならない気休めだと思った。そんな言葉が、どうして慰めになるだろう。他ならぬ自分自身が不安で堪らないというのに。

 でも言わずにはおれなかった。

「大丈夫ですって、絶対」

 すると息を吸い込み、隼人は言った。

「なんで、敬語に戻る?」

「仕事中は、」

「やめてくれ。いまは特に責められているようで堪える」

 本当に心底堪えている声で言う隼人に、幌はあえて笑った。

「悪い。そんなつもりはなかったんだけど」

「分かってる」

 隼人は笑わなかった。深いため息をつき、また黙る。受け止め、耐えている。

 幌は無言でパソコンの電源を入れ、作業に入った。

 そして、ややあって隼人は幌の名を呼んだ。

「幌」

「ん」

 お互い、声に覇気はない。

「俺は……」

 隼人はそう言いかけて、口を噤んだ。タオルで顔を覆ったまま、苦しげに息を吐き出す。

「どうしたのよ」

 幌は思わず、いつもより少し優しめに訊いていた。しかし隼人の返事はない。言いかねているのだと思った。幌に打ち明けるのを躊躇っているのではなく、口にすることで現実に自分自身に認めてしまう事を恐れている。

 しかし隼人は吐露する事を決意した。

「俺は……あれで良かったのかどうか、分からない」

 無言で、幌はその言葉を受け止めた。隼人は声を震わせていた。隼人のそんな声を聞くのは初めてだった。でも以外だとは思わなかった。

「おまえに訊かれて、正直、堪えた。あの場をあれで済ませて本当に良かったのかと問われれば、断言できるだけの自信はない。俺は怖い。行かせるんじゃなかった。こんな作戦に……出るべきじゃなかった」

 隼人は泣いていた。おそらくタオルの陰で後悔の念に打ち震えている。幌は息を吸い込み、吐き出した。

 そりゃそうだろ。

「でも、実際こうするしか無いじゃん、三朝の事を考えたらさ。俺もそう思ったから、おまえに同意したのよ?」

 幌は訊いた。

「それに、あるんだろ? 三朝を行かせても大丈夫だと思える、何かがあるんだろ? だから見過ごしたんじゃないの?」

 隼人は答えない。しかし幌はそれを『否定』だとは思わなかった。ただ全面的に肯定しきれない、迷いだと理解した。

「だったら大丈夫じゃない? 俺は椎名に限って失敗はないと思ってるし」

「……馬鹿いうな」

「少なくとも、一緒に働いたこの半年は見てないね」

 幌は強く明るくそう言った。

「あ? そうだろ、椎名。俺はおまえが失敗したなんて話はちょっとも聞いた事がないね。いかにおまえが優秀かっつう話なら腐るほど耳にしたけど。それこそ思わず嫉妬しちゃいそうなくらいよ。おまえみたいのが同期にいて、比べられるこっちの身になったことある? ま、俺は給料さえ貰えりゃ文句はないし、気楽な方がいいからさ。気にしてないんだけどね。逆に椎名がいて、総監とか長官とか、んなメンド臭い立場に就かなくて済みそうだから安心してるし」

「えらく買い被られたもんだな」

 隼人は少し笑いを漏らした。

「当たり前じゃん。この俺を差し置いて主任やってんのよ? おまえは。同期でありながら1歩も2歩も先を行ってんじゃないの。買い被りじゃないね、現実だよ現実」

「よく言うよ。今度出来る4隊の主任、辞退したんだろ」

「あれ? 知ってんの」

「当たり前だ。あんな逆サプライズ人事、噂にならないわけがない」

「逆かあ。あはは。逆サプライズは良かったな」

 幌は笑った。隼人がタオルを引き摺り下ろし、その顔を見せた。もういつもの顔に戻っていた。

 幌はニヤリと、したり顔を作った。

「キたじゃん」

「すまなかった」

「まったくだよ。こんな時に、泣き言なんて言わないで欲しいね。なんで俺がおまえを慰めなきゃなんないんだっての。まったく、かんべんカンベン」

「そりゃ三朝がいいよな」

 隼人はボソッとそう呟いた。

「……なんだって?」

「いや、別に」

「あそ」

「しかし、ひどい雨だな」

「そーなのよ。大丈夫かな、宏司くんたち」

 幌はそう言いながら窓の外に目をやった。容赦ない雨が、白い飛沫のカーテンを作っている。周囲に停まる車も、空高くそびえるホテルの建物も、その向こうに霞んでよく見えなくなっていた。

 隼人がタバコを取り出している。その仕草に、幌も思い出したようにパッケージを探った。

 そして無線が鳴る。隼人が取ると、焦りに我を失った宏司の声が響いてきた。

『目標、失跡しました! 雨に霞んで逃走された模様! 繰り返します、目標、失跡……』



   fact 2


 白い、白い白い白い、真っ白い世界。

 そこへ突然、投げ出された。

 三朝は目を瞑り、開けた。

 でもやっぱり真っ白の世界だった。

 自分の体をあらためた。

 着ているものまで真っ白だ。

 自分と、真っ白のワンピース。

 それ以外には何もない。

 3次元も4次元もない。

 延々と白だけが続いている。

 果てしなく、果てしなく。

 ここは、なんだ?

 なんだ、ここは。

 どうしてこんな場所にいる?

 こんな場所で何をしている?

 わからない。

 ぜんぜんわからない。

 ぜんぜん意味が分からない。

 ふと。

 足首に温い何かが這い伝った。

 見てみた。

 赤い液体が広がろうとしていた。

 血?

 だとしたら自分の体内から出たものだろう。

 アタシ、血なんて流してた?

 そう思ったとたん、赤い液体は消えた。

 なんだ。

 ちがうよね。

 血は流してない。

 ん?

 じゃあなんだ?

 何なら流したっていうんだ?

 体内から流すもの……?

 風邪は引いてないし。

 そういうコトもしてないし。

 他にあるとしたら。

 涙?

 ああ。

 言われてみれば。

 確かに泣いてるね。

 泣いてる泣いてる。

 悲しくはないんだけどね。

 なんでだろうね。

 痛いのかな?

 子供は痛いと泣くけどね。

 この歳になっても泣くんだろうか?

 いや、でも。

 涙が出るほど痛いって言うな。

 痛いと涙が出るんだな。

 じゃあ痛いんだ。

 でも、何処が?

 痛いって何処が?

