第十六章 カウント・オーバー


   カウント 11


「みなさん、ご自分の病室へ戻ってください! 騒がれると、よけい患者さんに障りますから!」

 若い看護婦が、史桜の病室を取り巻く野次馬と化した入院患者たちを必死で取り成している。寝巻きのまま佇む彼らは、みな史桜と同じく、JPOが担当するなんらかの事件が原因で負傷、あるいは精神的被害を被っている患者たちだ。しかし今はそんな事をすっかり忘れている様子で、史桜の病室を伺うのに夢中になっていた。

 隼人は彼らを掻き分け、進んだ。看護婦が気付き、驚いた顔で隼人を見上げる。

「椎名主任……」

 隼人は頷き、史桜の病室へ足を踏み入れた。

 病室には白衣のスタッフが数名詰めて対応に追われていた。史桜も沙也香も、彼らの輪の中心にいるのだろう。声は聞こえてくるが、姿は見えなかった。

 看護婦の1人が隼人に気付いた。ホッとしたような表情を浮かべた彼女は、すぐさま輪を掻き分け、沙也香を呼んだ。取り囲んでいた他のスタッフ達も気付いて隼人を振り返っている。

 人垣が割れ始め、隼人の目に史桜の姿が映った。

 悲鳴が止んだ。

 騒ぎは、魔法をかけたように静まった。

 冷たい床に座り込んだ史桜は、口が利けなくなったみたいに喉を震わせ、幽霊でも見るような怯えた目つきで隼人を見つめていた。

 沙也香もまた、驚いた様子で立ち上がっている。

「椎名さん……」

「秋川、2人にしてくれるか」

「でも」

 戸惑いを返した沙也香に、隼人は言った。

「部屋に行ってくれ。そこで」

 三朝が待っている、沙也香はそれを察したようだった。うなずき、身を翻して病室を出て行く。それを合図に、詰め掛けていたスタッフも引き上げていった。

 扉が閉じられ、病室には隼人と史桜の2人だけになった。


   カウント 10


 遅い!

 遅いよ! 宏司くん!!

 幌は、廊下の向こうから駆け寄ってくる宏司を目に捉え、もたれていた壁から体を起こした。

「遅せぇよっ!!」

「はあ? ムチャ言うなよ。どんだけ、走ったと、思ってんだ」

 宏司は両手を膝についてゼイゼイと息を上下させ、その激しい息遣いの合間に苦しげに言葉を吐いた。幌はかまわず、宏司の丸まった背に口早に告げた。

「もう上には報告したから。書類はいらん、とよ。とにかく頼むぞ。抜け出して伊豆さんの所にでも行かれたら困るから」

 廊下の奥を振り返り、楠本京介のいる部屋を親指で示す。

 息を整え、起き上がった宏司が、幌を見据えた。

「OK。それより幌。おまえまで主任、殴ったりするなよ」

「しねえよ」

「ならいいけど。殴ったら、クビなくなるぞ」

 幌は力なく笑った。

「宏司。それだと意味が違っちゃうよ。『クビになる』んだから。大丈夫。俺これでも冷静よ。これ以上つらい思いさせられなし」

 三朝を。宏司は、幌がそう言外にこめた意味を正確に受け取った様子で頷いた。

「そうだな」

「じゃあ俺、あの2人の様子見てくるから」

「気になってしょうがないもんな、三朝が」

「そう、三朝がな。悪いけど秋川の様子を見てくる余裕はなさそうだわ」

 舌打ちしている宏司を残して、幌は医務へ向かった。

 隼人を殴った件についての事情聴取の際、楠本京介は言ったのだ。伊豆史桜の容態が悪くなったのは隼人のせいだ、と。

 幌は速攻、宏司を呼び出した。現場に三朝がいた事は警官から聞いていた。もし三朝が真相を知ったら、そう思った。どんな行動に出るか分かったものじゃない。三朝は、すべてに責任を感じていたから。負い目を感じていたから。

 だから幌は、宏司に楠本京介を任せ、自分は医務へ急ぐことにしたのだ。

 エレベーターへ向かいながら、携帯電話をあらため、舌打ちする。

 なんでだよっ。

 さっきから何回かけても三朝の携帯に繋がらない。電源を切ってあるのか、電波が届かない場所なんてこの本部内にはない!

 エレベーターホールに到着し、ボタンをガチガチガチと10回ほど押したところで、「ポン」と音がしてエレベーターの扉が到着した。扉が開く、その間すらもどかしく駆け込み、医務のフロアを指定する。

 三朝は医務にいる。ケガをした隼人に付き添って今もまだ医務にいる。

 いるはずだ、いてくれ!

 数10秒で軽い衝撃がしてエレベータが止まった。重い扉が左右に開くと同時に、医務のフロアが姿を現し始める。

 開けた光景に、幌は目を見張った。

 ――なんだ?

 医務は大混乱に陥っていた。廊下には入院着のままの患者が溢れ、ひとつの病室を取り囲んで口々に騒ぐのを、看護婦が必死になってなだめていた。

 注目の病室からは、女の叫び声と、それを制止する声が響いてくる。

 暴れだしたのか、伊豆史桜が。

 幌は人混みを掻き分けて病室の前へと進み、息を呑んだ。

「椎名……」

 史桜に歩み寄る隼人の後ろ姿があった。

 そんな。

 椎名はここに居る。

 じゃあ、三朝は……?

