第九章 秘念混線
1
隼人がついた『実家で泊まる』という嘘を、まあ浮気ではないだろう、という程度に信じていた三朝も、実は自宅に居るのではなかった。人気のなくなった資料室にある端末の前に座り、10月26日付の岩手の地方新聞を検索して見ていた。
「見てくださいってもねぇ、何も目に付くようなモンないけどなぁ」
ひとりごとを言いながら、目が痛くなるほど小さく羅列した文字を追う。
いたずらメールだと思っている。少なくとも気にすまい、と自分には言っているつもりでも、やはり資料室に来てしまった。しかも夜中、3隊メンバーの目を避けて。
マウスで送って記事を見ていく。時折、目薬を差しながら画面に見入っている。25年も前の、しかも地方の新聞を見たって知っている事件などない。
もう限界、と画面を閉じようとした、まさにその時だった。こんな瞬間に往々として発見がある。
三朝は思わずその記事につけられた写真にかぶりつき、目を疑っていた。
「なにこれ……」
思わず独り言をもらしてしまうのも無理はなかった。その写真には三朝そっくりの女性が写っていた。古い新聞の記事なので画質は良くないが、写真を見る限りでは目鼻立ちもそっくりで、髪の長さもちょうど同じくらいのようだ。
彼女は祭壇に飾られた遺影のように、薄くはかなげな笑みを浮かべて写っていた。
25年前の10月26日に岩手の比較的田舎の地域で起こった殺人事件の記事だった。この地域に住んでいた、当時28歳の母親と6歳の息子、二人暮しの家庭に、深夜、数人の男が侵入した。男たちは母親の方を襲い、殺して逃げた。翌朝、近所の人間がこの家を訪ね、寝室で死んでいる彼女を発見した。
「これを見せたかったわけね」
一人つぶやき、ずっと引っかかっていたメールの事を思った。
いたずらメールではなかったわけだ。だから普段なら気にしないところを、こうやって忍び込んでいるかのように人目を避けて深夜の資料室にまで来てしまった。
誰がなんのために、三朝にこの事件のことを知らせたかったのかは知らない。いや、心当たりがなくもないが確信はない。けれど明らかに、あのメールの送り主は意図していた。そして恐らく、送り主はこの事件に関わりを持つ人物だろう。
頭の中をあれこれと考えがめぐっていく。しかし、やっぱり最後には新聞の中の写真を凝視してしまう。
JPOに配属されてからの一連の事件。その事件の鍵を、ようやく自分の指先が掠めたような、そんな気がしている。何ら関連性が確証されていなくとも、それはもう三朝の中では確信に近いものになっていた。
2
25年前、岩手県の山の麓のとある町に母1人、子1人の2人暮らしの親子が住んでいた。当時母親は28歳、息子は6歳。その25年前の10月26日の深夜、2人が暮らす家に数人の男が徒党を組んで侵入した。そして母親の方は暴行を受け、殺害された。だが幸いにも息子は無事で、寝室の押入から保護されたとある。
この記事を見つけた後、三朝は他社の新聞記事や捜査資料など、思いつく限りの資料を探しだして目を通した。そして、いまは薄暗い図書室のイスに座り込んだまま、ずっと一点を見つめて考え込んでいる。
この親子は、住み移った町の資産家の家にあった小さな離れを借りて、2人きりで暮らしていた。他人の家の敷地内に建つ離れを間借りするくらいだから、きっと近所に頼れる人間はいなかったのではないだろうか。
その当時を思えば、若い母親が男手も身内の助けもなしに、たった1人きりで子供を育てていくのは容易なことではなかったはずだ。現代のご時世でも並のことではない。幸せとは言えない事情を抱えていたのだろう。
見知らぬ町で片寄せ合って生活していた2人を、その晩、不幸が襲った。あまりにも惨すぎる事件。
夜中、突然押し入ってきた数人の男に殴られ、蹴られ、ひどい暴行を受けて、とどめと言わんばかりに心臓をナイフでひと突きにされ、母親は息絶えている。想像を絶する惨状だっただろう。
彼女の遺体は翌朝になって大家である資産家夫人によって発見され、すぐさま警察へ通報された。息子のほうは捜査に来た警察官によって、犯行現場となった同じ寝室の押入の中から気絶した状態で保護されている。当時の捜査官は、何者かが侵入しようとする気配を感じた母親が息子を押入に隠したと判断している。その男の子は事件の後、岩手県内の施設で保護されることになり、2人が暮らしていた離れは間もなく取り壊されている。