 

   fact 3

 

 目を醒ますと、三朝は暗闇の中に居た。

 なんだ? ここは。

 何も見えない、暗いから見えないのか、それとも本当に何もないのか、それすらも分からない完全な暗闇に寝そべっていた。

 意識がひどく朦朧としていた。熱に侵されたように混濁している。そして実際、体が熱い。物凄くだるくて起き上がれない。自分の置かれた状況がよく分からなかった。

 そのうちに目が慣れ、暗闇が薄闇程度に見えるようになって来る。目だけを動かして室内を探った。

 コンクリート打ちっぱなしの四角い部屋だった。それほど狭くはない。正面に扉、中央にはテーブルとソファが見える。

 三朝は部屋の奥に据えられたベッドの上に寝かされていた。親切なことに頭には枕が宛がわれ、体には白いシーツが掛けられている。ベッドを沿わせた壁の上部は窓になっているのか、遥か頭上に暗幕らしき布が垂れ下がっていて、その横に取付けられた空調が冷風を送り出していた。

 そうして部屋を眺めていると、少し意識がハッキリしてきた。三朝は体を起こそうと手を突いた。

 その途端、左わき腹に激痛が走った。

 全身の毛穴をブチ開けるような猛烈な痛み。息が出来なくなり、三朝はその場に突っ伏して悶えた。肋骨がガンガンに痛む。まるで鋸でゴリゴリと断ち切られているかのように痛む。骨折の経験がないので折れた時の痛みというものを知らないが、そうだとしても全く異論はなかった。

 しばらく耐えて痛みが引き始めた頃、三朝は起き上がるのを諦めることにした。大きな息を繰り返し、強張っていた体の力を抜いた。

 その瞬間、頭上で『シャラン』と、金属的な音がした。

 背筋がにわかに冷たくなった。今まで感覚のなくなっていた右腕が急に痺れ始める。なぜか右腕だけがバンザイをするように付け根から上へと放り出し

 まさか、という思いに駆られ、三朝は頭上を振り仰いだ。


 ベッドの柵と自分の腕が、手錠で繋がれていた。


 熱でトリップしていた意識が覚醒した。

 全てを思いし、絶句した。

 三朝の脳裏に橋の上に佇んでいた男が甦る。

 戦慄が背筋を這い上がり、慌てて目を閉じ、その影を振り払った。

 ……男は何処へ行った?

 部屋の中にはもちろん、外にも気配を感じない。三朝を繋いだ事に安心し、何処か離れた場所に行ってしまったのだろうか。

 三朝は咄嗟にズボンのポケットをまさぐった。

 しかし当然ながら、そこに入れたはずの手錠の鍵はなかった。男が持ち去ったのだ。人を拘束するのだから、普通はそうする。

 そう思ったとき、頭をさらに『!』がかすめた。

 確か、雨に濡れたのじゃなかったか? 

 でも服は濡れてない……。

 三朝はぐっと首をもたげ、急いで体を改めた。

 ベッドの上なので靴は脱がされているが、幸い、服は記憶にあるものと同じだった。

 ただ、ジャケットとホルスターが、ない。

 ……ホルスター?

 けん銃持ってた、かな。

 ないんだけど。

 一大事だった。あんな物、失くしたら『クビ』になるどころか、それこそ一躍『トキの人』だ。


 JPO創設後初の不祥事発覚! 

     女性警部けん銃紛失!

  「彼女は普段からボーっとして頼りない人で

したからね。やるとは思ってましたのよ。

          (24歳、内部医療施設職員)」


 そんな幻想が見えた気がして、非常にマズい事態になっているのだと気付いた。

 なにしろ殊さら状況が悪い。怪我と発熱で起き上がれない上、手錠で繋がれている。周囲には武器になりそうなものは何ひとつない。こういうのを『絶対絶命』というのではないだろうか。

 なんてことだ。これでは自分の身を守れるかどうかすら危ういじゃないか。

 息が荒くなり始めた。熱が上がっているのだ。体が焼けるように熱い。事態の悪さに恐れをなして、拒絶反応を起こしているとでもいうのか。

 しっかりしろ。

 これからだ、本番は。

 三朝はもう一度、部屋の中を見回した。

 一体、どのくらいの時間が経っているのだろう。

 部屋の中に時計はない。携帯も全てジャケットの中だ。窓も暗幕で塞がれている。時間を知る術はない。

 男はじきに戻ってくるだろうと思った。三朝をこのまま放っておくような事はしないはずだ。男には目的がある。それが三朝の何であれ、男は必ず達成しに戻ってくる。

 次はもう恐れてはならないのだ。

 三朝にも目的があるのだから。

 そのとき部屋の外に足跡が聞こえ始めた。かんかんと、階段を登るような足音がこの部屋へと近づいてくる。三朝は身構え、息を呑んだ。部屋のドアをジッと注視した。

 帰ってくる。

 男が帰ってくる。

 そして後半戦が始まる。



  fact 4


 男と三朝を乗せたボートは、H庭園沿いの築地川から隅田川を北東へ登り、越中島で大横川に入った後、木場から東京湾にかけての入り組んだ水路を複雑巧妙に駆けずり回り、追跡班を翻弄した。追跡班は必死にボートを追ったが、夜間であり、また雨と霧に阻まれて視界は不明瞭であったために、追跡は困難を極めた。

 そしてボートはついに、大横川と汐浜運河の合流地点において、忽然とその姿を消した。

 その報告を受けた隼人の指示により、直ちに水陸両方からボートの捜索が行なわれた。そして、ほどなくして枝川橋の南約100メートルの地点に、漂流する無人のボートが発見された。

 漂流していただけに、その地点で乗り捨てられた物か、何処からか流された物なのかの判断はつかなかったが、まだエンジンが温かかった事から、捜査班は男が乗り捨てた物にほぼ間違いないと断定、男が車に乗り換えたと見て捜査を展開する方針を決定した。

 現在、不審車両の検出も含め、付近一帯を捜査中である。


 時計が夜中の3時を指した。三朝が男に連れ去られて2時間近くが経過していることになる。

 隼人と幌は相変わらず行動を共にしていた。汐留のホテルを出た後、一度本部に戻り、そして今はまた、隼人の車で都内を走っている。

 2人とも、本部を出てから無言だった。

 本部に戻った際、三朝が連れ去られた経緯を報告するため、2人は佐木沢のもとを訪れていた。

 三朝が犯人に接触する、この機会を逃してはならぬと他の幹部たちに猛攻を受けた佐木沢に、抗う術はなかった。被害者のためにも事件解決が第一だ、と十数名の幹部全員に捩じ込まれれば、決行に踏み切らないわけにはいかなかった。

 2人は、佐木沢の言葉を重く受け止めた。

『踏ん張ってみても、時代はなかなか変わらんな。癒着を断ち切るのは難しい。こうして組織に生きてきて、まさか自分の娘を差し出すことになるとは思わなかった。こんな事をせねばななんとは……』

 佐木沢は革新派だ。警察組織を変えようと、JPO創設の第一人者となった。しかし上層部の中に真の革新派など何人いるだろう。彼らはみな、理想を装って建前を謳っている。被害者のためではない、自分のために早期解決を迫っている。自分の保身のためなら、多少の犠牲など、人の気持ちなど平気で置き去りにする。そんな彼らの中にあって、佐木沢には頼みになる味方はいなかったのだ。

 せめても佐木沢は、実の姪を囮にする変わりに、万一の場合の責任の所在は自分を含め上層部全員にあるとした上で、捜査方針とその内容について3隊の隊員たちに一切の権限を持たせ、口出しはしない事を提示し、承諾させた。

 そして、実際に三朝は捜査線上から消えた。上層部はさぞかし泡を食っていることだろう。犯人を甘く見ていたと、悔やんでいることだろう。三朝の身を案じる者など、1人もいなかった上層部は。

 しかし同時に、佐木沢の心痛深い表情を見るのはつらかった。佐木沢は憔悴しきっていた。見ては居られぬほどに参っていた。隼人も幌も、その心中は痛いほど察せられた。佐木沢は三朝の義父であり、そして一上官という以上に、2人にとっては特別な恩義のある上官だった。

 警察庁採用面接の際、『君たちの才能を買う』と言って2人を任用したのは、他ならぬ佐木沢だった。任用後も、佐木沢は折につけ2人を重用し、いまは3隊を任せるという信頼ぶりを示してくれている。

