第十章 余情循環


   1


「どうしたの?」

"この前の続き"

 耳に当てた携帯電話の声に、沙也香は大きく息を飲んだ。

"会って話したいんだけど、出てこれない?"

「いま自宅なのよ」

"知ってる、実は"

「ああ、下にいるの?上がってくれば?」

"何号室?"

「701。鍵は開けておくから」

"わかった"

 電話が切れ、沙也香は片手に携帯を握ったまま、ソファにもたれて煙を吸い込んだ。

 宏司との関係は、本当に些細なことから始まった。

 業務が終わってロビーへ出たら宏司と一緒になり、飲んで食事をしてホテルへ行く運びとなった。女にだらしないのを承知で誘いに乗った。

 一度きりだと沙也香は思っていたが、関係を続けてきた。

 玄関の扉が開く音がした。沙也香はタバコを消して、部屋の入り口に目を向ける。

「よう」

「うん。座れば?」

 立ち上がりながら沙也香は座っていたソファを宏司に勧め、キッチンの冷蔵庫へ行った。

 宏司にビールを渡すと、沙也香は隣に腰を下ろした。


「沙也香」

 ビールをひとくち飲み、宏司がうつむき加減で言った。

「なに?」

「たしかに、最初は勢いだったと思うんだ」

「……つらくなってきた?」

「そうだな」

 沙也香は缶を取り、ひとくち飲んだ。缶をテーブルに戻すと、宏司の方へ向き直る。

「どうしてなの?」

「嫉妬だよ」

 宏司に断言され、沙也香は言葉に詰まった。

「嫉妬してる。すごい、イヤ。アシストのやつと寝たんだろ?」

「…………」

「誰だよ、」

「…………」

「なあ……なんで俺の仲間と……」

 宏司はうなだれ、心なし唇を震わせていた。

「気が向いたからよ」

「え?」

「話してるうちにカワイくなってきて、一生懸命に口説かれたから。寝てもいいかな、って思ったの」

「…………」

「あなたも同じでしょ? カワイイ子と寝るでしょ?」

「……そうか」

 宏司は言って、顔を上げた。

「悪かった。俺こそ責めたりできる立場じゃないのに」

 そういうと、ソファから立ち上がった。そして玄関の方へ足を向ける。

「もう言わないよ。ごめんな」

 やがて玄関の扉が閉まった。

 ソファに座ったまま、沙也香はその後も動かなかった。

 もう連絡が来ることはないだろう。沙也香はこのチャンスを逃したのだから。

 逃し、さらに誤解を招いたのだから。



   2


「じゃあ、一時間後にここな」

「わかった」

「気をつけろよ」

「わかってるって」

 またもクギを刺して繁華街の方へ歩いていく隼人を見送りながら、三朝は反対方向へ足を向けた。

 いまから二手に分かれて聞き込みをして街を歩くのだ。ひさびさの外での仕事に気合いが入る。

 ひとまず一時間、めいっぱい歩き回って職務に励もうと思っていたのに。

「…………」

「よー、奇遇だねー。なんでこんなトコ歩いてんの?」

 なぜか、前方から歩いてきたのは望だった。それも、オモシロイものを見つけたときに見せる破顔の笑顔で。

「なんだよ、んなイヤそうな顔するなよ」

「だって……なんでアンタに会うのか不思議だもん。おかしいもん」

「あのなー、よく考えてみ? ここは俺の学校の近くだろ?」

「……そうだったよ……」

「なに? ひとりなの?」

「通り反対エリアに隼人がいるはずよ」

「ああ、聞き込みか。ついていこうかな」

「だめ」

「そんなツレないこと言うなよ。俺は会えて嬉しいんだからさ」

「なによ、アタシだって今じゃなかったら会えて嬉しいよっ。仕事中だからゴメンね、って言ってるんでしょ」

「そう。なあ、椎名さんとどう?最近。 うまくいってるの?」

「いってるよ、今のところは」

「別に変わった様子ない?」

「ないよ。なに、なんかしたの、アンタ」

「いや、あの女の人のことがあったからさ。大丈夫なのかな、と思っただけだよ」

「ま、まだ今日は大丈夫かな」

「今日は? おまえは」

「気をつけるわ。急いでるからゴメン。行くわ」

「おう、近いうちにオマエんち行くから」

「前もって電話くれたらいつでもいいよ」

「ああ、椎名さんがいるもんな」

「……またねっ」


 走り去っていく三朝を、望はしばらく見送っていた。そしてため息をつく。

 なんで無理してるんだろう、と思う。いつもいつも、またかと思う。

 一緒に暮らすことになって最初に会ったときから、ずっと無理をしているのが望にとっての三朝だった。両親を亡くしたこと、婚約者が別の女性と結婚したこと、そのなりゆきで警察に入ったこと、そして今も隼人とのことを。三朝が泣いているところなんて見たことがない。