 幌は辺りを見回した。姿は見えなかった。

 何処にいる? 何処に。

 舌打ちし、幌は駆け出した。



   カウント 9


 髪を乱したまま、史桜はだらりと手を下げて床に座り込んでいる。

 隼人はゆっくりと足を踏み出しながら訊ねた。

「大丈夫か」

「なんで来たの」

 聞き慣れた彼女の声とは思えないほどの低い声が、史桜から発せられた。

「なんで来たりするの」

 隼人は唇を噛んだ。

「あんなこと言っといて、どうして来たりするの。私と2人にしてくれって、まだ何か言いたい事があるの」

「史桜」

「こんな姿見られて、まだ苦しまなきゃいけないの。もう涙すら出ないんだよ? ずっと痛かったのに、心だってもう麻痺しちゃったよ」

 史桜の声には、まるで鷹揚がなかった。機械のように感情のこもらない声で喋る、その様はまさに、人形だった。ねじ巻き式の壊れた機械人形。ねじが切れて、動かなくなってしまった。

 隼人の中で鳴って鳴って、鳴り止まなかったはずの警告音が、少し遠のいた。

 胸に鋭い痛みが刺し込んだ。こうなったのは明らかに自分のせいだった。史桜を壊してしまったのは自分だと、目の当たりにして、ようやく心の痛みを感じる。

 隼人は史桜の前に膝を折った。

「ちがうんだ、史桜、ごめん」

 史桜は顔を上げない。口も開かない。死んだ目で床を見つめている。なす術もなく隼人は見守った。ただ心の中で詫び続け、待った。

 やがて史桜が顔を上げた。その目には、少し彼女らしさが戻っていた。

 隼人はたまらず史桜を抱き寄せ、次の瞬間、思わず目を見開いた。

 感触が違った。抱き寄せた史桜は、信じられないほど軽かった。ほどよい弾力のあったはずの体は、ごっそりと肉が削げ落ち、萎えきってしまっている。まるで小さい子供を抱いたときのような、頼りのない脆さを感じさせた。

 隼人は史桜の肩越しに宙を睨み、切れるほど唇を噛み締めた。そのとき史桜の腕が背中に回された。隼人は、数年前とは比べ物にならないほど痩せ細ってしまった史桜の体を、思いの限り抱き締めた。



   カウント 8


 幌は診察室のドアを、力いっぱい手前に引いた。

 中に踏み入り、仕切りの奥、診察台、隣のナースステーションに繋がる吊り下げカーテンもまくって、確かめる。

 三朝の姿は、どこにもなかった。血の気が引いていくのがわかった。

 幌はとっさに身を翻し、診察室から廊下へ飛び出した。

「長野さん?」

 走り出したところを呼び止められ、振り返る。

 怪訝な面持ちの沙也香が立っていた。幌は沙也香に詰め寄った。

「三朝は?」

「え、いないんですか?」

「いない。電話も繋がらない」

「そんな……さっきまでここに居たはずです」

 沙也香が診察室に駆け寄った。中を見たって居ないことはもう分かっている。幌は告げた。

「椎名に知らせてくれ。俺は他を探しに行くから」

「でも、いま下手にあの部屋に入ったら、また」

「そんなこと言ってる場合じゃない」

「待ってください。伊豆さんだって猶予なりません。また取り乱したりしたら、今度こそ」

 幌は唇を噛んだ。こんな時に椎名が。こんな大事な、自分ではダメな時なのにに、椎名は……。

 歯がぎりっと鳴ったとき、思い至った。

 ――罠か、これが。

「あの子、どうかしたんですか? 一体なにが……」

 不安げに見上げてくる沙也香に、幌は言った。

「話してるヒマはない。椎名には隙を見て伝えてくれれば良い。とにかく見つけないとヤバいんだ」

「長野さん!」

 呼び止める沙也香を振り切って、幌は駆け出した。

 これがあの男が作った落とし穴だと思った。史桜を襲う事で隼人に隙を作り、三朝を手中に収める、卑劣な下劣な落とし穴。

 くっそ、大成功じゃんよ! 全員でまんまと、その穴に落ちてさあ!!

 でも、まだ遅くない。ついさっきのはずだ。三朝はまだ本部内のどこかにいる。

 行くとしたら……地下のロッカーか。

 廊下を右に折れ、幌はさらに地下へと向かった。



   カウント 7


 2人で抱き合っていた。腕の中で、史桜が動いたのはどのくらい経ってからだっただろうか。

 史桜が隼人を間近に見上げた。儚げな薄い笑みが浮かんでいた。

「よかった」

「え」

「嫌われたんじゃなかったのね」

「当たり前だろ」

 そう言った隼人に、史桜が首を振る。

「だって、あんなこと言うから……そんなに私のこと邪魔なのかと思って……」

「違う、そうじゃないんだ。ごめん」

「椎名くん」

 疲労の色濃い、泣き腫らして落ち窪んだ目で隼人を見つめる。涙で濡れた史桜の頬に、髪の毛が一筋貼り付いていた。隼人は指先でそれを払ってやった。

 それはまるで、時間が数年前に戻ったかのような、そんな錯覚を引き起こす瞬間。

 しかし史桜は、その隼人の手を制した。

「史桜」

「やめて。こんな少しの事でも私には……小さな事じゃなくなってるから」

 史桜は自分で自分の肩を抱いた。

「触れられたら、止められなくなるから」

 史桜を見つめ、伸ばした手の行き場もないまま、隼人は言葉を失っていた。

「私、知ってたのよ」

 史桜はうつむいたまま言った。

「立樹さんが、椎名くんの彼女だって」

 隼人はわずかに息を呑んだ。史桜は続けた。

「立樹さんにも何度も言っちゃったわ。椎名くんが忘れられないって、私。本当はずっと前から気づいてたの。見てたら分かるから……なのに、知ってて立樹さんに椎名くんのこと訊いたりして。でも立樹さん、何にも言わないで聞いてるの。私が椎名くんの話ばっかりするのに、少しも顔色かえないで黙って受け止めてくれるのよ? イイ子よね、本当に。立樹さんは隠しておいてくれた。私が今の彼女なんだって言えばいいのに、言わないでくれた。私が傷つかないように一生懸命、我慢してくれた」