当時の各社の新聞には、この殺された若い母親の写真が記事と一緒に掲載されている。少し上目遣いではにかんだ笑顔の写真。昔の新聞の記事で、あまり画像は良くない。けれどその写真を見る限りでは、彼女は三朝そっくりだった。
母親の殺され方は、いま三朝が担当している事件によく似ている。この記事を偶然に見つけ、いたずら心で送りつけてきたのだとしたら、あんまりだ。
3月以降、殺されてきた4人の女の子たち。みんな、どことなく三朝に似ていて、捜査チームの誰もがそう思っていて、でも誰ひとり決して口にしていない。そして犯人は史桜を襲った。真意はわかりかねるが、とにかく故意に彼女をねらい、そして事件は起きなくなった。
この記事にある25年前のこの事件と、いま担当している事件に関連性がある、なんて今の段階ではとてもじゃないが言えない。
でも。
もし、万が一、だったら。誰かの悪意に満ちあふれた嫌がらせだったとしても今の段階では関係ない。突き止めずには……。
「なにしてるの?」
「あぁ……!!」
ひたすら考え込んでいた三朝は、背後から急に声をかけられて思わず変な声を上げてしまった。
振り返ると、立っていたのは沙也香だった。三朝の大声に多少面食らっている。
「なに、奇声あげちゃって」
人が考え込んでいるスキを付いて背後から声をかけるとは卑怯、と反論したかったが、うまく言葉にならなかった。
沙也香がニヤッと笑う。
「あやしー」
「沙也こそなにしてるの」
「ん? 通りかかったら薄明かりが見えたから。誰かコソコソとやらしい事してるのかな、と思ってのぞきに来たの」
「ヒマなんだね」
「まー、失礼な子。毎晩のように残業しては、患者さんに気を配ってるっていうのに」
「へえーそれはそれは。毎晩のように夜あそびしてる、の間違いじゃないの?」
「またまた」
「『ゆうべのアレは遊びだったんでしょうか? 一晩限りの……メール送っても返事くれないんです』」
「誰が言ってた?」
笑みを浮かべる沙也香をにらむ。
「あんたね、ウチのアシストの子で遊ばないでよ」
「人聞きが悪いなー。遊んでないって。ただ、付き合おうねっていう前提はなかったし、向こうも『好きだ』とも言わないし、気持ちを確認しないで突っ走ったんだから。一夜限りでも文句は言えないんじゃないの?」
「アンタの場合は、向こうの好意をわかったうえでやってることでしょっ」
「そうよ。でも、向こうだって好意を伝えてるって意識してて、なおかつそれをハッキリと口にしないで、でも体だけは頂いてるんだから礼儀知らずといえばそうでしょう?」
「あのね。気持ちを口にしないと失礼だって言うなら、好かれてるのわかってて受け止めたフリをするはもっと失礼なの」
「受け止めたフリなんかしてないって」
「だったらどうして仕事中の車の中でアタシに泣きついてくるのよっ。迎えに来てもらったら、車に乗ったとたんに泣き出すんだよ? どうしてくれるってのよ、オタオタしちゃったじゃないのっ」
「上の立場ってモンがないって?」
「ない!」
「それは、ワタクシゴトでお手数をおかけしまして」
「もう……後で傷つけるってわかってたら最初から拒否しな、って。誰にでも自分の考えが通用するわけないでしょ。わりきれるか、わりきれないか、相手を見て対応したらっ?」
少しだけ混ざってしまった苛立ちを感じて、沙也香が三朝をのぞき込む。もちろん、怒られたとショボくれる様子も反論する様子もない。つまり動じていない。
「今日は虫の居所が悪そうね。あ、今日も、かしら」
「沙也香」
「はい、以後あらためます で? 怒りのタネは?」
切り替えよく沙也香が問う。かすかな頭痛を感じて頭に手をやりながら、三朝はため息をついた。
「なんだろうね」
「教えてよ。いつもは何でも隠さず話してくれるじゃない」
「史桜さんの容態は?」
「ああ、そうね、一進一退ってとこかしら。精神状態が落ち着かないね、やっぱり」
「そか」
三朝、うつむいて唇をかむ。沙也香がふと腕時計を見る。
「ところでまだ帰らないの?」
三朝は顔を上げて沙也加を見た。
「今から少しだけ面会しちゃダメ?」
「は? 寝てるよ、もう」
「うん。顔見るだけ」
三朝を見下ろし、沙也香がしばし思案するような顔をしてみせる。