 もちろん、そんなところは見ないままでいい。

 実際に隼人に会って、自分の父親が三朝に会わせた理由がわかった気がした。それを確かめたくて隼人に会ったのだが、そうした甲斐はあったと思う。

 最初に会った時の三朝が、望の中に鮮明に残っている。まだ十歳にも満たなかった自分にもわかるくらい、三朝はつらさに耐えていた。強烈だった。苦しいのを耐えて隠そうとしているんじゃない。まるで『これがアタシの環境なんだよ』といわんばかりに、次々におそう苦難をあるがままに受け止めて、泣き言も言わずに……そう、あきらめている。

 いま思うとおかしいが、子供心にも三朝をなんとか助けてあげたいと思った。そして、いまだにそう思っている。間違っても恋愛感情からではないことは理解済みだが、ちょっとやそっとでは三朝への心配が消えないこともわかっている。

「ほんと、どーしよーもない」

 望はつぶやき、道を歩き始めた。



   3


「隼人、ケイタイ鳴ってるよ」

 三朝は、脱衣所でTシャツを着込んでいる隼人に無言で震え続けるケイタイを差し出した。

「おう、悪い」

 三朝は笑い、またリビングの方へ歩いていった。隼人はタオルを肩に掛けながら電話の着信相手を見た。

 京介だった。

『あ、椎名? 俺だけど』

「どうした?」

 どうしたも、こうしたも。

『近々、ちょっと会えないかなと思ってな』

「明日の夜、たぶん空いてると思うけど」

『よかった。じゃあ俺がそっち方面、出ていこうか?』

 湾岸エリアと都心では少し離れている。特殊な電車路線に乗るか、すこし車で高速を走るかしないと都心からは湾岸エリアに行けない。そういう意味で、都心と湾岸エリアは"そっち側"と"こっち側"だ。

「いや、夕方あたりはそっちにいるから、都心でいいよ」

『じゃあ』

 京介が時間と場所を指定し、隼人はそれをOKした。

『悪いな、突然で』

「いや、いいよ。俺もちょうど話あるから」

『そうか……じゃあ、明日』

「電話する」

 わかった、といって京介は電話を切った。

 リビングへ出ると、ソファで雑誌をめくっていた三朝が顔を上げた。隼人は隣に腰を下ろした。

「誰からだったの?」

「女じゃないから安心しろよ」

「……誰からだったの」

 冗談を取り合わず、声のトーンを落として三朝が問う。隼人は思わず笑った。三朝がムッとした顔をする。

「なに」

「心配性だなと思って」

「別に女の人からだ、なんて思ってないし」

「それは失礼」

「もう。結局ゆってくれないんじゃん。いいけど、別に」

「……怒るなよ」

 そう言いながら三朝に顔を近寄せる。

 三朝は抵抗するように身を縮め、隼人の額を軽くたたいた。

「ぃた」

 驚いて三朝の目を見た。

「なんだよ」

「ごめんね……ちょっと八つ当たり」

 ため息をついて、隼人は三朝を抱き寄せた。

「……はぐらかしてるのはどっちだよ」

「だからいいんだよ、隼人って」

「なにが」

「怒らないもん、こういうときも」

「へえ、」

 三朝が少し離れて隼人を見上げる。

「なに?」

「そういう言い方もあるんだな」

「え?」

「なんでもない」

 笑い、そしてキスをした。三朝の前髪をかき上げて、髪に手を絡ませながら後頭部からまた抱き寄せる。

「抵抗しないのか?」

「もっとして」

「やらしーヤツ」

 また、キスをする。雪崩れるように三朝をソファに倒した。



   4


 翌日、調べ物をしていた個室に、沙也香が来た。

 一瞬、言いにくそうに言葉を選んでいたが、やっぱりというかんじで口にした。

「あの、ちょっと伊豆さんのことでね」

「悪いの?」

「毎晩、夢を見るみたい。あの日のね」

「ああ……あるよね、そういうの」

「アンタもあるの?」

「あるよ、怖い目にあったときは。夢の中で急に足が重くなって逃げられなくなったりね」

「そうか、あるよね。アンタの場合も」

 沙也香の声が沈む。三朝は少し笑った。

「そんな深刻にならないでよ、それより伊豆さん、困るんじゃないの? それって」

「うん、そうね。もう、そろそろ1人にしておくのは限界かもね」

「…………」

「最初のうちはね、人に会いたくないもんなのよ。恥ずかしい、とかいろいろ思うから。でも、いくら自分で否定しても現実に被害にあったんだ、って実感してくるでしょう? そしたら次は怖いじゃない。誰かの支えが必要になってくるの」