 隼人は、それを知っていた。

 三朝がそうやって耐えていることを、隼人は心の何処かで知っていた。それでも己の立場を押し通してきた。三朝も、史桜もつらい思いをするというのに、見て見ぬふりをして、やり過ごして来た。

 史桜は顔を上げ、隼人を見た。

「ごめんね、椎名くん」

「あやまらなくていい。俺がそうさせたんだ」

「……そうなのね」

「すまなかった」

「仕方なかったんでしょ? 立樹さんだって、きっとわかってるわ」

 そう。史桜の言う通りだった。

 三朝は職務と割り切り、隊のトップとしての隼人の立場も承知した上で、史桜に接していた。隼人を責めるどころか、史桜に負い目を感じていた。こうなった責任が他の誰でもない、自分にあると思い、人知れず自分を責め続けてきたのだ。

 史桜が呟く。

「立樹さん、何度も来てくれたわね」

 そして、その度に三朝は追い込まれて行った。

「前にも言ったけど、私は、あの日の事は思い出したくない。あの日の事だけは。思い返したくないの、本当に。だけど……だけどそれ以上に、そこだけないの、記憶が。ぽっかりと抜け落ちてるの。意地悪で話さなかったんじゃないのよ」

 自分の肩を抱いたまま、史桜は目を伏せた。

 隼人は静かに言った。

「わかってる」

 人は、自分の身にあまりにも衝撃の強い事態が起こると、その時の記憶を失くしてしまうことがある。一時的に脳の回路を切断して、ショックを回避するのだ。覚えていては、生きていられなくなるから。

 隼人はそういう断片的な記憶喪失にかかった人間を見た経験があった。今回の事件が史桜にとって、どれだけ大きな爪跡を残す出来事だったか。史桜に接触しなくとも、隼人は嫌というほど分かっていた。

 だからこそ、想う気持ちのない自分が史桜の傍に居ることは許されない、そう思ってきた。

 隼人は、史桜を見つめた。

 そして異変に気付いた。

 震えている。史桜の肩を抱く手が、垂れ下がった髪の毛が、尋常じゃなく、震えている……。

「史桜!!」

 そう叫んだのと、史桜が崩れ堕ちたのが同時だった。隼人は手を伸ばし、史桜をその腕に抱き止めた。

 


   カウント 6


 診察室の机に座り、沙也香は電話を前に逡巡していた。幌の尋常ではない慌てぶりを思えば、いま何が起きているのか、これから何が起ころうとしているのか、知る必要があると思った。この状況で沙也香がそれを問える人物は1人しかいない。

 だが。

 躊躇い、でも意を決して、沙也香は受話器を手に取った。

 コール音は何度も続いた。もういまさら電話には出てくれないのかもしれない。

 沙也香が諦めかけたとき、受話器の向こうから声が聞こえた。

『はい、高橋』

「宏司さん? 私」

 わずかに息を呑む気配が、受話器の向こうに感じられた。

『沙也香?』

「ごめんなさい、突然」

『いや、あの……主任や三朝は? 幌もそっちに行っただろ?』

「それが」

 沙也香が言い淀むと、宏司の声が曇った。

『どうした?』

「三朝がいなくなったの」

『……本当に?』

「ええ。幌さんが探しに行ったの、すごく慌てて」

『そう……主任には?』

「だめなの、さっき伊豆さんが発作を起こして、付いてもらってるから」

『まじかよ……』

 そう言う宏司が、今、おそらく頭を抱えているであろう光景が、沙也香の目に浮かんだ。

「ねえ、どうしたの? 三朝、一体……」

 言い終わらないうちに、宏司は切羽詰った声を出した。

『いいか、沙也香。落ち着いて聞けよ。他言無用だ』

「ええ」

『三朝は、ある男に狙われている可能性がある』

 沙也香の喉が、無意識に鳴った。

『確証はない。犯行声明が届たわけじゃない。でも、その男は伊豆さんを襲った、あの犯人だ』

「そんな、だって犯人は」

『捕まえたよ、実行犯はな。ちがうんだ。公開はされてないけど、この事件には首謀者がいる。まだ何処の誰とも判明してないけど、存在することは分かってる。多分そいつが』

「三朝を?」

 そう言った自分の声があまりにも不吉で、沙也香は驚いた。宏司は直接それには答えず、言った。

『くどいようだけど、まだ確証はないよ。ハッキリした事は何ひとつ分かってない。何処の誰か、何が目的か、本当に三朝が狙いかどうかも、何ひとつ。手がかりすらない。でも俺らは何となく気がついていた。そんな雰囲気があった』

「じゃあ、どうして」

『証拠もないのに動けないよ、沙也香。俺たち司令部員には何十人もの部下がいる。上層部の目もある。ひとつミスしただけで終わりだ。何も確実なモノを掴んでいないのに、予感だけでは動けなかったんだ』

「でも三朝は、いなくなって……」

 同じ指令部員なのに、三朝は動き始めている。

『ああ。だから、ある程度、覚悟の上だと思う。俺の方で手を打つから、沙也香は主任に知らせて』

「そんな」

『医者としての立場もわかるよ。でもなんとか主任に伝えて。まだそんなに時間は経ってない。手遅れにならないうちに、頼む』

「……わかったわ」

 宏司の気配が慌しいものに変わったのを感じて、沙也香はそう告げた。いまから宏司も対応に追われていくのだろう。用件だけで電話は終わってしまうのだと、沙也香は当然のように思っていた。

 だが、受話器からは宏司の呼ぶ声が聞こえた。

『沙也香』

「え」

『電話、ありがとう』

 ブツッと音がして通話が切れた。

 最後の宏司の声が優しかった。

 その余韻を振り払い、沙也香は受話器を置いた。悔やんで、歯噛みする。

 三朝が居なくなったと幌が慌てて当然だ。

 自分だって、そうだと分かっていたら、あの場を隼人に任せたりはしなかった。

 沙也香は白衣をはためかせて身を翻し、診察室を後にした。



   カウント 5


 いつもは、どうということもない道のりが、今日はやけに長い。

 まだかよ! 誰だ、こんなヤヤコシイ造りにしやがったのは!!