「コソッとならいいけど……じゃあ降りる?」
図書室を出て、医務室がある地下へ向かう。当然ながらフロアはどこもかしこも静まりかえっている。2人の足音だけがカツンカツンと響く。
やがて医務のあるフロアへ入り、史桜のいる病室へ抜ける廊下へ向けて2人そろって角を曲がりかけた時だった。
「あっ」
沙也加が小さく叫んで壁に身を隠した。
「なに?」
「ゆっくり見て」
そう言われ、沙也加とそろって角から廊下を伺う。
廊下を半分ちょっと過ぎたくらいの所にある史桜の病室から、今まさに、隼人が後ろ手に扉を締めて出ていくところだった。三朝も沙也加もそのまま、去っていく後ろ姿を見送る。
「…………」
「なに? どうして?」
と、先に口を開いたのは沙也加だった。三朝は首をひねった。
「知らない。こっちが聞きたい」
「あたしがさっき出てきたときはいなかったと思うんだけどな」
結局、怖くなってか、その日は史桜の顔は見ないまま帰宅した。
夜、図書館でいた時にかかってきた電話では、隼人は『実家に用がある』と言っていたはずだった。それは多分ウソだと思っていたし、逆に電話してくることが怪しいと思ってもいたが、それが史桜に会いに行くからだったと、そういうことなのだろうか。だとしたら、自分が図書室で悩んでいる間、ずっと二人は一緒だったことになる。
ありうるだろうか、かたくななまでに彼女に会いに行くことを否定していた隼人が、三朝に隠れて史桜と会っていた。そんな姑息な事をするだろうか。
事の成り行きや理由がわからないだけに、眠れない。ベッドで何度も寝返ったり、布団に潜ったりしながら、それでも病室から出ていく隼人の姿が焼き付いて、二人が会っている場面を勝手に想像して頭の中がグチャグチャになっている。そのたびにベッドサイドに置いた携帯が目に付く。
いつでもどこでも連絡がつく。誰や、こんなモン作ったんは。気になったらその場で連絡してしまうっちゅーねん。
普段は「便利な世の中になったモンだね」と重宝している携帯電話も、こんな時には憎らしくなってくる。もとがせっかちなだけに、疑問はその場で解決しないと気持ちが悪い。けど、隼人に電話して、
「実はね、さっき伊豆さんの病室から出てくるの見ちゃったの。それでね、なんで?」
聞けるわけがない。あやふやに言葉を濁して終わるに決まっている。しかも勘のいい隼人のことだ、こっちの腹を探られかねない。
くよくよ気にしない質ならよかったのに、と思う。若干、前向きさに欠けている性格なのが悔やまれる。
でも気にせずにいられるわけがない。いつの間にか不安にかられ、安眠を妨げられるほどに隼人を好きになって、二人が安定した関係でいられる事を当然と受け止めていた、自分の現状を思い知らされる。三朝から見ると史桜は突然現れた。彼女がJPOに保護されてすぐ、隼人は心配するなと言った。それでもその後、彼女に接していくうち、そして楠本京介から過去の二人の話を聞いてしまってからは、自分の気持ちに枷を付けるかのように不安が襲う。自分ひとりで彼女の存在を気にし、またも大事な人を失うのか、と。まるで失うことを自分の運命と決めつけ、その通りに生きていくことに憧れてでもいるのかと思うほどに、自ら彼女の存在にしっぽを巻いて逃げようとしている。
3
翌日の昼下がり。
「なあ」
「うん?」
幌と宏司が空を見上げている。気温も上昇し、つられて湿度も上昇し、数値を見るのも辟易する季節が訪れた。涼を求めたわけではないが、2人は噴水わきのベンチに並んで座っている。
なあ、と問いかけたのは幌だった。
「人の縁て、不思議なモンだよな」
「どうしたの? 突然」
2人とも、疲れのせいか暑さのせいか、ぼうっとした口調で話している。
「俺さあ、新人研修終わって帰ってきたばっかの頃の三朝って知ってるわけよ」
「ああ」
「所属は違ったけど、同じ本庁の捜査課にあいつが来てさ。ほら、ドラマとかでもよくあるじゃん? 若いキャリアの美人女刑事、みたいなのって」
「俺らだってドラマの刑事みたいだと思うけど」
「けど俺らは男だろ。あいつは女。やっぱり正直、違和感っていうか現実にもこんな刑事いるのかって思ったわけよ」
「で?」
「でもそんときは、はたから見てるだけだったんだよな」
「話したことなかったの」