 その佐木沢を、一時とはいえ自分たちは欺いているのだ。

『JPOに出向する事が決まった時に、私はこの事件についての詳細を知った。マズいと思った。三朝は父親に似たんだろうな、昔から正義感だけは突出しとった。それで常にあれの所在を掴んでおく必要が……早い話が監視だ。不自然にならんよう息子に周りをうろつかせていた。三朝がいなくなったと知らせてきたのは望だ。私は直ちに尾行をつけた……結果が、このザマだ。私の使った者達はあれを侮っておった……だが君達は違う。あれの無鉄砲さはよく心得ていることと思う。迷惑をかけるが……頼む』

 涙や嗚咽する姿こそ見せなかったが、佐木沢は心で泣いていた。

 隼人と幌の中で決意は新たになった。

 こうなった以上、必ずあの男を捕らえ、三朝を無事に連れ戻す。

 危険な賭けに出たのは上層部だけではなかった。自分たちも、いや、自分たちこそが危険で、大きな賭けに出ようとしている。三朝の思いを昇華させ、あの男をブチのめし、永遠に三朝を男の手から守るために。

 2人は今から一世一代の賭けに出る。


 

   fact 5

 

 階段を上る足音が消えた。代わりにガチャガチャと何かをいじくる音が聞こえる。

 扉の鍵を開ける音?

 しかし開けられたのは三朝のいる部屋の扉ではなかった。部屋の外に人の入ってくる気配があり、がさっとビニール袋を置いた時のような音が聞こえた。どうやら隣室があるらしい。

 買い物にでも行っていたのか……?

 悠長な話だと思った。三朝は怪我をし、熱を出し、おまけに繋いであるので、逃げる心配はないと思っているらしい。

 繋がれなくても逃げないけどね。

 そう思ったとき、いよいよ部屋の扉が音を立て始めた。先ほどと同じ、鍵を開ける音。ご丁寧にも監禁までしてくれていたらしい。

 さあ。

 さあ、どうする。

 息が上がるのを感じていた。鍵を開け、扉を開くだけなのに、その時間がひどく長いように思える。外まで音が漏れそうなほど、心臓の鼓動は激しい。また頭が痛くなってきた。

 がちゃり、と。

 ノブが回り、扉が内へ向かって開き始めた。細く、だんだん太く、明るい光が差し込んで部屋の中が照らされ始めた。

 そして男がそこに立っていた。

 男は三朝と目が合うと、笑った。笑ったのだと思う。隣室の明かりで逆光になり、よくは見えなかったが、男は確かに笑った。

 そして扉を閉めながら言う。

「起きてたの」

 その、その言い草。

「具合どう? ひどい熱だったよ」

 男はまるで平然としていた。平然と三朝に近寄り、ベッド縁に腰を下ろす。

 三朝は思わず身を引いた。

 すると男はまたも「ふふ」と笑みをこぼす。

「警戒しなくても、何もしないよ」

 息が、息が上がる。

 男はそこに座ったまま、三朝を見下ろしている。三朝は喉を鳴らし、訊いた。

「ここは何処なの」

「はは。なんか、それ聞いたことあるな。『ココハドコ』。なんだろう? 思い出せないな」

「何処なの?」

「……知りたい?」

 男はもったいつけたように、ゆっくりと三朝に顔を寄せてきた。

 ……い、

 拒絶が喉までこみ上げたが、それを飲み下し、ようやく言った。

「……知りたい」

「素直だね。心配しなくても東京だよ。先月から借りてる俺の家」

 男はそう言うと、体を起こして近づけていた顔を引っ込めた。

 ……やめてくれ。

 ……その、おぞましいの、やめて。

 なるべく大きく息をしながら、三朝は続けて訊いた。

「東京の何処?」

 しかし男は首を振る。

「ごめんね。それは言えない」

「どうして?」

「隠れ家ってのは秘密のモノだから。それよりさ、おなか空いてない?」

 男が足を組む。

 三朝は首を振った。空腹など、たとえ胃の中が空っぽでも感知できるわけがない。すると男は咎めるような口調で言った。

「ホントに? ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ」

 その瞬間、フラッシュバックが起こった。

 医務室、コンビニの袋、隼人。

 隼人は同じ事を言って、同じように三朝を咎めた。ほんの何時間か前に……。

 それがもう遠い昔の事のようで、三朝は思わず込み上げるモノを押さえつけた。

「どうしたの」

 男が三朝を覗き込む。三朝のその心の動きを敏感に読み取ったか、追い込みをかけてくる。

「はは、可愛いね。ホームシックにでもなった? まあ確かにね、おウチの人は心配してるだろけど。すごい顔で俺のこと睨んでたもんね? きっと今頃慌ててるよ、三朝を探して。尾行、振り切っちゃったから」

 あはは。

 男はまったく何でもない事のように笑い飛ばした。

 三朝は目を上げ、男を見た。

「いま、何時?」

「3時半」

 男は何も見ずに即答した。隣室には時計があるのだろうか。3時半ということは、あれから2時間少々。

「よく眠ってたよ。わき腹、痛かったね。ごめんね。まさか三朝があんなに軽いとは思わなかったから。俺は一緒に飛び降りるつもりだったんだけどね。三朝を抱えて。でも大丈夫。折れちゃいないよ。ただ、ヒビは入ってるかもしれないけど。起き上がれないだろ? 熱もあるしね」

 そう言った男の服装は、よく見ると変わっていた。黒いTシャツにジーンズ。腕には相変わらず幅広のシルバーブレスが嵌まっているが、髪は一度濡れたようには見えない。それに微かに石鹸の匂いがする。

 三朝は男を見上げた。

「アタシの持ち物は何処へやったの」

 ジャケット。携帯、手錠の鍵。そしてけん銃。

「ああ上着はね、濡れてたから隣に干して乾かしてある。でも服は平気だろ? 三朝にはビニールシート被せてあったからね。俺はずぶ濡れになったから一度シャワー使ったけど」

「……持ち物は?」

「携帯とか? あるよ、隣に。けん銃も、ね」

 男はにやりと、本当にニヤリと笑った。

 三朝は、背筋を這った悪寒を振り払った。

 屈してはいけない。

 まだまだ、男には訊きたい事が山ほどあるのだ。

「どうしてアタシのメールアドレスが分かったの?」

 そう問うと、男は笑顔を引っ込め、困ったような顔をした。

「え? んー……それはちょっと言えないなあ」

「どうして」

「それは……」

「それは?」

 三朝は男を見つめた。じっと、じっと、じっと。

 男は観念したように苦笑いした。

「分かったよ。あのね、携帯ショップのお姉さんをナンパしたんだ。一瞬だよ? すぐ分かった」

 三朝は呆れた表情を隠しきれなかった。

 ……なんだ、それ。ホントか、それ。

 ……その顔と、その声で誘惑した? だけ?

 ……つか教えるなよ、ドコモのおねーさんよ!