 そして史桜はいま、その時期まで来ていると。

「あ、違うよ。アンタが身を引いたって解決しないよ、椎名さんがアンタを好きなかぎり。もう一切、ムリ。わかる?」

「わかるよ」

「ほら、いたじゃない。あの人、誰だっけ? お見舞いに来てたじゃない」

「楠本さん?」

「ああ、そう。あの人がいいなー。伊豆さんのこと、ホントに大事そうにしてたから」

「ああ」

「そういうのが必要なのよね。献身的っていうか。椎名さんじゃ、もし仮にそばにいたって、どうしても三朝っていう存在があるからね、ダメなのよ」

 三朝はふと笑った。

「ことさら強調してない? 隼人じゃダメだって」

「だって心配だもん」

「でも隼人、伊豆さんの部屋から出てきたじゃない? あんな夜中に」

「ああ、あれね。うちの看護婦さんに聞いたんだけど、アタシがいない間に伊豆さん、病室抜け出したんだって」

「ええ?」

「そりゃもう、いない、って大騒ぎになるところだったんだけど、警備の警官の人が見つけて、それで椎名さんと一緒に病室まで連れてきてくれたんだって。だから騒ぎにはならなかったんだけど、なんせ伊豆さんが取り乱してて、椎名さんも落ち着くまではって病室に少しだけいたんだって。別にかくれて会いに行ったわけじゃないって」

「……そうなの」

「うちの看護婦さん、私にバレて怒られるのがイヤだから、今日まで隠してたのよ、それ。だから遅くなった」

「そうか」

「安心した?」

「もちろんだよ。怒ってもないし」

「ねえ、三朝の方から楠本さんに連絡取ってくれないかな」

「ああ、なんか今日、隼人が会うみたいだけど」

「あらそう。そうか、友達なんだよね。あの2人は。じゃあ椎名さんに頼んでみるわ」

「うん」

「そうか、ヨカッタのか、ゆうべ」

「……しつこい」



   5


 安心――できない自分がいる。彼女はそうやって、確実に隼人を揺さぶっている、そんな気がしてならない。

 そしてまた、自分も揺さぶられている。病室を抜け出すくらい、隼人に会いたかったのかも知れない。怖くてたまらなくなって、いてもたってもいられず、彼女は隼人を探しに行ったのではないだろうか。だって、どうして史桜をみつけたのは警官なのに、隼人も一緒に病室へ行くのだろう。JPOの医務の患者は何らかの事件がらみなので、警官には史桜がなにかの事件の被害者だとはわかるだろう。でも、どの事件の被害者なのかはかわらないはずだ。