「世間話みたいのはあったよ。顔見知りって程度で……すごい大変そうだなーって漠然と思ってて。男に混じって刑事やっていくだけでも大変だと思うのに、総監の姪って知れ渡ってたからさ。あちこちでウワサとか陰口とかあるんだよ、やっぱり」
「実はおまえも陰口たたいた、とか言うなよ」
「だから俺は大変そうだなーって思ってただけ。イヤなこと言ってやがんなーって。ただ聞いて、ただ見てただけ」
宏司はもう何も言わずに、見るでもなしに吹き上げる噴水の水に目をやったまま聞きの体制に入った。幌のなにかしら語りたい気分を察して。
「けど今は同じ部署で一緒に働いてるだろ。明石さんとかが面と向かってあいつに説教がましいこと言うところも見たりするだろ。俺らに対しても、なんとか足手まといにならないように必至に対等でいようとするあいつも知ったりするじゃない」
「…………」
「おまえ、あいつに頼まれて柔道とか剣道とかの稽古つけてやってるんだろ?」
「え」
聞き役に徹しようとしていたのに、思わぬ所を突かれて宏司は驚いた。幌と目が合う。
「本部の女の子に聞いた。誰だったか忘れたけど。朝とか夜とか、時間があるときに稽古してるって」
「…………」
「普通に3隊でも訓練があるじゃない。主任に稽古つけてもらって、アシストの奴らも一緒に。それだってキツイのにまだ秘密特訓してるってさ、マジでかって思ったんだよな」
「もう秘密特訓じゃないけどな」
「そもそも、主任とかおまえみたいな体力バカに肩並べようってのがムリな話だろ?」
「バカは余計」
「んなことねーよ。もう俺、正直言ってその時点であいつに負け。根性ありすぎ」
「そりゃ、おまえはそこまでしなくても俺とか主任とかに並んでるからだろ。んなこと言って、自分だって射撃の訓練してやってるくせに」
「そりゃアレは汗だく、クタクタにならねーもん。秘密でもなんでもないし、主任ともやってるよ。でもおまえとの稽古は、知れば主任も止めるかも知れない。心配っていうか、虚勢張ってるのバレバレじゃん。だからこそ秘密なわけで、だいいち主任に頼んでないあたりが三朝の性格語ってるよ」
「かもな」
「そうやって肩肘張ってるあいつを目の当たりにするようになって、俺もうやばいって」
宏司は幌の背中をたたいた。
「ついに本気モードですか」
「いや、そんな……認めたくねーっ」
「はは、かわいいコト言うの」
「あのな。俺、主任だって同期なんだから警察大学から知ってんのよ。そもそも椎名って呼び捨てだったんだからな」
「別に『主任って呼べ』って言われてないだろ」
「むしろやめろって言ってたよ。けどなー、椎名なんて呼べないっつの。いくら同期でも」
「正直に話してみる?」
「ムリ」
「主任もつらいと思うけどね。あんな形で昔の女に会ったら」
「悪魔のささやきはやめろ」
「ごめん。ま、そう思い詰めんなって。下に下に考えてたらホントに沈んじゃって、何も見えなくなるってモンよ。いままでみたいに気楽にさ」
宏司が笑う。幌もつられて笑った。
4
「もしもし、JPOの立樹です。届きました……突然メールなんかでお願いして申し訳ありませんでした……じゃあ目を通させていただきますね。……ええ、どうもありがとうございました。……はい、失礼します」
受話器を置き、横にいた通信部員からフロッピーを受け取る。
「立樹さん、ひょっとしてヤバイ情報じゃないでしょうね」
通信部員が笑う。たいてい本庁や他県の警察機関に情報提供や協力を求めるときに、この通信部から連絡をする。この通信部員は三朝がここを使うときに良くしてもらっている。
「まさか。ちょっと捜査に必要な資料ですよ」
「岩手から?」
「ええ」
「主任には秘密で?」
「……そうですねー、まだ確信もてる情報でもないし。安田さんは通信部員ですもんね?」
「そりゃ、もう。余計なことは言うつもりナイですよ。椎名さんとはあまり一緒になりませんしね。高田の担当ですから」
「ですよね。たぶん2、3日したらまた資料が来ると思いますので」
「わかりました」
「よろしく」
そう言って通信部を出る。