 幌はブチ切れながら駆けた。

 JPOは防犯対策上の理由から、各フロア非常に込み入った造りになっている。特に武器庫でもあるロッカー室へは何度も廊下を折れ曲がり、迂回して行かなければならない。

 しかしその構造は、こんな時には邪魔くさい以外の何者でもない。

 ようやく見えた女子ロッカールームに駆け寄り、勢い良くドアノブを引いた。

「三朝!?」

 叫び声は、暗い室内に虚しく響いただけだった。中に人影はない。しかし。

 幌は男子禁制も構わず中に踏み入った。ロッカーの陰、ベンチの下、カーテンの裏。人が隠れられそうな場所を探った。

 三朝どころか、猫の子1匹いやしなかった。ロッカー自体は狭くて、いくら三朝が細くても入れるスペースはない。それに1つ1つに専用の鍵が掛かっていて、開けられなくなっている。

 じゃあ、どこだ?

 三朝のロッカーは閉まっていた。もし、必要な物をすでに持ち出しているとしたら、ロッカーは開いているはずだった。こんな時にご丁寧に鍵を掛けては行かないだろう。

 三朝は必ずここに来ると踏んでいた。武器の類はこのロッカーにあるのだ。いくらなんでも丸腰で出かけていくなんて……。

 まさか、すでに武器は仕込んであったのだろうか。

 幌はロッカールームを飛び出し、地下車庫へと駆けた。廊下を突き当たり、左に折れたところが地下車庫への入り口だ。

 車はあった。三朝の赤いワゴンは、そこに停まっていた。幌は車庫へと通ずるガラス扉に手を突き、安堵の息を吐いた。

 携帯が鳴りはじめたのは、そのときだった。

「はい、長野!」

『ああ、俺』

 聞こえてきたのは宏司の声だった。気が抜けた幌の返事は、さぞかし落胆して聞こえたことだろう。

「なんだ、宏司くん」

『なんだはないだろ。三朝が居なくなったって?』

「あ? なんで知ってる」

 幌は険しい声で訊き返した。三朝が居なくなったことは、まだ誰にも知らせていない。そんな余裕はなかったからだ。

 幌はただ、沙也香に伝言を頼んだだけ……。

「秋川か」

『まあね。応援、頼んどいたから。出入り口各所と、一応、駅にも。万一のために車も待機させた。とりあえず秘密で。上に伝わったら、ややこしいだろ?』

 単独行動は規定で禁止されている。もしも三朝の失踪が上層部に伝われば、三朝は間違いなく何らかの処分を受けるだろう。しかし、三朝が犯人に接触する前に未然で食い止めれば、責任問題にはならない。幌はそうしたかったし、宏司もそこを配慮しているのだ。

「ああ。優秀で助かるね」

『幌は? いま、どこ?』

「地下車庫の入り口。車はまだある」

『そう。じゃあ、まだ本部に居るな。管理に聞いたら銃を持ち出した記録はないって。荷物も鞄ごと司令室にあるらしい。そこにも1人、警備が行くから大丈夫じゃない?』

「だといいけどな」

『心配ないって。もうすぐ主任も動けると思うし』

 幌の脳裏を、隼人の姿がかすめた。伊豆史桜の病室で、彼女に歩み寄ろうとしていた隼人。幌は苦虫を噛み潰したような心地で言った。

「椎名はアテに出来ないんじゃないか」

『いや多分、大丈夫。秋川には全部、話したから』

「……ホント君、優秀だね。使えすぎて涙が出ちゃうね」

『俺もこれから地下へ行くよ』

「あ? お守りは」

 宏司は今、楠本京介に付いているはずだった。

『連れてこうかと思ってさ。医務へ』

「医務?」

『ああ。主任にはすぐ動いてもらわないと。それより幌』

「あ?」

『今度こそ主任、殴るなよ』

 け。

「さあな。分かんないね」

『おい、幌っ』

「んじゃ、ヨロシク」

 幌は電話を切った。

 殴るなよ? 分かるか、んなもん!!

 遣り切れない思いでため息をついた。すっかり頭に血が上っていた自分を、罵りたくなった。

 他を探しに行こうと顔を上げると、向こうからアシストの刑事がやって来ているのが目に留まった。確か、三朝のチームの生田とかいう刑事だ。

「長野警部」

 生田も気付き、声をかけて走り寄ってきた。

「地下車庫は自分が」

 やはり、宏司が差し向けた捜索隊の1人らしい。

 けど……こいつで大丈夫なのか?

「ここは出現率高いと思うけど、1人で大丈夫?」

 訝しげに問う幌に、生田は生真面目な表情を崩さず頷いた。

「任せてください。それに、大人数で目立ってもいけませんし」

 うーん。

「大丈夫です。必ずお止めします」

 生田は断言し、胸を張ってみせた。

 ――こいつも立樹信者か。

 幌は1歩踏み出しながら生田の肩に手を置いた。

「じゃ、ヨロシク」



   カウント 4


 受話器を置いて、宏司はため息をついた。

 まったく、三朝の事となると見境ないんだ、幌は。

 宏司は椅子から立ち上がり、隣室の楠本京介のいる部屋へ行こうとした。


 しかし鳴り出した電話に、足止めされた。



   カウント 3

 