 偶然、隼人が通りかかったわけでもないだろう。もちろん、史桜が隼人の名前を口にしたのだ。それでなくて、隼人がその現場に居合わせるのにつじつまの合う理由がない。

 三朝は沙也香の去ったあとの図書室の個室でひとり黙々と調べものを続けた。



   6


 また、夢に落ちている。暗くて何も見えない、そして夏なのに寒い公園で、自分を失ったまま座らされている。

 白い、四角い紙がちらちらと舞い落ちて足下に散らばる。もう手も足も動かせる気がしないまま、史桜はそれを見つめている。

 不意に左横に誰かの体温を感じる。男が一度だけ史桜の唇をむさぼり、耳元に何かささやく。

 なにか。

 ささやいていった……。



   7


「おまえ、ホントにいいの?」

「どうして?」

「どうしてって……後悔しないの?」

「なにをですか?」

「なにをって、だって、え、ちょっと待てよ!」

 幌のもどかしさをかき消すかのように、突然、抱きついてくる。ヴィヴィアンの香りが幌を襲う。

「後悔するなら、ここにいませんよ」

「…………」

「……やめたほうがいいですか?」

 下からのぞき込むように見つめられ、幌はもう我を忘れた。もうすでに、自分たちがいるのはベッドの上で、一緒にいるのはまぎれもなく三朝で、それで、それで。

 幌は自分に抱きついたままの三朝ごと、ベッドに倒れ込んだ。

 なにも考えられない。ただ、ただ……。

 もうダメだ。堕ちる。溺れる。もう、終わりだ。



   8


「……うわ~~~」

 幌はソファの上に体を起こし、頭を抱えて背もたれに倒れ込んだ。ちょっと横になろうと思っただけなのに、いつの間にか眠ってしまって、しかも始末の悪い夢を見た。

「かんべんしてよ、もう……」

 ため息をつき、頭を左右に振る。心と体に悪い夢を見てしまった。三朝が、三朝と……ああ、もう。

 その夢だけは見たくなかったのに、とうとう見てしまった夢。しかも、体に感じるだるさがいっそう余韻を引く。

 幌は手で目を覆い、背もたれにグッタリと体を沈ませた。しばらくそうしていた。

「!」

 ガチャリと司令室のドアが開く音に反応して、幌は反射的に身を起こした。このうえ本人はダメだって、もうヤメテよ、と半ば怯えながら入り口の方を伺った。

誰だ?

「どうしたの?」

「ああ、よかった、宏司かよ」

「なにがよかったんだよ」

 宏司が苦笑しながら向かいのソファに腰を下ろす。幌はすぐには答えられなかった。その様子を見て、さらに宏司が笑ってからかうように言う。

「悪い夢でも見たのか?」

「見た」

「三朝?」

「なんでわかるんだよっ」

「わかるって、幌の弱点は三朝だろ?」

「……そうだな」

「やったの?」

「……やった……と思う」

「ありゃ~。ご愁傷様」

「ほんとだよ、もう、イヤ、俺。なんでかな、もう」

「そりゃよっぽどキてるんじゃない?」

「あっさり言うな、あっさり」

「現実でも一気に攻め込むか?」

 幌は前屈みになったまま、宏司をにらみ上げた。

「おまえ、」

「冗談だよ、悪かったよ」

「いうな! 冗談でもっ。タチ悪すぎだって」

「……しんどそうだな」

「もう、おかしな、俺。こんなはずじゃないのに」

「幌、三朝にはもう言ったんだろ?」

「ゆった」

「三朝はなんて?」

 幌は額に手を当てたまま、かざすように宏司を見た。自分でも情けない表情をしているだろう、とわかる。

「それがな」

「うん?」

「"好きな人がいるからゴメン、ってのは違うと思う"んだってよ。好きな奴がいたって、いつ他の誰かを好きになるかも知れないし、主任がいるから俺はダメ、なんじゃないんだってさ」