捜査はチームで進めるものだが、そのチームの1人1人が独自に情報を集め、確証を持てる有力情報を提供し合って目的を果たすものだと三朝は思っている。情報をつかんで、すぐさまチームに報告する必要はない。いくらチームの仲間といっても、最初から自分の手の内をあかすことはしなくていい。必要な情報か、そうでない情報か、ただその判断を誤らなければいいし、むしろ与えられた情報に対していかに迅速に的確に対応ができるか。チームの一員として優秀かどうかはそこで決まる。チームで動くのは、有力情報が集まって、点が線になったそのときだ。いまはまだ、その段階へ行っていない。
「おかえりなさい」
司令室に戻ると、秘書官の佐伯奈緒が出迎えた。部屋には彼女1人の姿しかない。
「ただいま。ひとりなの?」
「いえ、主任がいらっしゃいますけど、いまシャワーに行かれましたよ。汗かいててもいい男でした」
「……は、そう」
「さっき戻ってこられたときも、扉の外に婦警さんが見えましたから。どっかで捕まって一緒に帰ってこられたのかな、と思って」
「ああ、でしょうね」
「他の部署の女の子にもスゴイうらやましがられますよ。あ」
「なに」
「立樹さんに高校生の男の子が会いに来たでしょう?」
いつだったか、とつぜん望がこの本部に来たときのことだ。
「あのあと、いろんな男の人から聞かれたんです。ホントに彼氏なの? 本命って誰か知ってる?って。立樹さんも相当ですよ」
「そうなんだ」
三朝が言うと、奈緒は笑って見せた。しかも意味ありげに。
「ほんとは知ってたんじゃないですか。あ、主任が出てきますよ」
「え?」
「音でわかるんですよ、慣れちゃったから」
「…………」
なんでそんな変な物音に慣れるのか、と呆れてしまう。いつ見ても和む、というか無邪気なお嬢さんだ。
そして本当に間もなくしてシャワー室から隼人が出てきた。すぐに三朝と目が合った。
「帰ってたのか」
「はい」
「ちょっとしたら、俺また出ていくから。佐伯、悪いけど夕刊受け取ってきて」
「はい、わかりました」
奈緒が部屋を出ていく。一瞬、隼人と三朝を伺うように目を向けたと思ったのは三朝の気のせいだろうか。
「……なあ」
「はい」
イスに座った隼人が、奈緒を見送ったままの三朝を見上げている。
「一昨日の晩、おまえ部屋にいなかっただろ」
「おとつい?」
顔には出さないが、三朝は内心ギクッとした。隼人からの電話を図書室で受け、メールで知らされた事件を調べていたあの日の晩のことだ。
「おまえ、電話で部屋にいるって言っただろ」
「ああ、あの日ね。寝付かれなくて散歩したかも」
わかっている、ごまかしきれていないことは。
「夜1人で出歩くなって言ってあったと思うけど」
「ごめん」
「謝るなら最初からするなよ。刑事だったら狙われる覚えはいくらでもあるんだろ?」
「はい」
そっちこそ、あれはどういう事でしょうか。
三朝は喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、ただうなずいた。
「それはそうと、」
「?」
「今夜の予定は?」
「……なに、改まって」
三朝は思わず笑った。つきあい始めて数ヶ月、初めてそんな言葉を耳にした気がする。
「俺は今夜は空いてるけど、三朝はどう?って聞いてるだけ」
「空いてるよ」
「じゃ、終わったら電話する。夜には帰れるだろ」
「はい」
5
「はー、なんで聞けないかねー」
ひとり、ため息をつく。夏のにおいがする夜風に吹かれながら、踊り場の柵に身をよせて突っ伏している。
奈緒が持ってきた夕刊に目を通しながら3人で話をし、そのうち奈緒が部屋から出て行って、また2人になったのに、どうでもいい他愛のない会話をして、けっきょく隼人は4時過ぎに出かけていった。
まるっきり怖がっているだけ。ホントどうしようもない。史桜の病室から出てくる隼人をキッチリこの目で見たというのに、そのことについて一切触れることが出来なかった。そしてまた、心の中でモヤモヤを育て続けている。このモヤモヤは、吐き出さないと三朝の体中にふくれあがって、そのうち溢れ出す。きっと、とんでもない状況で予期もせず、突然吹き出してしまうに違いない。一番悪いタイミングで。今から2人で食事に行くことになっているのに、それでも聞き出せない気がする。
そもそも、少し前までは一つのことをぐるぐると堂々巡りをして考え続けるのは苦手だったはずだ。これ以上なく後ろ向きで、きっと、ごく近い未来の三朝から見ればバカバカしいにも程がある。そんなもの、聞けばスッキリするはずだ。なにをウダウダ、無駄な紙面をはたいてまで考え続けることがある?