 望は、本部長室を出てJPO内を歩いていた。隼人を見舞いに、三朝を慰問に、医務へと向かっている。半分は自分の意思、もう半分は父親の命令だ。

 父親は人使いが荒く、義姉は危なっかしい。それが望くんの悩みのタネ。

 父は口にはしなかったが、隼人が殴られるというハプニングをきっかけに、いわれのない胸騒ぎに駆られ始めたらしい。そして、それは望も同じだった。

 1階のロビーへと差し掛かった。このロビーを横切れば医務へと続く廊下に入る。望は歩きながら、ポケットから飴を出して口へ入れた。

 実のところ、タバコを吸いたくて堪らなかった。だけど高校生が警察署内で堂々と喫煙というわけにもいかない。しかも望は警察官の身内ときている。家族思いゆえ、せめてもの代替品として、のど飴で我慢しているのだ。

 両手をポケットに突っ込み、うつむきながら歩く。

「ふーむ」

 と、思わず唸っていた。

 すると、不意に笑い声が聞こえた。女性の含み笑う声。望は立ち止まって顔を上げた。

 そこにいたのは、2人の若い綺麗な婦警さんたちだった。望と目が合うと、彼女たちは肩をすくめて顔を見合わせ、何事もなかったかのように大人の魅力満載の笑顔を浮かべて一礼し、去って行った。

 望も頭を下げ返し、2人を見送った。

 一瞬、何のことやら分からなかった。

 何処からどう見ても、望は立派に『今どきの高校生』に見えることだろう。

 え? ちょっと御姉様方?

 誤解です!! 

 ボク、補導されたんじゃありません!!

 口の中で飴が砕けた。

 くそー、覚えとけよ。三朝、バツ1個。

 望は大きなため息をつき、気を取り直して歩き始めた。医務はもうすぐそこだ。

 ゆるやかなスロープの廊下を下る。医務は相変わらず人気がなく、ひっそりとしていた。

 そして診察室の前に辿り着いたとき、ちょうど中から出てきた沙也香に出くわした。

「わ、びっくりした」

 扉の外に立っていた望を見て沙也香が声を上げる。

 望はにこっと笑って見せた。

「ごめん、脅かすつもりじゃなかったんだけど。三朝はココだって聞いたから。なんか椎名さんが大変だったって」

 いつもならば、沙也香は「そうなの」とか言って素敵に微笑むところだ。

 でも、今日の沙也香は違った。切迫した表情で望に縋ってきた。

「それが大変なの、望くん。いなくなったのよ、あの子」

「え? どーゆーコト?」

 望は何食わぬ顔でそう訊いた。とりあえず『何も知らないフリ』を決め込んだ。沙也香が答える。

「それがね、ちょっと訳あって椎名さん、伊豆さんについてもらってるんだけど」

「伊豆さんて、あの患者さん?」

「そう。あの子、その隙にどっか行っちゃったのよ」

「え? でも、どっかって」

「ごめん、望くん。ゆっくり話してる暇はないの。私、椎名さんに知らせなきゃ」

「そっか。じゃあ俺も探してみるよ」

「ホントに? なんか、また無茶しようとしてるみたいだから、あの子」

 望はわざとらしく舌打ちした。

「ったく、あのお姉さまは」

「ごめんね。ヨロシク」

 沙也香は慌てた様子で去っていった。

 望はその方向を見送った。きつい目をして。

 そして、ロビーへ取って返した。

 はん。やっぱりかよ。やっぱりか、三朝。

 まったく、どこまでも破天荒なお義姉さまだね。

 ロビーからエントランスを出て、地下へ迂回する。

 その途中、父親に電話を入れた。

 心は、静かに燃えていた。

 椎名隼人は、今頃この事実を知っただろう。

 どんな理由があったにせよ。

 こんな時に伊豆史桜のところへ行ったりするか?

 三朝のことなど、もうすでに何もかもお見通しのような顔をしていたのに。

 10年近い付き合いのある望よりも、わかっているような顔をしていたのに。

 そのくせ、こんな時だけ放置プレイかよ。

 まったくもって、大人ってのはヤな人種だね。



   カウント 2

 

 ベッドの上で史桜が小さく呻いている。

 その様は明らかに変調を来たしていた。完全に意識を失っているわけではなさそうだが、震えの止まらない唇からは赤味が失せ、顔は蒼白になっている。なのに吐き出す息は荒く、額には玉の汗が滲み出ていた。隼人はすぐに沙也香を呼ぼうと、病室の入口を振り返った。

 だが、その必要はなかった。いつの間にか扉が開いていて、そこになぜか沙也香が立っていたのだ。

 隼人は驚いた。

「秋川……」

 瞬時に状況を読み取ったのだろう。沙也香は硬い表情のまま隼人に歩み寄り、低い声で告げた。

「ここは何とかします。急いで下さい、三朝が……」

 隼人は足元が揺れるのを感じた。

 ぐらっとした。

「三朝が、どうした」

「それが」

 隼人を見上げる沙也香が言い淀む。

 次なる来訪者は、そのときやって来た。

 戸口から声がしたのだ。

「主任」

 振り返ると宏司と、京介が、立っていた。

 京介と目が合う。だが、そこには先ほどのような猛りはなかった。京介は史桜を見ると、さっと顔を強張らせて史桜に駆け寄った。

「秋川。早く伊豆さんを」

 宏司は沙也香を促すと、隼人に近寄り、囁いた。

「状況は俺が話します。ひとまず来てもらえますか」

 その顔は切迫していた。隼人は息を呑んだ。

 まさか、まさかもう……。

「大丈夫です。まだ……」

 隼人の気持ちを汲み取ってか、宏司がそう言った。

 そのとき。

「伊豆さん!」

 沙也香の叫びが聞こえた。隼人も宏司も、驚いて振り返った。

 史桜はひどく苦しげに体を縮め、浅い呼吸をようやっと吐き出し、小さな叫びを上げて何事か呻いていた。沙也香が彼女の枕元にあるナースコールを押し、気難しい顔で聴診器を取り出している。