 三朝は次の質問をした。

「じゃあ、JPOのシステムに侵入できたのは?」

 国家権力が構築する強固なシステム。男はいとも簡単に突破し、メールを送りつけてきた。

 そして男は、それこそ『いとも簡単』げに、また諭すように答える。

「あのね、三朝。もう少し世の中を見た方がいいよ。サイバー空間な輩なんて、その辺にいっぱいいる。ハッキングなんて日常茶飯事だ。巧妙すぎて表沙汰にならないだけ。ネットカフェに入り浸ってりゃ小マシなのに会えるよ。それこそ、パスワードなんて無くてもJPOのシステムに侵入するくらい、朝飯前な奴にね。どんなにガードを固めても、ネット上に存在する以上、入り口はあるんだからさ。……そうそう、傑作だったのは、T2だっけ? なんかの組織。あいつらもネットで取引してたんだけどさ、取引相手に、ちょいっ、とメールしたら抗争になっちゃってねえ。プロの世界は怖いね。三朝に怪我させたから、ちょっと仕返しのつもりだったんだけど」

 男は事も無げに、ペラペラ喋った。

 やっぱり、ふざけている。どこまでも、どこからもフザけた男。三朝はこんな答えに納得したわけではない。しかし反論しようと口を開いたそばから、その言葉を飲み込まされた。

 三朝を見る男の視線が、絡みついたからだ。

「もう足の怪我はイイみたいだね」

 ぞくり。

 と、しないわけがない。三朝は気絶していた。その間、男はやろうと思えば何でも出来たはずだ。

 三朝の悪寒を見透かしたかのように男は微笑んだ。

「大丈夫。心配だったから、ちょっと見ただけ。何もしてないよ。それくらい、分かるだろ?」

 三朝は眉をひそめた。確かに衣服に乱れは無い。わき腹の痛みと腹痛以外に、原因の分からないような体の異常もない。

 だが。

 心配だったというのは、どういう了見だ?

「……アタシをどうするつもりなの?」

 そう訊いた途端、頭がドクドクと脈打ち始めた。それは、三朝の奥にずっと澱のように積もり積もっていた問いだ。目的は、狙いは、その真意は、何か。

 しかし男は面食らった顔をした。

 いまさらのように驚いた顔で三朝を見て、

「どう? どうって……」

 そんな事を呟いて天を仰いでいる。

 まるで、まるでフザけている。

三朝はふつふつと沸いた。

 なんだ、それは。

 なんなんだ、その顔は。

 何を考えている?

 一体、自分のした事を分かってるのか?

 なんで、じゃあなんで、あんな事をした?


 アタシをどうかしたかったんじゃないのか?


 体が熱い。心が熱い。

 支えが、支えがなくなって堕ちそうだ。

 そして男が答える。


「ウソだよ」


 三朝は呼吸困難に陥りそうだった。息が浅くなって、空気が薄くなって、頭ががんがんと響く。

 男はその三朝の激高を見て、愉快そうに笑んだ。

「でも、おかしいね。それは史桜ちゃんに伝えておいたんだけどな」

 その言葉に、三朝はハッと男を見た。

 史桜に託された伝言。

 史桜が思い出せなかった伝言。

 やっぱり、それが答え?

 男は続けた。

「聞いてないんだね、やっぱり。史桜ちゃん、忘れちゃってた? はは。しょうがないな。でもま、しょうがないか」

 ……しょうがない?

「何て言ったと思う?」

 男はおかしくて仕方ないというように笑いを堪えている。三朝はその答えを探すように、男の目を覗き込んだ。

 捜査線上に取り残された3つの謎。

 主犯は誰か?

 その目的は何か?

 そして、

 史桜に何を言ったのか?

 3隊はその史桜に残されたメッセージが、すなわち犯人からのメッセージであると思ってきた。だから三朝は、それを探るため、何度も史桜の病室に足を運び、彼女に接してきた。

 結果。

 三朝は彼女に深い同情を覚えた。

 そして今、ここにいる……。

「気付いたかな? そういうことだよ。俺は史桜ちゃんに伝言することで、三朝の同情を引こうとした。JPOの配置関係からして、三朝が『史桜ちゃん係り』になると思ったからね。だから俺は史桜ちゃんの横に屈み込んで、髪を掴んで、


 囁いたフリをした。


 あの時、史桜ちゃんは怖かっただろうから、すごく印象には残っただろうね。でも何て言われたか分からないし、永久に思い出せない。だって、何も言っちゃいないんだから」

 男が言う。

 男が笑う。

 くらくらした。

 三朝はもう、滾って滾って、どうにかなりそうだった。



    fact 6

 

 本部の鑑識から電話があったのは、3時半の事だった。

「そうですか。わかりました。では照合結果をこちらに送ってもらえますか」

 首を傾けて携帯電話を肩で挟み、幌が膝に乗せたノートパソコンを叩いている。そして電話を切り、運転席の隼人に向かって親指を突き立てた。隼人は頷いて答えた。

 そこへ無線が鳴った。本部で捜索隊の指揮を執り続けている宏司からだった。

「椎名」

『高橋です。5班が塩浜1丁目付近に不審車両を目撃したという証言を得ました。コンビニエンスストアの店員が出勤途中に、運河の支流沿いに停まる不審車両を見たそうです』

「そうか」

『ナンバーまでは覚えていないそうですが、普段、そこにそんな車は停まっていないということで、他にも目撃証言が集まってます。長時間、放置されていたようですね。そこはボートが発見された枝川橋からは上流になりますし、近くに船を寄せられそうな浅瀬もあるみたいです。どうしますか』

「……近くにいるのは何班と何班だ?」

『3班と7班です』

「じゃあ、その2班を現場付近の捜索に回せ。宏司はNシステムの照合、頼む」

『了解』

 無線が切れると、幌が言った。

「キてるねえ」

「ああ。ウチのはみんな優秀で助かる。照合結果は来たか?」

「ばっちし」

「よし。動きは?」

「ないよ、今のところ」

 幌は液晶画面を見て、そう言った。

 車はすでに停まっている。ここは東雲、新辰巳橋付近だ。本部から直線距離にして約3km。どこまでもふざけた男だ。

「そういや連絡あった?」

 と幌が問う。隼人は携帯のボタンを操作し、メールを表示させて幌に見せた。

「『守備良好、景観最高。問題ナッシング☆』……若いんだか、若くないんだか。分かんない子だね」

「ちょっとキレてるからな」

「椎名に?」

「そう」

「……敵に回さないようにしよーっと」

「そのほうが懸命だな」

 隼人はため息をつき、窓の外へ目を向けた。



  fact 7


 男は煙草を取り出し、吸い始めた。

「吸う?」

 そう言って三朝にパッケージを突き出す。

 三朝は首を振った。

「熱があるんじゃ要らないか。吸うんだろ?」

 ……なぜ知っている。

「ジャケットに入ってたから。別に調べたわけじゃないよ。俺、ストーカーじゃないしね」

 男は笑う。タバコを吸う。煙を吐く。

 その様は、まるでこの状況が他人事であるかのようだ。

 何にも悪びれず。

 如何にも優位げな顔。

「史桜ちゃんの事は、そんなにショックだったのかな」

 男は手にした灰皿に煙草を軽く叩きつける。

 三朝の熱は上がっていた。

「無理もないか。三朝はずっと、それを気にしてたんだから。その答えが『何も言ってない』じゃね。拍子抜けだよね」

「ホントに何も言ってないの」

 うつろに三朝は訊いた。途端に男はおかしそうに笑った。

「は、いいね。疑り深いトコ、その勘の鋭いトコロ。サイコーだ」

 それはまるで、真実が隠されているような口ぶりだ。三朝は弾かれたように男を見た。

「何を言ったの」

 しかし男は否定する。三朝を愚弄する。

「何も言ってないよ。なにも。だけど、心ではね、こう言ってたよ」

 男はベッドに手を突いて、三朝に向き直った。

「『三朝とヤりたい』」

 男は真顔でそう言った。

 三朝は。

 素手で心臓を掴まれたような衝撃を感じていた。

 気分が悪い。瞳孔が開く。汗が吹き出て、息が苦しい。

「そんな事、史桜ちゃんに言えないだろ? だからね」

 男はまた笑った。

「俺の気持ち、分かってくれた?」

「…………」

「ねえ、三朝」

 迫る。

 三朝は思わず顔をそむけた。手首で「シャララン」と手錠が鳴る。

 男はその音に視線を上げ、そこに手を添えた。男の指が三朝の手首をなぞる。どんなに気色が悪かろうと、繋がれた三朝に避けられようはずもない。

 やめてくれ。

 やめてくれやめてくれやめてくれ!