「へえ」

「どう思う?」

「感心」

「……俺、なんも言えなかったよ」

「だろうな、断ってるようには聞こえないな」

「はぐらかされた、っつーの? どうなの、コレ」

「そりゃ、少しは脈ありじゃない?」

「そう?」

「俺ならそう取っちゃうかもな。まー、確かにいまの三朝は主任一筋、っていう主任以外は頭にないとは思うけど、幌の出方次第ではなんとかなるかもしれないよな」

「……期待するからやめとこう、その解釈は」

「三朝は三朝なりに正直に言ってるだけだよな、それは。かといって幌だからダメ、っていうんでもないんだろ。そもそも、ダメだって言われてないんだよな?」

「そう、それ」

「そーかー」

「手強いだろ」

「んー、だなー」

「秋川にでも相談しよっかな、俺」

「アドバイスくれるといいけどね」

「ホントだよ」

 幌の様子に、宏司はひとまず笑った。そして立ち上がる。

「ま、とりあえず仕事しない? そろそろ出る時間だろ」

「おう、そうしようぜ」

 力無く言って、幌もソファから立ち上がった。



   9


 オーダーを終えて、隼人はタバコを1本くわえた。

「やっぱりそれ吸ってるんだな」

 ハイライトのパッケージを見て京介が笑う。

「ああ、そう。コレじゃないとな」

「学生の時もさんざん言ってたな、そうやって」

「向こうにいる間は違うの吸ってたけどな、売ってないから」

「そういや、おまえ、いつ帰ってきたの? こっちに」

「去年の8月末かな」

「ああ、JPOが出来たときだな」

 煙を吐き出しながら、隼人はわずかに目を見開いた。

「よく知ってるんだな」

「最近、知ったんだよ」

「そうか」

 ウエイトレスが頼んだメニューを持ってくる。夕食時ということで2人とも定食である。

 しばらく、他愛もない話が続いた。仕事の話、学生時代の話、そして食事も終わった頃。

「なあ、椎名」

「ん?」

「おまえ、いま付き合ってる子、いるの?」

 店に入って3本目のハイライトを出しかけていた隼人は、一瞬、その手を止めた。気づかれないように、すぐまたタバコをくわえて火をつける。

「いるよ」

「だろうな」

「なんだよ」

「いると思ってたんだ」

「なんで?」

「いなかったら、史桜とヨリ戻すと思ったからな」

 隼人は指にタバコをはさんだまま、唇をかんだ。なんとも返す言葉が浮かばなかった。



   10


 ときに自分の本心を見失うときがある。

 日常の些細なことでも、たとえば、自販機の前でどのジュースにするか決められない、どの服を買えば一番いいのか決められない、友達と会っても行きたい店が決まらない。

 つまり、何が飲みたいのか、どんな服を着たいのか、どこに行きたいのか、自分で簡単に出せるような答えを知らない。もちろん答えは自分の中にあるのだ。通りすがりのオジさんが後ろからつかつかと歩み寄って、「君はこれを飲みたいんだろう?」と言って勝手に自販機のボタンを押すと間違いなく腹が立つだろう。ま、そんなことは普通、起こり得ないが。

とどのつまり、行き詰まったときには、どれだけ迷っても答えを出すのは自分である。そして、自分では答えがわからなくて迷っているときも、奥底の本心は"これにしようよ"と選択肢の中から1つを指さしているのを知っている。

 些細なことで迷うのはまだいい。どれにしようか、と考え、迷っていることが案外、楽しいこともある。そして、その時に捨てた選択肢は次の機会までの楽しみとなったりもする。次はこれを食べよう、といったかんじ。

 沙也香はいままで、自販機の前で悩んだことはない。タバコも飲み物もいつも同じだからだ。迷わずそのボタンを押す。これしかないと思うヒマもないくらいだ。

 でも。

「先生?」

「……ん?」

 背後から看護婦に呼ばれ、沙也香は一瞬遅れて返事をした。

「どうしたんですか、ぼうっとして。具合でも悪いんですか?」

「いや、悪くないけど。どうして?」

「え、だって……」

 口ごもる彼女に、沙也香は笑った。

「私がぼうっとしてたらおかしい?」

「おかしくはないですけど、あまり見かけませんよ、そんな先生は」

「そうなの?」

「ええ、少なくとも私は。どうされたのかな、と思いました」

「たいしたことじゃないんだけど(苦笑)」

「なにか悩まれてるんですか?」

「ぜんぜん」

 沙也香がきっぱりとそう言うと、彼女はおかしそうに笑った。

「もう、先生」

「なに?」

「かっこいいですね」

「は? その趣味ないわよ、悪いけど」

「ええ、だって。女性にしておくのはもったいないですよ」

「んなこと言われても女だもん、ごめんねー」

「先生は彼氏いないんですか?」

「は?」

「え、だって私なんかより全然きれいなのに」

「……ゆりちゃん」

「はい」

「『私なんか』ってのはやめようよ。自分で自分を落とさないこと」

「落とす、ですか?」

「そう。自分は自分のことをいっぱい褒めてあげなきゃ。そうやって自分を上げていくのよ」

 わかったような、わからないような笑みを浮かべ、彼女は奥のナースステーションへ入っていった。

 沙也香はまた、目の前の窓から外を眺めた。夏の暑い太陽に照らされた海がまぶしく輝いている。

 人には何とでも言える。いくらでも装える。そうやって同時に自分の愚かさを噛みしめていく。プライドだけは高くて、そして大事なモノは捨てている。人からどう思われていても、自分ではわかっている。自分にまで強がっている自分のこと。後先考えずに、たった1回電話のボタンを押せば職場なんかでぼうっとしなくてもすむのに。こんなとき、三朝だったら迷わず電話するんだろうな、と思いながら、沙也香はタバコを1本抜いた。



   11


「ごめん」

 京介が苦笑う。

「正直、JPOでおまえに会って覚悟したんだ。ああ、これでって。俺、おまえがあそこにいることは知らなかったから。すごい驚いた」

「だろうな」

 俺も驚いた、と隼人は心で思った。

「けど椎名にはぜんぜん会ってない、って史桜が言ってたから。俺はもう、おまえがあいつの面倒見るもんだと思ってたからな、おまえがあんな状態の史桜を放って置くはずがないって」