と、思ってはみても、いざ本人を目の前にすれば勢いも萎えてしまう。もうちょっとで口を突いて出そうだったのに、今一歩踏み切れなかった。情けない。
ふー、と再びため息をついた。
ため息をつくたびに、ひとつ幸せも一緒に吐き出しているとか聞いたことがある。だから、ついたため息はその場で吸い込むんだほうがイイ、と。ふいに思いだし、息を吸い込みかけた。そして、目に飛び込んできた情景に驚き、吸い込みすぎて呼吸困難になりそうになって咳き込んだ。だたし、出来るだけ声は上げずに。
すぐ下に見下ろせるテラスに、沙也香と男の影がある。男の顔は見えない。が、あれはどう見たって宏司だ。なにを話しているのか、それは聞こえない。こちら側に顔を向けて話す沙也香の口元だけがわずかに見える。
見ているのも耐えられなくなって、三朝は気づかれないように踊り場に身を沈めた。
あのふたりが?
明日から2人と顔合わせづらいかも……と、頭を抱え込んでいるところへ追い打ちを掛けるように携帯が振動した。きっと隼人だろう。よかったーっ、音消しておいて。鳴っていたら響いて、下手すれば自分がここにいたことが2人にバレていたかも知れない。
あぶない、あぶない、と三朝は冷や汗を拭う思いでそっとその場を離れて電話に出た。
6
目覚めは最悪だった。
あと数百メートルで自宅に着く、という住宅街の路地。背後から車の走行音が聞こえ、足下から照らされる。
路地には自分以外、人はいない。薄ら寒い気配が背中を伝う。
感じた恐怖感に、自分は心の中で苦笑いする。車が一台、近づいて通り過ぎようとしているだけなのに、と。
それでも、拭い切れぬ恐怖に振り返る。
近づいてきた黒いワゴン車。狭い路地、その黒い巨体はいっそうの圧迫感をもたらしている。
車は自分のすぐ横で停止した。
もう、すべてが遅かった。
あの日から何度みたか知れない夢だ。カーテンを閉め切った真っ暗な車内で、自分は確かに地獄を見た。
そう、地獄を見たのだ。
史桜はベッドの上に起きあがり、シーツに顔を突っ伏した。今までならそれは、眠気とだるさを振り払って仕事に行くための単なる日常の始まりにすぎない行為だった。でも今はちがう。目覚めた瞬間に恐怖におののく行為なのだ。
夜が来るのが怖い。眠ってしまうのが怖い。朝が来るのが怖い。現実、そして追い打ちをかける夢にたたき起こされる瞬間が怖い。目覚めた瞬間、信じられないくらいに震えている自分が怖い。
いつ終わるのか。それとも、一度地獄を見てしまったら、もう二度とそれまでの自分には戻れなくなるのだろうか。果てしなく、果てしなく、やっぱり地獄の糸を引きずって、揺さぶられて生きて行かねばならないのだろうか。
どうしてこんなことになってしまったのか――わからないまま、果てしなく……?