「はははっははははは」

 男は大声を上げて笑った。三朝から離れ、腹を抱えて笑った。

「あ、あは! そんなに怖がるなよ! 冗談だよ!」

 かかかかっと男はひとしきり笑うと、乱れた呼吸を整え、三朝を見た。

「大丈夫。何もしないよ、まだね」

 まだ。

 まだ?


   fact 8

 

 双眼鏡片手に、望はビルの屋上に居た。

 レンズをかざせば、その先に見えるのは古びた小さな倉庫。区間距離はおよそ300mだそうだ。ただし今は肉眼なので明瞭には見えていない。前途ある高校生の身である望としては出歯亀に間違われたりすると困るので、間隔をあけて双眼鏡を覗くようにしているのだ。また、夜間はタバコの火も目に付きやすいため、一時的に禁煙中である。

 張込の鉄則ってね。

 室内の様子は見えない。見えるのは、ほの明かりに照らされた玄関口。その扉にコンビニ袋を提げた男が入って行ったのが、およそ30分前だった。アパートの裏側は各部屋ベランダになっていて、その下には川が流れている。そして、その向かい岸に隼人の車が停まっているはずだった。

 望はのど飴を出して口に入れた。

 禁煙すると太るってのはこういうことね。

 三朝を尾行途中でロストして追跡を諦めた望は、その場で携帯から隼人に電話を入れた。面が割れている望が尾行を続けるより、隼人に就いたほうが得策だと思ったのだ。少し癪ではあったが。

 だっておかしいだろ?

 三朝がいなくなったのに他の女のトコにいるなんて。

 その事に腹が立ったのは本当だ。何て事のない時ならばいい。浮気もオッケイ。望はそれに関しては人にとやかく言う資格がないことくらい、自覚している。

 ただ、こういう緊急事態では、それも頂けない話となってくる。

 だから思った。何かある。と。

 こう言っては失礼かも知れないが、隼人はワリと父親に似ていた。考え方というか、スタンスというか。望の知る限り、隼人は父親である佐木沢宗佑をふつふつと髣髴させるモノがあった。

 その隼人が、あの、局面において顔を出さない。それは望にとって、まったく不自然な話だった。父親はあれでも愛妻家だ。家族思いだし、自分の一番大事なモノをきちんと弁えている。多少の浮気はあったように聞いているが、母親とはそこそこに大恋愛で結ばれたらしい。そして父上は、母上の窮地を放っておいたり出来ない人種である。

 というわけで、望は隼人に電話を入れた。結果、こうしてちゃっかり、物事に加担しているというわけだ。

 アパートに特に大きな動きはない。というか出るつもりはないだろう。少なくとも今夜はきっとこのままだ。

 望はそっと耳に手を当てた。

 ……姉上はホントに大丈夫だろうか。

 と思わないではない。というより思わないわけがない。今夜に入ってもう何回そう思ったか。思っては打消し思っては打消し、それを繰り返している。

 でも、だから望はここに居る。気掛かりだからこそ加担している。父親の言うように『帰って寝る』だなんて到底ムリ無理な話だ。寝てられるかっての。

 俺、デリケートだからね。

 はは、と1人虚しい笑いをこぼしていると、ズボンのポケットの中で携帯が震えた。メールだった。

『第2ポイントへ』

 ただそれだけ、記されていた。



   fact 9

 

『アイアイさー』

 画面に表示されたその文字を見て、隼人は苦笑をこぼした。幌が振り返る。隼人は画面を幌に向けてやった。

「……緊張感ないね」

「その方が良いだろ、三朝には」

「ああ、かもね」

 幌は笑い、その表情をすぐに曇らせた。耳に手を当て、息を殺して聞こえてくる音を拾っている。隼人は即座に反応した。

「どうした」

「……いや、大丈夫だったみたい」

 ほっと息をつく幌に、隼人も怒った肩を下ろした。

「心臓に悪すぎ」

「まったくだ」

 2人してこぼす。

 宏司が指揮するアシストの刑事達も、この場所を絞り込みつつあった。Nシステムの記録から、男が使用したと思われる車がこの東雲に入った事を突き止めたのだ。風は確実に隼人たちに向かって吹き始めている。

 とそのとき、隼人の携帯が鳴った。

「はい、椎名」

『ウラ取れました。5件の被告、ともに間違いないと証言しました』

「ご苦労。ではこちらへ向かってくれ」

『了解』

 電話を仕舞うと、幌が言った。

「写真OKだって?」

「ああ。全員な」

「いいねえ。被害者、共犯ともに認めたね」

 幌の言葉に隼人は頷きつつも、気取られぬよう息をついた。

 もうすぐ決着がつくだろう。あとは男が自供すればカタがつく。犯行の経緯、方法、そして動機。その動機を聞いたとき、三朝は……。

 隼人は深く呼吸をし、川向こうに佇む錆付いた倉庫を見上げた。


   fact 10

 

 男が笑う。

 男が嗤う。

 男が哂う。

 でも恐れるな。

 すぐ怖がるな。

 そして。

 逃げるな。


   fact 11

 

「じゃあ」

 三朝は言った。

「史桜さんを襲った事は認めるんだね」

 しかし男は答える代わりに笑顔を作る。三朝の問いなど、まるで聴こえていないかのように交わす。

「ねえ、三朝」

 ベッドに手を突いたまま、男は語りかけた。

「あの椎名くんて男はさ、そんなにイイの?」

 その唐突な問いは、三朝を抉った。

 深く、ごっそりと。

 三朝は言葉を失った。

 男は愉しげに笑う。

「椎名くんだよ。好きなんだろ?」

 巧みに抉りながら、エグい質問を吐き続ける。

「そんなに好きなの?」

 吐き続ける。

 そして迫る。


「ねえ。

 なんで好きなの?

 どこが好きなの?