「…………」

「だから誰かいるんだろうな、と思ったんだ」

 隼人はタバコを消し、すぐにまた1本抜いた。まだ何も言葉が浮かんでこなかった。

「あいかわらずなんだな、吸いすぎなのも」

「クセなんだ、会議でもない限りはひっきりなしに吸ってるよ」

「刑事でも会議って多いのか?」

「ああ、俺の場合は特に役職に就いてるからな」

 京介がまたも苦笑いを浮かべてため息をつく。

「そうか、おまえ警視だったな」

「実感わかないだろ」

「わかないなー」

「俺もだよ」

 隼人は笑い、灰皿に灰を落とした。

「それじゃ忙しいだろ?」

「そうだな……普通だろ。きっとおまえとそんなに変わらないよ」

「ちゃんと会う時間あるのか、その子と」

「あるよ」

「うまく行ってるのか?」

 タバコを深く吸い込み、そして煙を勢いよく吐き出す。そして笑った。

「なんか親父みたいだぞ、そんなこと聞いてると」

「悪い」

 フッと我に返ったように笑い、京介はテーブルにひじを突いた。

「ダメなんだ、俺」

 そういった京介に、隼人は目を向けた。

「どうして?」

 京介も隼人を見る。そしてすぐ目をそらした。

「おまえがいなくなって、それからずっと史桜と連絡とってたんだ、俺。落ち込んでるの知ってたから。もめただろ? あいつの親と」

「もめたな」

「あいつ、おまえのこと見送りに行かなかっただろ」

「来ない、って言ってたからな」

「行けないよな、ふつう」

「…………」

「俺も行かなかった。悪かったな」

「いいよ」

「誰が来た?」

「そうだな、川崎とか吉川とか、あと山科もいたな」

「ああ、おまえのこと好きだった子な」

「そう」

「山科もすごかったよな。史桜がいるの知ってても負けないでさ、迫る迫るってかんじだったよな」

「襲われたな、そういえば」

「空港でも泣いただろ?」

「泣いたし、抱きつかれた」

「まじで?」

「もう少しでキスされることろだった(苦笑)」

「それまでに、されたことあったんじゃないのか?」

 京介が笑う。隼人は目を見張って京介を見た。

「なんで知ってるんだ?」

「山科から直接聞いた。おまえ、キスされても拒否しなかったんだってな。"おまえのこと何とも思ってないのに、それでもいいのか?"って言ったんだろ?」

「……やめろよ」

「俺はな、椎名」

「なんだ」

「おまえには勝てない、ってずっと思ってたんだ」

「…………」

「おまえと付き合ってる間は、史桜には俺の気持ちは言ったことなかったけど。伝わってたとは思う。ずっと前から、あいつは知ってたと思うよ。でも、あいつはひたすら椎名しか見てなかった」

 隼人は京介から目をそらし、うつむいていた。

「おまえとも友達だし、ずっと"あきらめろ"って自分に言い聞かせてたけど、でも無理だったな。無理なのはわかってたんだ、自分でも。何人か他とも付き合ったけど、ぜんぜんダメで……あいつ、家抜け出して、荷物持ったまま俺の所に来たんだよ。"おまえの所へ行ってくる"って。おまえが呼んだんだろ?」

「ああ。こっちに来いって言ったよ」

「こんな言い方しちゃおまえには悪いけど、結局、おまえは史桜を捨てて仕事を取ったんだし、」

「そうだな」

「……悪い」

「いいよ、本当のことだ。責めてないよ」

「俺はあいつのこと止めて、自分の気持ちも言いたかった。でも言えなくて……俺はもう、史桜は帰ってこないと思い込んでやりきれなくなってたのに、1ヶ月経たないうちに史桜から電話があって"いま帰ってきた"って。それからのこと、おまえ知ってるのか?」

「いや、知らないな」

 隼人がそう言うと、京介が笑った。

「ほんと、おまえも変わらないな。っていうか、一段とカッコつけになったな」

「は?」

「いや、おまえにそのつもりはないとは思うけど、こんな話してても余裕だろ? まるで他のヤツの話をしてるみたいな言い方するんだよ、自分の話なのに。客観的っていうか」

「ああ、クセなんだな」

「今のもそう」

「……いいから続けろよ」

「史桜がむこうから帰ってきて、俺が空港まで迎えに行ったんだ。そしたらあいつ、さっぱりした顔で笑うんだよ。"別れてきたわ"って。別れるために会いに行ったんだ、って。一緒にいるためには、どっちかが人生捨てないとダメだから別れたって。それからはもう毎日、食事行ったり、飲みに行ったり、ずっと史桜に会ってた。何もなかったけど、ハタから見ればほとんど付き合ってるような状態で。2ヶ月くらい続いたんだ、それが。このまま会い続けられればいいって、そう思ってたんだけど、2ヶ月くらいたった頃に史桜が急に深刻な顔をしたんだ」