 隼人は彼女を見守った。宏司も固唾を呑んでいる。

 史桜は喘いでいた。体中を力ませてもがき、脂汗を掻いて、混濁し、錯乱寸前の意識の中、

 ついに叫んだ。

「行っちゃ……行っちゃダメ! 立樹さん、


 殺される!!」

 

 一気に病室内が凍りつくのが分かった。宏司も、沙也香も、京介も呼吸を忘れ、立ち尽くしている。

 隼人は。

 廊下へ駆け出していた。

「主任!」

 だが、そう叫んだ宏司に強く腕を掴まれ、行く手を阻まれた。

「離せ」

 隼人は低く、短く凄んだ。しかし宏司はひるまず、言った。

「本部長代理がお呼びです」

 その瞬間、隼人の頭に上っていた血が引いた。

 ――なんだ、それは。なぜ今そんな……。

 分からなかった。タイミングが合いすぎている。三朝がいなくなった直後、呼び出される。

 その絶妙な、奇妙なタイミングは、なんだ?

 不意に隼人は、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして顔を上げた。

 史桜が隼人を見ていた。

「椎名くん……」

 史桜は意識をはっきりと取り戻していた。苦しげなままベッドの上に手を突いて、前のめりになって隼人を呼んでいた。

 その理由を、隼人は察した。

 歩み寄りながら、うわ言のように漏らした。

「思い……出したのか……?」

 史桜は目を震わせて隼人を見上げ、すぐ目の前に立った隼人の両腕を掴んだ。

 史桜は真実を告げた。



   カウント 1

 

 真っ白い廊下を、幌が駆け抜けていく。

 三朝はドアを開き、幌の後ろ姿を見送った。額を拭った。冷や汗をかいていた。

 やっぱり幌は伊達じゃない。

 地下ばかり狙って走り回っている幌と、これで2度目のニアミスだったのだ。咄嗟に姿を隠した、さすがに男子トイレはノーマークだったようだ。

 三朝は角に消えた幌を見届け、廊下に出た。時間は迫っていた。幌が遠ざかって行ったのとは逆の方向へ足を踏み出し、ロッカールームへ向かった。

 有資格者キャリア専用の女子ロッカールーム。事実上、三朝専用の部屋だ。JPOには現在、三朝以外に女性幹部はいない。つまり誰かと鉢合わせする心配はない。

 しかし、もちろん明かりは点けずに中に入った。

 駆け回ったせいで、ぐっしょりと重くなったカットソーとスカートを脱ぎ捨て、ロッカーに常備してあるTシャツとジーンズに着替える。背中の中ほどまである髪を、手早く束ねて巻き上げた。

 天井際の換気窓から差し込む明かりで室内は仄暗い。顔を上げると、鏡に自分の顔が映っていた。

 ひどい顔だ。余裕をなくして凝り固まった顔。

 あの男からメールが届いたのは、診察室から隼人が出て行ったすぐ後のことだった。

 そのタイミング。場面の一部始終を見届けていたかのような、まるで三朝が1人になったのを見計らったかのような絶妙のタイミングに、三朝はメールを開く前に診察室から駆け出していた。

 内容は、もう頭に焼き付いている。

 

〝待たせたね、ゴメン。ようやくこの日が来たよ。今夜12時、H庭園前の橋の上で会おう。楽しみだね。ただし、これは俺達だけの秘密。絶対だよ〟


 あの、おぞましいような空寒い感覚は、もう感じなかった。代わりに激しい憎悪が、三朝を燃え立たせていた。

 罠に掛からなければ姿を現さないと言うのなら、飛び込むまでだ。1人で会いに行かなければ尻尾を掴ませないと言うのなら、喜んで会いに行く。犯人からの招待状なんて、めったに貰えるもんじゃない。

 きっちり、受けさせて頂く。

 そのとき三朝の所持する3つ目の携帯電話が鳴り始めた。個人用、仕事用、そして、今鳴っているのは『さる男性』からの預かりモノだ。

 電話は待ちかねた『さる男性』、その人からだった。

『準備、完了しました』

 男性はなんの前置きもなくそう告げた。三朝は立ち上がり、ロッカーの扉を静かに開けた。奥のカバーをスライドさせると、金庫が現れる。

「いいよ。合図して」

『では、あと10秒で解除します。一瞬ですよ』

 三朝は電子制御盤に暗証コードの入力をはじめた。電話の向こうではカウントが始まっている。指をキーの上において、その一瞬を待った。

『5秒前、4、3、2、1……』

 エンターキーを押した。いつもはここでビープ音が鳴って、ロックが解除されるのだが、今日はただカチッと、金庫が開く軽い音がしただけだった。

「やったよ」

 三朝は笑い、金庫の扉を手前に引いた。

 電話の相手が、硬い声を返してきた。

『立樹さん』

「ん」

『椎名主任に、本部長から極秘召集がかかっているようです』

「……そう」

『お気をつけて。僕はこのまま通信部にいますから』

「了解。ありがと」

 三朝は電話を切り、ジーンズのポケットに収めた。

 ロッカーからホルスターを取り出して腰のベルトへ差し込み、金庫から取り出したけん銃を仕舞う。実弾10発入りのケースを1つポケットに落として、ジャケットを上から羽織った。