 どうして好きなの?」


 男のおぞましさは時を追うごとに増幅している。


「どれほど好きなの?」


 そのたびに三朝の熱は上がる。

 体の熱も。心の熱も。

 どんどん加速していく。

「確かにイイ男だとは思うよ。だけどさ、こう……なんか、気に入らないよね。出会っていきなり拳銃、突き付けてさ。命令口調でさ『手を上げろ』なんてね。まるで人を犯罪者扱いだよね」

「犯罪者じゃないの?」

「ええ?」

 三朝の問いに、男はおもしろそうに笑い声を上げる。

「俺が? どうして?」

「略取は立派な犯罪だよ」

 三朝がそう言うと、男はため息を漏らした。

「よく言うよ。略取じゃないだろ。自分から来たくせに。俺は、正式にデートの申し込みをして、OKだったから来たんだろ?」

「じゃあ、これはナニ?」

 三朝は手を上げ、手錠を鳴らした。それを見た男の顔が「ふふん」と嗤う。

 そして答える。

「手錠」

 振り切れたように高笑いをした。

 ……異常だ。

 ……常軌を逸している。

 ……知っていたけれど。

 ……この男は楽しんでいる。 

「ねえ」

 今度は三朝が呼びかけた。

「どうして隼人のことなんて訊くの?」

「『隼人』だって。ラブラブなんだね」

 ……のらりくらりと三朝を翻弄するのが愉しくて仕方ないのだ。

「どうして?」

「知りたい?」

 ……もう手中に収めたから、時間をかけてじっくりと、目的を果たす気でいる。

「知りたい」

「じゃあ教えてあげる。嫉妬だよ、嫉妬。ヤキモチ妬いてんの、俺」

 ……そして、あくまでも。

 ……自供する気などないのだ。

「分かってくれた? 真剣なんだよ、俺は。本気で三朝が好きなんだ。ずっと、ずっと、ね」

 ……だから、いちいち取り合うと負ける。

 ……相手にしていたら、思う壺に嵌められる。

「どうしたの? やけに大人しくなったね」

 男は近寄り、三朝の肩に手を置いた。

「もしかして分かってくれたのかな」

 その言葉に無言で見つめ返すと、満足そうに笑う。

「そう。嬉しいよ」

 ……ならば。

 ……どう攻める?

 ……どうやって吐かせる?

「でも、その前に訊かせて」

「ん?」

「どうしてアタシなの?」

 三朝がそう訊ねると、男は一瞬、目を丸くした。

 そして笑う。

「そうだね……それ聞かなきゃ三朝は俺のモノにはなれないか」

 男は言うと、三朝に顔を寄せた。

「じゃあ教える代わりに約束してくれる?」

「……約束?」

「話したら、俺とヤるって」

「…………」

「約束して。話したら俺と……」

 男が言い終わらないうちだった。

 突然、ごがーーん、と派手な音が響き、男も三朝も驚いて動きを止めた。

 何か大きな物が倒れたような、もしくは破壊されたかのような、低く地響く音だった。近く、ここが2階だとしたら多分、階下から聞こえた。

 男は顔を強張らせ、入り口を大きく振り返った。そして舌打ちする。

「ちょっと待ってて」

 男は言うと、さっと立ち上がり、勢いよく部屋から出て行った。

 ガチャリと扉がロックされる。

 ……は。

 三朝は思わず息をついた。緊張のために体中がガチガチに固まっていた事に気付く。力を抜き、軽く指を握り伸ばしして、大きく呼吸した。

 だが、ほっとしたのも束の間だった。

 カキーン……。

 今度は遥か頭上に金属音がしたのだ。

 次いで、かちり、かちり、と何かを弄くるような小さな音が聞こえて来る。

 三朝は首を回して、頭上の窓を注視した。

 すーっと、ゆっくり窓が開けられる気配があった。その証拠に、風に煽られた暗幕がそよりと揺れる。

 窓が半分ほど開けられたとき、暗幕の裾から、

 

 にょきっと。


 手が現れた。白い大人の手だ。三朝はビクッと体を縮めた。

 一瞬『見えてはいけない物が見えてしまったのか、のんのんのん』と思うようなホラーな瞬間だったが、どうやら、幸いにも生きた人間の手のようだ。

 手は『ひらひら』とまるで合図するみたいに左右に動くと、ズサっと素早く引っ込んで行った。

 ……なんだ……?

 訝しんでいると、再び手が現れた。今度は『グー』に握られている。

 三朝は、その『グー』を見て目を丸くした。

 『グー』に握られた手の左右からはみ出ている物。

 やがて『グー』が『パー』に開かれる。

 握られていた物が、三朝の横たわるベッドの上に2つの軽い音を立てて落ちた。

 

   fact 11

 

 男は階段を駆け下り、階下の様子を探った。

 てっきり誰かが、警察が踏み込んできたのだと思った。

 しかし、階下にそんな様子はなかった。

 錆びれたトタン板に囲まれた、コンクリート敷きの狭くて汚い倉庫。

 入り口のシャッターは閉じられている。倉庫の隅に並べられられたドラム缶にも異常はない。

 ただ、その上にある棚から落ちてきたらしい塗刷毛が数本、床に転がっていた。

 男はそれを見、次いで後ろを振り返った。が。

 何の異常もない。停めてあるツーリングワゴンを覗いて見る。でも誰もいない。

 息を殺し、もう一度、倉庫の中を見回してみる。

 刷毛がドラム缶の上に落ちただけ……か?

 男は弾かれたように階段を駆け上った。



   fact 12

  

 扉がガチャガチャと音を立て始めた。だが、その音はひどくイラついて聞こえる。焦って鍵が刺さらない、上手く開錠できない、そんな感じ。

 三朝は思わず身構えた。男の様子が違う。

 階下に何か異常があったのか……?

 それとも異常がなかったから過敏になっているだけなのか……?

 三朝にその判断は出来ないが、どちらにしても、状況は変化する。

 そして扉は、蹴破られたのかと思うほど勢いよく、開いた。

 入ってきた男の息は荒い。

 男は、後ろ手で腹立ち紛れに扉を閉めると、血走った目つきで三朝を捉え、大またで勢いよく近寄って、三朝の上に馬乗りになった。

 あっという間だった。

 抗う隙なく、構える間もなく、男は三朝の腰の上に乗っていた。ベッドが軋み、三朝を繋いだ手錠が音を立てて揺れた。

 男は三朝の両脇に手を突き、言う。

「喋るのは後にして、先に済ませちゃおうか」

 瞬間、三朝は目の前が真っ白になるのを感じた。

 ……なにを?

 ……なにを!?

「でも約束だから、これだけ教えてあげる。なんで三朝なのかって訊いたよね?」

 男はゾッとするほど冷たい笑みを三朝に近づけた。

「もう察しはついてるんだろ? 25年前の事件、三朝に教えたのは俺だよ。俺はあの時殺された女の息子。母親の写真は見たんだろ?」

 ……何があった?

 男は豹変している。物音に刺激され、過敏になり、焦って三朝を追い詰めようとしている。性急に目的を果たそうとしている……。

「驚いただろ? 俺だって驚いた。ホント、見れば見るほどそっくりだ」 

 真上にある男の顔が優しくなって、三朝を覗き込んだ。

「半年前にテレビで見たよ。何かの事件現場で捜査していた三朝をね。俺は目を疑ったよ。だって母親が映ってるじゃない。会いたくても会いたくても、どう頑張っても、もう会えないはずの母親が。はは。会いたかったね。俺は会いたかった。三朝に。会いたかったよ」

 男は静かに激高している。

「俺はね? 母親が踏みつけにされて殺されるところを見たよ。押入れの中で。そりゃもう地獄だ。でも口にするのもイヤだから、その時の話は勘弁してね? だって、この歳になってもまだ忘れられない。一生、目に焼きついて離れない。夜毎、夢に見て、その度に苦しかったよ。生きているのがイヤだった。俺はね、死にたかったんだ。ずっと。死ねば楽になるじゃない。何も考えなくて済むよね? だから俺は死に場所を求めてきた……やっと救われそうだ。ね? どういうことか、分かる?」

 男が三朝を覗き込む。

 三朝は黙って、答えを待った。

「そ。三朝がいるから。三朝の事を知ってから希望が出た。だってもう苦しまなくていいから。三朝がいれば、俺は安心して堕ちていけるから」


 ……堕ちる。

 ……堕ちるってどこへ?