 隼人はくわえかけたタバコの手を止め、京介を見つめた。これから京介が言おうとしていることを恐れた。

「あいつ、妊娠してたんだ」

 耳の中に空気が振動する音が響いた。沈黙がイヤなのか、他にどうしようもないのか、京介は淡々と話を続けた。

「そのことは俺しか知らないんだ。あいつの親も知らない。泣いて、どうしようもなくなって、とりあえず俺の部屋に連れて行った。病院での診断は10週目だったって言ってた。生理が来なくなって、まさかと思っても、怖くて病院にはなかなか行けなかったんだ。でもモノが食えなくなってきて、つまり"つわり"。それで病院へ行ったんだって」

「…………」

「おまえ、向こうで結婚するつもりだったんだろ?」

「……ああ」

「あいつ、1人でも産むって言ったんだぞ。おまえには知らせるなって」

 隼人はため息をつき、言葉を失った。次の京介の言葉は、ぐっと絞った低い声だった。

「おまえら、空港でなんて言って別れたんだよ」

 隼人は京介の目を見た。切羽詰まった目をしていた。隼人はうつむき、言った。

「俺も、史桜はずっと俺の所にいるんだと思ってた。そのつもりで来たんだってな。仕事も忙しかったから、ずっと一緒ってわけにはいかなかったけど、ちょうど友達がいたみたいで、それなりに不自由なく過ごしてたんだ、あいつも。それが俺にしてみれば突然だよ。あさって日本に帰るって。もちろん、とっさに止めた。けどあいつは、俺とのことは認めてくれなかったけど、それでもやっぱり両親を裏切ることは出来ない、って。それを確かめに来た、って言った。次の日もさんざん俺がしつこく話したけど、あいつは帰るのをやめなくて、空港で『これでもう会わないから』って言い残して帰ったんだ。それきり」

「そうか」

「そう」

「史桜はできた子供を産むって決めてからも、ずっとご両親には黙ってた。1人でがんばるって。そりゃ相当な無理をしてたよな、ずっと。結局、心労と衰弱で子供は流産したんだ。そのことがあって、よけいに椎名のことを忘れられなくなったんだよ、あいつも」

「…………」

「俺もあいつも、引きずるタイプなんだよ。もう全然ダメでさ。俺は、あの事件が起きる直前に、やっと自分の気持ちを言えたところだったんだ」

 京介の顔からは笑みが消えていた。唇をかみ、窓の外に目をやっている。外はすっかり日も暮れて、ライトをつけた車が激しく行き交っていた。

「椎名」

「ん?」

「おまえの彼女って、どんな子?」

 もう何本目かもわからなくなったタバコの煙を吸い込み、隼人はふうっとゆっくり吐いた。

「おまえが最初にJPOで会った子だよ」

 京介が窓の外に向けていた目を隼人に向ける。半分口を開き、2、3度まばたきをした。

「あの子?」

「そう」

「まじで……」

 言葉を失って隼人を見つめる。こともなげに、隼人は会話を続けた。

「この前、会ったんだってな」

「なんにも言わなかったぞ」

「そりゃ極秘だからな。部下だから」

「俺となに話したか聞いてないのか?」

「聞いてない」

「俺、言ったんだ。流産してるって」

 蒼白になってそう言った。確かに言った。隼人はタバコの灰が落ちそうなのも気にとめず、京介を見つめるしかできなかった。

「あの子、史桜の担当だって聞いてたし、おまえと史桜が付き合ってたことも知ってたし、史桜も立樹さんにはいろいろ話してるって言ってたから……まさかおまえの彼女なんて思いもしなかったから」

「そりゃそうだろうな」

「悪い、椎名。ほんと、ごめん」

「京介は知らなかったんだ、仕方ないよ。俺も言わなかったし、あの子と俺の関係は史桜も知らないしな」

「ごめん」

 うつむいたまま、ごめんを繰り返す京介に隼人は笑った。

「気にするなよ。あの子も史桜のことを気にして俺と別れるようなタイプじゃないから。俺も惚れてるから別れるなんて言わせないように努力してるし、なにより、あの子は俺に惚れてるからな」

「椎名」

「大丈夫だよ。あいつ、別に気にしてなかっただろ?」

「……そういや、妊娠してて流産したって言っても『そうなんですか』って深刻な顔はしたけど、動揺してた様子はなかったな。"大変だったんですね"ってごく普通に言ってた」

「そうか」

「それじゃおまえ、史桜といまの彼女を会わせてるのか?」

「そうなるな」

「そうなるな、っておまえ……」

「もしそれでダメになるようなら、誰か他の女の子を担当にしてるよ。捜査の指揮を執ってるのは俺なんだから。こういったら史桜にもおまえにも悪いのかも知れないけど、俺、あの子と別れるつもりは全然ないからな」