 どうやら三朝の失踪は、本部長代理である佐木沢の耳にまで届いてしまったようだ。そうなれば尚更、ここに長居は無用だった。

 三朝はロッカーに置いてあった車のスペアキーをつかみ、地下車庫へ向けて、ロッカールームの扉から、用心深く外へ出た。

 幸い、このロッカールームと地下車庫は近い。なにせ出動のときに使用する部屋なので、時間をロスしないよう、隣り合わせた配置になっているわけだ。

 誰もいないことを確認すると、三朝は一気に地下車庫へと駆けた。

 車庫へ通じるガラス扉の前には、アシストの刑事、生田が1人で佇んでいた。三朝に気付き、振り返る。

「警部」

「ご苦労様。ちゃんとやってくれたのね」

「はい。上手く行きました」

 3隊の誰かが手配するであろう出入口各所の警備。三朝は事前に直属の部下である生田に連絡を取り、地下車庫の見張りにつくよう指示してあった。生田は今から三朝に伸され、あえなく取り逃がしてしまうという役目を演ずるのだ。

「じゃあ、後はお願いね」

 三朝はガラス扉に手を伸ばした。そこへスッと生田が立ちふさがる。三朝が見上げると、どういうわけか生田は首を振った。

「申し訳ありませんが、お通しすることは出来ません」

 三朝は眉をひそめた。

「自分は、警部をお止めするつもりで待っていたんです」

 ……なに言ってんの、この人。

 三朝は辺りを見回した。ぐずぐずしていたら、今度こそ幌に見つかってしまう。

 しかし立ちはだかった生田は言った。

「警部、お願いですから無茶な事はやめて下さい。相手は殺人犯です。それも若い女性ばかり、4人も殺した奴なんですよ。そんな奴の所へ、警部1人で行かせる訳にはいきません」

 生田の口調は強い。こんな強固な姿勢の生田を見るのは初めてだった。筋肉質なその分厚い胸を膨らませ、文字通り体を張って出口を塞いでいる。

 三朝が気圧されて黙っていると、生田は訴えを続けた。

「いいですか、警部。失礼を承知で申し上げますが、警部お1人で何とか出来るとは思えません。いくら命令と言われても、危険と分かっていて見過ごすことは僕には出来ません。それに、悪くすれば警部の進退にも関わることなんですよ」

 心が揺れた。三朝は目を伏せ、唇を噛んだ。

 生田の言う通りなのだった。相手は凶悪な殺人犯、三朝1人で何が出来る?と問われれば、言い返せるほどの自信などない。だって本当は、メールを受け取る度に戦慄に震えていたのだ、三朝は。

「警部」

 生田が呼んだ。見上げると、その目にはさらなる決意が滲み出ていた。

「命令違反で処分されても構いません。警部を行かせるよりはマシです。どうしても行くと仰るのなら、僕にも考えがありますよ」

「生田くん……」

 三朝は生田の熱いほどの視線を受け止めた。これほど三朝を思ってくれているとは。まさか生田がそこまで意思を固めているとは思わなかった三朝は、確実に心を動かされていた。

「警部、」

 生田が何か言おうとする、三朝はその前に生田に抱きついていた。踵を上げて、生田の首に腕を回し、生田を抱きしめた。

 不意を突かれた生田の体が硬くなった。

「け、警部……」

「アリガト。おかげで決心がついたわ」

 耳元で囁く。抱きしめる。三朝の背中に、生田の手が近づき始める気配がした。それを横目で視認し、三朝はもう一度、囁きかけた。

「ごめん」

「え」

 次の瞬間、思いざま、生田の股間に膝蹴りをぶち込んだ。短い呻き声が漏れ、生田はガラス扉を伝って崩れる。三朝は彼を見下ろした。自分の刑事生命を賭けてまで、三朝を止めようとした生田を。

「アタシも、もう警察はいいんだ」

 聞こえたかどうかは分からない。三朝は生田の体をまたぎ、ガラス扉を押した。



   カウント 0


 急がなければ。生田はじきに目を醒ます。すぐにも司令室へ連絡を入れるだろう。

 三朝は車へとひた走り、キーレスエントリーでロックを開けた。ハザードが2回、点滅する。乗り込んでしまえば、あとは地上のゲートをブチ破るのみ。

 駆け寄り、三朝は車のドアノブに手をかけた。

「どこ行くの?」

 背後で響いた声に、三朝は飛び上がりそうになって振り向いた。

「望……」

「夜中のドライブなら俺も連れてってよ。勉強しすぎでクサクサしててさ、気晴らししたかったんだよね」

 望は何食わぬ顔で言いながら、三朝に歩み寄って来る。三朝は意味が分からなかった。道端で会うのはまだいい。だが何故こんな所に望が出てくる?

 神出鬼没にも程がある。

「そういやドライブもよくしたよね。三朝が免許取りたての頃。俺、あんときはガキんちょだったけど」

「女の子、追っ掛けて帰ったんじゃなかったの」

「いまは立派に男だよ」

 噛み合わない会話。見つめる望に、三朝は折れた。

「知ってるよ」

「へえ。じゃあ試してみる? 従姉弟同士は許されるんだよ」

 妖しく微笑み、望は、車のドアノブに掛けたままの三朝の手に、自分の手を重ねた。華奢に見えるくせに、三朝の手よりもデカくて硬く、なにより力強かった。

「離して」

 三朝は強引にドアを開けようとした。だが、望が三朝の手ごと固定したノブは、ビクともしなかった。

「言っただろ、俺はもう男だって」

 望が三朝に詰め寄って来る。自然、三朝は後退りし、体が車に押し付けられた。右手は望に塞がれ、左腕は背中の下敷きとなった。

 近年では最も接近した距離にいる望を、三朝は見上げた。

「まさかアタシを監視してたの?」

 望は笑顔を絶やさず、とぼけた。

「なにソレ? あ、そうそう。言い忘れてたけどね、俺、夏休みの間だけ湾岸地区に住まわされてるんだよね。短期集中ひとり強化合宿ってとこかな。受験生じゃん、これでも」

「じゃあ帰って勉強しなきゃ」

「冷たいオコトバ。気晴らしさせてって言ってんだろ」

 三朝は一瞬、入り口を振り返った。焦っていた。もうすぐ誰かが来てしまう。誰かがあのガラス扉を押し開けて、怒号を上げながら駆けつける、今にもそんな事が起こりそうな妄想にかられる。