 

「だから」

 と言いながら男が体を起こす。

 右手を後ろへ回している。

 

「俺のモノになってよ。永遠に」


 次の瞬間。

 後ろへ回した男の腕が大きく振りかぶったかと思うと、

 

 ボスっ。


 三朝の顔、そのすぐ左隣にナイフが突き立った。

 あの、大振りのナイフだった。

 薄暗い室内で一種異様なキラめきを放つそれから手を離すと、男は三朝の両肩に指を食い込ませ、囁いた。

「ね? 一緒に堕ちよう」

 ふっと冷笑を漏らす。


 痛い。

 掴まれた両肩ではなく。

 わき腹でもなく。

 男の、自分の心が、痛い。


 男が三朝に覆いかぶさる。

 三朝は目を瞑り、首を捻じ曲げて襲い掛かる男から目を逸らした。手錠が音を立てて揺れ、繋がれた右手首に食い込んだ。

 男の唇が、首筋に。

 貪りつく寸前で、しかし男はゆっくりと三朝から離れた。

 その眉間には。

 けん銃。

 三朝が左手に握った、銃身のごく短い小さなけん銃が突き刺さっていた。

「……三朝……」

 男が驚愕の表情で三朝を見る。唇を震わせ、息を呑む。思っていることだろう。けん銃は隣の部屋にあるはずなのに、と。そんなけん銃どうして持っている、と。

 しかし、それを問う隙を与えてはならない。

 これはチャンスだ。

 懐に入り込め。

 

「待って」

 三朝は言った。

「分かったから」

 と、強く言った。

 男の顔が訝しげに歪んだ。三朝は繰り返した。

「分かったから、落ち着いて。お願い」

「……な……」

「知ってたよ、その傷が深くて、痛くてしょうがない事は、最初から知ってた」

 三朝は、男の言葉を言わせず、そう告げた。

 男はわずかに頭を振る。分からないと意思表示する。恐れをなしたかのように体を起こし、三朝から遠ざかっていく。

 男の眉間に銃口を固定したまま、三朝も繋がれたままの右手を支えにベッドの上に起き上がった。

「分かってたよ。アナタがあの少年だったって事は。痛かったよね? そして今も痛い。ずっとずっと、この先も痛いままかもね。だけど……もしアタシを手に入れれば、少しでも和らぐってのなら、いいよ。分かった。だから手荒なことしなくてもいい。こんな物騒な物も、お互いに必要ない。よね?」

 三朝はしかめっ面になりそうなのを我慢して笑った。無理に起き上がったためか、本当はもう、死ぬほどわき腹が痛い。

 でも、ここは正念場だ。

「だけど……だけど、その前に話して欲しい。アナタが何をしたのか。ちゃんと話して、みんなに謝って。だって、そうしないと一緒になんて行けない。一緒に傷を背負わなきゃ、同じ所へは行けない」

 

 そうだ。

 自分のために、みんなが犠牲になったというなら。

 それが、正真正銘の現実だというなら。

 つらいけど、

 痛くて、

 痛くて泣きそうだけど、

 受け止める。


 男はようやく、言った。

「本当に?」

「本当」

「死ぬんだよ?」

「うん」

「一緒に死んでくれるの?」

「そうだよ。だから話してくれる?」


 さあ、

 さあ、どう出る?


 男は逡巡した。まだ三朝の真意を疑っている。

「……でも、話した途端『ズドン』じゃイヤだな」

「大丈夫」

「だって、そんな保証、どこにある? 第一、その銃はどうしたの?」

「この銃は組み立て式だよ。小さすぎて分からなかったかな? 普段はね、このジーンズの裏にバラして縫い付けてある。これ本当は『出陣用ジーンズ』だから。アナタがさっき下へ行った時に組み立てて枕の下に隠してあったの。ごめん。でもちゃんと話して、謝るって約束してくれるなら、


 この銃をあげるから」

 

 男の目が丸くなった。

「……なに、言ってる……」

「この銃をあげる。アナタに渡すから、話して。お願い」

 三朝は男を見つめた。穴が開くほど真剣に、真剣に見つめた。心臓はもう血管がブチ切れそうなほどに、動脈が一挙に肥大したかに感じるほどに力強く脈打っている。どっくりどっくり。

 わき腹の痛み? 熱? もう感じない。

 男はその三朝の視線を受け止めている。唇を引き結び、三朝の奥を探っている。

 

 頼む。

 頼むから。


「俺はね、三朝」

 男は言った。

「話すつもりはなかったんだよ。話したくないんだ、本当に。だって、それじゃ三朝が可愛そうだ。俺は三朝に会うためなら手段は選ばなかったから。そんな、まさか三朝が一緒に死んでくれるなんて、言うと思わなかったから……」


 ……男の傷。

 深くて、痛い。

 治らなくて、つらい。

 ずっと救いを求めて。

 そして救いを見つけた。

 一緒に堕ちるため、

 男は罪を犯して、

 救いにも傷を負わせたのだ。


「アタシも一緒に傷を背負うよ」

 

 やがて男はうなずいた。

「……わかった」

「約束?」

「ああ、約束する。話すよ、全部。謝る」


 三朝は銃を下ろし、男の前に置いた。

 だが、男はそれを一瞥しただけだった。


「三朝の事を知ってから、どうやったら近付けるか考えた。どうやったら俺の事を分かってもらえるか。ちゃんと分かってもらいたかったんだ。三朝に見つけて欲しかったんだよ……それで思いついた。三朝は刑事だから、事件を起こせば会えるって。あの頃は警視庁に居たよね? だから都内で誰か殺せば会えるって思った。分かり易くするために、母さんが殺されたのと同じ方法で、出来るだけ三朝に似た女の子を殺した。でも三朝には会えなかった。JPOが捜査に付いたから……がっくり来たけどね、奇跡が起きたんだ。三朝がJPOに異動になった。ビックリしたよ? すごい巡り会わせだ。こんなの運命としか呼びようがないって……だけど三朝は俺の所に来なかった。俺の事が分からなかった。だから2人、3人と続けたんだ。でも三朝はまだ俺の事に気付かなかった……俺、我慢できなくなって自分からJPOに行ったんだよ。そしたら、三朝は椎名と一緒に居た。一緒に帰って行った。同じマンションに入って行った……もうすでに、あいつのモノかと思うと堪らなかった。俺、すぐに調べて伊豆史桜の事を突き止めたよ。椎名に腹いせして、三朝から遠ざけるために史桜ちゃんを狙った……」

 