史桜は大きく息を吸い込み、そして吐き出せるだけ息を吐いた。シーツを握ったまま凝り固まった手から少しだけ力が抜ける。やっとの思いで顔を上げた。
そこには、担当医の姿があった。
「ごめんなさい、勝手に入ってきて。何度か声をかけたんだけど」
秋川沙也香はそう言いながらベッドの横の椅子に腰を下ろした。史桜は言葉を口にできず、首だけを横に振った。
「眠れませんでしたか?」
シーツを握っていた手を、沙也香が取る。他人の体温を感じて、なぜか急に力が抜けた。
「いえ、眠れました」
「……じゃあ、また夢を見ましたか」
「はい」
「話してください」
「え」
「あっさり言いましたけど、話してください。話したくなくても」
沙也香は同時に、史桜の腕をさすって血圧を測る準備をしている。巻き付いた布が腕を圧迫し、そしてすうっと力を抜く。
血圧計をのぞき込む沙也香を見ながら、史桜は言った。
「いつもと同じです」
「同じ、とは? まったく同じですか?」
布のマジックテープをビッとはがし、血圧計をしまいながら沙也香が史桜を見た。
「同じです」
「最後のシーンは公園……ですね?」
「はい」
「着いた場所が公園で、あなたは滑り台の所へ置き去りにされるんですね」
「そうです」
「男が何か言い残して行くんでしたね」
「はい」
「そこまで話は進みましたか?」
「…………」
「かわりに聴取、頼まれたわけじゃないですからね」
史桜は思わず笑った。もう震えていないことに気がついた。
「思い出さないといけませんよね」
「え? いいえ」
沙也香はあっさり否定する。
「え、でも……」
「いいんです、警察は警察で。伊豆さんが向こうの都合に合わせることはないんですから」
「そんな」
「いいんですって。伊豆さんはいかに楽しく生きるかについて考えてください」
「楽しく?」
「そうです。楽しく。忘れてたでしょ?」
沙也香は『いいですね』と言わんばかりに史桜を指さしながら、病室を出ていった。
呆気にとられたまま、史桜はしばらくぼうっとしていた。
7
「うー、似てるなぁ」
通信部の一角に座り込み、三朝はうなった。手にした写真を上に上げ、下におろし、斜めから見てはまた正面から目を凝らして眺め回した。
昔の新聞記事の写真の原本を現地から送ってもらったのだった。
原本の写真は彼女の全身写真で、足下には男の子が立っている。これが押入から保護された彼女の息子なのだろうと予測がつく。
確かに新聞に載っていた粒子の粗い写真ではそっくりだったが、本物の写真ならどうなのかと思って取り寄せたのだが、結果は"本当によく似ている"と言うことがわかっただけだった。
やはりあのメールは偶然でもイタズラでもない。何らかの意図を含ませた、事件関係者からのメールだ、という確信が三朝の中にできあがっていた。直感でも根拠がなくても、三朝にはそうとしか思えなかった。
問題はその"意図"だ。
なにを言いたくて過去の事件の存在を知らせてきたのか。
なぜ、この過去の事件と似たような事件を繰り返したのか。
なぜ、捜査主任の関係者である伊豆史桜を、最後の被害者に選んだのか。
なぜ、本部近くの公園に、まるで"保護してくれ"と言わんばかりに彼女を置き去りにしたのか。
彼女になにを言い残したのか。メールの送信先に三朝を選んだのは。
なぜ……。
「はーーっ」
わからないことだらけで、三朝は思わず大きくのけぞった。そしてその体勢のまま息をつく。
本当はわかっていることがある。いや、そうだろうと感じていることがある。
犯人の頭にあるのは『立樹三朝』なのではないか、ということ。
そう考えるのは怖い。
これまでの事件の被害者、そして伊豆史桜は、自分のために犠牲になったということになる。
そして、その狂気に満ちた行為を行った人間のターゲットが、自分であるということに――。
三朝はため息をつき、体を起こして椅子に座り直した。机の上に置いた写真が目にはいる。
やりきれなくって思わず写真から目が離せなくなる。移っている彼女は、はにかんだ笑みを浮かべてレンズを見ている。きっと、この写真を撮るときにこの子供が恥ずかしがったんだろう。彼女の足に隠れるようにしてしがみついている息子に、彼女は思わずはにかんだのだ。微笑ましい雰囲気の中で撮られた写真だったんだろうな。
そんなことを考えながらしばらく眺めるうち「え?」と思った。
写真を封筒にしまい、席を立った。
8
昼下がり、都内の公園。うっそうと茂る木々に人目を避け、隼人はある男と並んでベンチに腰を下ろしていた。
男はTシャツの上からチェックの半袖のシャツを着込み、少しダブついたジーンズをはいている。一見すると学生にも見えるほどごく普通の若者だが、隼人がよく使う情報屋の1人だ。