 三朝は勤めて焦燥を押さえ、言った。

「悪いけど、時間がないの」

「なに? 俺のことフッて、別の男んトコへ行くわけ?」

 望が呆れたように薄く笑う。そしてついに、力をこめて抵抗していた三朝の手をドアノブから引き剥がした。そのまま強く握り込む。

 浮かんでいた笑顔は、消えていた。

「もしそうなら、ここで襲うよ」

 低い、重さを孕んだその言葉に、三朝は目を丸くした。

「望」

「本意じゃないけど、本気だよ」

「ちょっと待って」

「だったら行くのやめてくれる?」

「望」

「そんな目したって、ダメに決まってるだろ」

 望が笑わない。口調こそ穏やかだが、青く燃え滾る視線で三朝を貫く。

「いつもいつも、こっちの身にもなってよ。三朝1人で何でも片付くと思ってんの? なんで椎名さんに言わないんだよ。なんで、おまえ1人が背負い込まなきゃなんないわけ?」

 反論しようとする三朝を、望はさせない。

「自分のせい? なんで? おまえ、犯人なの? おまえがみんな殺したの? ちがうよね。三朝はあくまで刑事だろ。チームの一員じゃん。スタンドプレーは禁物じゃない? 結果出せなかったらクビだよ? そんな自信、あんの?」

 目で口で凄み、畳み掛けてくる望に、三朝は息を呑んでいた。

「自信あんのかって聞いてんだよ」

 望が責める。追い詰めてくる。時間も迫っている。

 開きかけた三朝の口を、望が手で塞いだ。

「聞き分けない子は、お仕置きだよね」

 目を見開いた。本気だ。望は本気。その本気さ加減に絶句した。望を怖いと思ったのは初めてだ。

 ふわっと体が浮いて、コンクリートの床に叩きつけられた。望が三朝の肩に手を置き、見事な足払いを掛けてなぎ倒したのだ。一瞬の出来事だった。

 手を突いた三朝に、望が圧し掛かってくる。表情のない顔で、三朝に迫る。

 三朝は望と見詰め合ったまま、後退さった。

「望」

「俺だってこんな悪役、したくないんだからね」

「だったらやめて」

「ショウガナイだろ。三朝が言うこと聞いてくんないんだからさ」

「待って」

「悪いけど、本気だって言ったよね。襲うって」

「お願い、望」

「ダメだね。もう」

 望は三朝の肩にかかっていた髪を指に絡め、ゆっくり払っい取った。

 喉が鳴りそうだった。これ以上、これ以上、追い詰めないで欲しい。三朝は望相手にそんな事はしたくない。したくないのに……。

 床に突いた右手を、望に気付かれないように浮かせた。

 望が容赦なく距離を詰めてくる。迫る。

 もうすぐそこに、望の顔がある。

 三朝は右手を素早く動かし、けん銃を取り出した。

「三朝……」

 突きつけられた銃口を見て、望が青くなった。

「立って、早く」

 銃口を望の鼻先に押し当て、三朝は告げた。安全装置を外す。カチッと言う乾いた音がする。望は身を引き、ゆっくりと立ち上がった。

 銃を望に固定したまま、三朝も立った。

「ゴメンね、望」

「なんだよ」

「動いちゃダメよ。黙って行かせて」

「なんでだよ」

 望の声が震えている。無理もない。三朝も、ここまではしたくなかった。

「今日を逃せば、永遠にカタをつけられなくなる。それだけは避けたい。アタシのせいじゃなくても、許せないから。警察に居られなくなったっていい。自分でカタを付けたいの。誰に守られることなく。でも心配ないよ。死にはしない。約束する」

 言って、三朝は車のドアを開けた。左手でキーを差し込んで、エンジンを掛ける。もちろん、銃口は望に向けたまま。

 三朝は望の様子を見守りながら、慎重に体を車の中へと滑らせた。

 そう。死にに行くのではない。死んではならない。生きてあの男を処刑台に引っ張り上げてやる。そのために三朝は行く。

 車のドアを閉め、ロックを掛けた。三朝はようやく銃を下ろした。望がドアに張り付く。エンジンが低く唸っている。もういつでも走り出せる。

 三朝は、ウィンドウを少し開けた。

「三朝!」

「手荒なコトしてゴメンね、望。でも弾は入ってないから」

 望が目を見開いた。そして悔しそうに歯噛みする。

 実弾はまだ、三朝のジャケットの中だ。

「大丈夫、ちゃんと戻ってくるから」

「頼むから、三朝」

「なんて顔してんの、男なんでしょ」

「ずっとガキ扱いしてきたくせに」

「望」

「なんだよ」

「戻ったら、遊んでね」

 何か言おうとする望を振り切るように、三朝は思い切りアクセルを踏み込んだ。ハンドルを鋭角に切って出口へ向かう。タイヤの軋む音が、悲鳴のようにコンクリートの場内に響く。三朝はミラーを見やった。望は瞬時に車から飛び退き、よろめいただけで済んだようだ。よかった。

 スポーツワゴンは地上へのスロープを一気に駆け上がった。


   カウント over


「三朝!!」

 遠ざかるテールランプに向けて、望は叫んだ。地団太を踏みたい気持ちでいっぱいだったが、それより先にすることがある。望は駆け出した。

 停めてあったバイクに飛び乗る。エストレヤRSクロームバージョン。オレンジとシルバーの車体がお気に入りの、秘密の愛車。キーをひねり、アクセルを踏み込む。バイクはウィリーせんばかりに走り始めた。

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