 男は低い、少し震えた声で三朝に語って聞かせた。


「じゃあ、どうして?」

 三朝は訊いた。

「どうして証拠を残さなかったの?」

 男は黙っている。

「凶器のナイフにも、現場に残した写真にも、指紋1つ残さなかったよね? 気付いて欲しかったんなら、どうして残してくれなかったの?」

「素手で触りたくなかったから」

「どうして?」

「俺はね、三朝。すごく嫌だったよ。現場に居る間中、母親の事を思い出してね。共犯者あいつら、興奮して夢中になってたんだもん。そっくりだった、母さんを殺した奴らと。だから気持ち悪くて、その場にある物を素手でなんて触れなかったんだよ」

「……その共犯者達はアナタの顔を覚えてなかったけど、それは?」

「さあ。ただアイツらが馬鹿だっただけじゃない。女に夢中で、俺の事なんて見てなかったからね。ほんの数時間、しかも暗がりで一緒に居ただけだし」

「お金を渡して、薬を嗅がせて、捨てた?」

「……ああ、そうか。そうだ。薬のせいで覚えてなかったんだ。きっとね」

「写真を撮ったのはどうして?」

「母親を殺した奴らが、同じ事してたから」

「うそ」

「嘘じゃないよ。あいつら『高く売れるぞ』って、そんな反吐が出そうな事を言って写真撮ってたんだ」


「……アタシがなかなか現れないから、自分からメールして来たの」

「そうだよ。ていうか気付いたんだ。母親の事は俺には重大で、いつも忘れられなくて、消えない事実だったけど、そんなの結局、俺だけだよね? 誰も、誰だってそんな事件知らない。25年も前の、そんな事件、誰も知らなくて当然なんだって、気付いたのは史桜ちゃんを襲った後だった。だから三朝も会いに来ない。俺に気付かない。だったら教えなきゃって。でも分かるよね? 自首は出来なかったよ? だって、それじゃ三朝とこうして一緒には逝けない。三朝が1人で来てくれなきゃ、意味はなかったからね」


 ……現実だった。

 ……全てはその傷のため。

 ……全ては痛ましいその傷を癒すため。


 彼女達はみな、三朝のために犠牲になった。


 三朝はその痛みを、十字架を背負わねばならない。


「謝って。アタシに会うためだけに犠牲にしたみんなに」


「……ごめん」


 男は言った。

 神妙に。

 頭を下げて。


 言ったのだ。


 三朝はその場で肩を落とした。

 

「三朝」

 

 男が呼ぶ。


「三朝、ごめん」


 三朝に近寄ってくる。

 許しを請いに。

 

 心の傷は消えない。

 深ければ深いほど、

 大きければ大きいほど、

 消えない。

 頑張っても、

 時がたっても、

 薄れたとしても、

 消せない。

 だから苦しむ。

 救いを求める。

 だけど、

 みんなも苦しんでいる。

 人知れず。

 口に出せず。

 抱えている。

 だから自分も、

 耐えなくちゃいけない。

 どんなにつらくても、

 擦り付けちゃいけない。


「三朝」

 男が呼ぶ。

 三朝は答えられない。

 だって現実だったから。

 自分のせいだったから。

 それを受け止めるだけで、

 精一杯だ。


 やがて三朝は顔を上げた。

 不安げな男の顔がある。

「三朝」

「しょうがなかったんだよね。痛かったから」

「…………」

「みんなにした事は許せないよ? たとえ、その傷のためでも許せない。でも、アナタの気持ちは分かったから。だから、行こうか、一緒に」

「三朝」

「ね」


 三朝は男の手に、自分の左手を添えた。

 男が三朝を見る。三朝も男を見る。


 直後、男は狂ったように三朝を押し倒した。転がっていた拳銃が、弾き飛ばされて壁にぶつかった。

 男は無我夢中で三朝の首筋に顔を埋め、激しく貪った。


 しかし、それは束の間のこと。

 男はすぐに動きを止め、驚愕の表情を浮かべて三朝を見下ろした。

 

 男の腕に手錠。

 ベッドに繋がっていたはずの、三朝の手錠。


「鍵も予備があったんだ。ごめんね」

「騙したのか」

「違うよ。こうしておけば一緒に行けるから」

「…………」

「繋がってれば離れなくて済む。償いに行こう、一緒に」

「三朝」


 目を瞑った三朝に、男が口付ける。


 その寸前だった。

 

   last fact


 がーーーんと、大きな金属音がした。

 地響くような音、そして、実際に部屋が揺れる。

「そこまでだ」

 

 戸口に拳銃をかまえた隼人が立っている。

 そして一陣の風が吹き抜けた。

 見れば頭上の窓が開いて、幌がそこから拳銃を差し入れ、男を狙っていた。

 男は歯噛みして三朝を見た。

「三朝……」

 三朝は何も言えなかった。


 男は舌打ちして起き上がり、隼人と幌を交互に睨んだ。

「なんで! なんでだ!?」

「なにがだ」

 冷めた声で隼人が言った。

 男はその隼人を青い顔で見つめ、わなわなと震えて言った。

「なんでここが分かった? なんで!」

 それに答えたのは幌だった。

「お兄さん、GPSって知ってる?」

 幌が笑う。

「三朝の携帯にね、埋め込んであったのよ。ごめんね」

 男は頭上を振り仰いで絶句した。

 そして三朝も、絶句した。

 通信部員に渡された3つ目の携帯電話。

『これ、今度JPOで導入しようかと検討中の携帯です。感度を試したいので、2~3日、持っていてもらえませんか?』

 ……騙された。

 三朝の居場所は、隼人には筒抜けだったのだ。


 男が動いた。ハッと思った時には遅かった。

 男は三朝の後頭部を引っ掴み、銃口を顔に押し付けながら凄んだ。

「撃つぞ、この女」

 がきりと激鉄が起きた。隼人と幌は黙っている。

「いいのか!? 撃たれたくなかったら、今すぐ失せろ!」

 取り乱し、男が叫ぶ。でもやはり隼人も幌も何も言わない。無表情で男と三朝を見ている。

 三朝の顔は引きつっていた。

 いくら刑事をやっていても、けん銃を鼻先に突き付けられるなんて事態には、なかなか陥らないものである。

 しかも。

 男は震えていた。指が引き金にかかっている。激鉄はすでに起きている。

 そのまま震えられたら、ふとした拍子に三朝は死んでしまう。

「撃つぞ、」

 震えた声で男が呟く。反応を示さない隼人と幌に、感極まって怒鳴った。

「撃つぞ、この女!! いいんだな!?」

 すると隼人は言った。


「どうぞ」


 隼人は、

 言った。

 三朝の血の気が引いた。

 ……いいんだってさ。

 ……死んでも。

 ……そりゃそうか。

 ……許せないよね、欺いたんだもんね。

 だが、三朝はふいに笑い声を耳にした気がして頭上を仰いだ。

 くすくすと幌がおかしそうに笑っていた。

「撃ってもいいけど、お兄さん、拳銃使えるの?」

 幌が訊く。

 男が怪訝な顔で幌を注視する。

 笑いを堪えた幌は言った。


「それ、空砲だよ」


 男が真っ白になった。

 三朝は脱力した。


 隼人が進み出て、いつの間に請求したのか、男に逮捕状を突きつけた。

「結崎廉、強姦致死傷罪の疑いで逮捕状が出ている。言っておくが、この状況では抵抗しても無駄だし、外は捜査陣が取り囲んでいて逃げられもしない。我々と一緒に来てもらおう」

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