「結婚するのか?」

「うまくいけばな」

「おまえは?」

「そうだな……結婚するとしたら、あいつしか考えてないよ。ただ、部下だから今すぐってわけにはいかないけど」

「どうして」

「あいつも刑事になるのは夢だったから。もう少し見守って成長させてやらないとな」

「ああ」

「そう。だから当分は無理だと思うけどな」

 京介はしばらくの間、また窓の外に目を向けて黙り込んだ。隼人もすっかり冷めたコーヒーを飲み、またタバコを吸う。

「椎名」

「なんだ?」

「おまえは、すぐに史桜のことを忘れたのか?」

「いや」

「いつごろだった?」

「今の彼女に会ってから、かな」

「去年か?」

「いや1年半くらい前だよ」

「え、だっておまえ、その頃はまだ……」

「ああ、あっちで会ったんだ。あいつが研修に来たから」

 京介はひとしきり考え、言った。

「じゃあ、史桜と別れて1年とちょっとの時だな」

「そうなるな」

「その間、誰とも付き合わなかったのか?」

「いろいろゴタゴタはあったけど、付き合いは誰ともないな」

 隼人が言うと、京介は小さく"そうか"ともらした。

「……ちょっと安心したよ」

「なんで」

「俺はその後の椎名のことは知らなかったから。聞いて安心した」

「……悪かったな」

「なにがだ?」

 京介は驚いたように目を丸くした。隼人が詫びたのが意外だったのだろう。あまり京介にはそのたぐいの言葉を言ったことがなかったから。

「俺は史桜と付き合ってるときから京介の気持ちは知ってたんだ、実は。おまえはなにも言わなかったけど。正直、あのときは悪いとは思ってなかった。どうしようもない事だと思ってたから。でも今は悪いと思ってる」

「なんでだよ」

「俺はけっきょく、自分のことしか考えずにここまで来たんだ。史桜のことも京介のことも、大事にしてやれなかった。おまえはずっと史桜のそばで苦しんできただろ。今だって……史桜を呼んだのも、あいつのことを諦められないクセに、自分の夢も捨てられなかったからだ。卑怯だった。あいつが妊娠して苦労してたなんて、そんなことも知らずにのうのうと生きてきたんだ、俺は」

「椎名」

「今日、俺を呼んだのは史桜のことなんだろ?」

 隼人が京介を見ると、京介は静かに隼人を見ていた。

「俺に史桜のことを頼む、って言いに来たんじゃないのか?」

「さすがだな」

「すまなかった」

「やめろよ、おまえらしくない。頭なんて下げるな」

「俺じゃダメなんだ、史桜には」

「…………」

「なにもしてやれないから。かえって俺じゃまずいんだ」

「おまえ、立樹さんのこと相当、好きなんだな」

 京介の言葉を聞き、隼人は思わずため息混じりに笑った。

「自分でも笑うよ」

「史桜の時とはまた違うな。あいつの時はどっちかっていうと、自信ありげだったけど。今のおまえはそうは見えないよ」

「自信ありげだったか?」

「だったな。史桜もだけど。2人してぜんぜん問題ないって、顔してたよ」

「ああ……そうかもな、言われてみたら」

「立樹さんは違うんだな。なんか失うことを怖がってるように感じる」

「愛想つかされそうで怖いんだよ。立場上、ついついキツく当たるから」

 京介はすこし見透かしたように笑った。

「まあ、そういうことにしておいてやるよ。おまえも話があるって言ってなかったか?」

「言ったな」

「だから『言ったな』じゃなくて言えよ、すぐに」

「史桜の担当医がおまえに会いたい、って言ってる」

 隼人がそう言うと、とたんに京介の顔色が変わった。

「なんで」

「詳しくは聞いてない。ただ、史桜の今後に関係がある話だと思うよ」

「今後……」

「そう。とりあえずここに電話してみてくれ。あの担当医に直通だから」

 隼人は内ポケットに入れてあった沙也香の名刺を差し出した。

「わかった」

「ああ」

「本当に大丈夫か、立樹さんのこと」

「気にするなって。何度も言わせないでも大丈夫だよ」

「そうか……あの子がおまえの彼女なんだな」

「なに?」

「妙に納得できるな、と思ってな」

「そうか?」

「なんとなくな」

「……なんだよ、それ」

 隼人が苦笑いすると、京介も少し笑った。

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