「じゃあ報酬はいつも通り。またなんかあったら頼むよ」
「はい、よろしく」
男が片手をあげて子供のように笑う。立ち上がった隼人の背中に、男が思い出したように声を上げた。
「あ、そういえば」
隼人はタバコに火をつける手を止めて振り返った。
「なんだ?」
「立樹さん、ここのところどうですか?」
「……なにが」
「いや、おかしいところはないかな、と思って」
「あいつならいつもおかしいけど?」
男は「そういう意味じゃないっすよ」と破顔して手を振った。
「いや実はね。いつごろだったかなあ? まあ、ちょっと前なんすけどね。1週間くらい前? E区の喫茶店の前を通りかかったときに、たまたま若い男と一緒の立樹さんを見かけたもんですから」
「……何時頃?」
「いや、昼間っすよ。昼過ぎくらいかな」
「刑事じゃないのか?」
隼人が言うと、男は顔をしかめてみせた。
「いや、そんなカンジじゃなかったですよ。なんか深刻な顔して、ちょっと"かしこまる"ってカンジでしたけど。俺、浮気だったらどうしよう、とか思いましたもん」
「どんな男だった?」
「サラリーマンですね、あれは。スーツでした。髪をこう心持ち七三に分けて、前髪たらし気味に固めてね、目が少し細めでしたけど、なかなか男前でしたね。背丈は座ってたからハッキリとは言えないけど、たぶん椎名さんと変わらないんじゃないかな?」
隼人は少しのあいだ唇をかみ、男に向き直った。
「わざわざどうもな」
「ええ。お得意さまですから。たまには利益還元さしてもらわないとね」
「へえ。いい心がけ。じゃあまた頼むな」
隼人は言い残し、くわえたままだったタバコに火をつけながら、広い公園を出口へ向かって木々に囲まれた道を歩く。
――京介だ。
男の話を聞いて思っていた。いつだったか『隼人を訪ねて京介が来ていた』と三朝が言っていた。本部ロビーで京介に会ったと。きっとその日だ。
もちろん男が言ったような浮気でないことはわかっている。経緯はわからないが、自分と史桜のことを話していたに違いない。
気がつくと隼人は顔をしかめていた。くわえたままのタバコを指で取り、眉間に込めた力を抜く。
またタバコをくわえて、吸い込んだ煙を一気に吐き出した。
三朝が言いたいことを言わず、聞きたいこともぶちまけず、内にため込んでいるのを、隼人は知っていた。仕事のことで、史桜のことで、他ならぬ自分のことで、三朝は振り回されている。
隼人は三朝の上司だ。仕事のことで思い通りにならないことがあっても、悩んでも、壁にぶつかっても、三朝は決して隼人に泣き言は言わないだろう。そして隼人は、たとえ三朝がたまりかねて胸の内をこぼしたとしても、けっきょく本当の意味で手を貸してやることは出来ない。
隼人は上司だからだ。上司の助けなど三朝も望んでいない。というより、むしろ拒否し続けるだろう。人間だから、事件の内容によっては心を乱されることもある。その動揺は、三朝も見せたし、隼人も受け止めたことがある。それでも、受け止め、話を聞き、少し助言をしてやったら、そこから先は三朝の問題であり、三朝自身が乗り越えなければ意味も成長もなくなってしまう。隼人にできるのはそこまでだ。
自分の車を本部へと向かわせながら、根本まで燃えたらまた1本、また1本と、ひっきりなしにタバコを吸い込んでいた。さっきの情報屋が置いていった"みやげ話"がぐるぐると頭を巡り、引っかき回している。
個人的な話になると違ってくる。
仕事の面では助けてやれなくても、個人的な面では助けてやりたい。三朝が助けを求めてくる存在でありたい。他の誰でもなく、自分に。
あの日、望と会って帰りが遅くなり、夜中の司令室で少しだけぼーっとしていたら電話が鳴った。内線電話で、本部内を巡視していた警官からだった。
彼は挨拶もそこそこに"すぐに来てくれ"と言った。椎名警視を呼んでいる、と。誰が、と聞いて返ってきた答えを聞いて全身が凍る思いがした。
呼んでいたのは史桜だった。
その時間にはとっくに眠りについていたはずの史桜が、病室を抜け出したのだ。一目で患者とわかる女が、裸足で本部内を徘徊しているのを見つけ、警官は驚き、あわてて保護をした。
目の焦点も定まらず、隼人の名をしきりに、うわごとのように繰り返す史桜を見かねて、とりあえず近くの電話から司令室にかけてきたのだ。
隼人はすぐに彼女の元へ駆けだした。廊下を走って、エレベーターを待つのももどかしく、本部の複雑構造が恨めしくなるほど、必死だった。
わかってはいたが、やはり自分は史桜が心配なのだと思い知った。隼人を見つけて泣きすがる史桜を、警官が呆然と見守るのも気にせずに抱きしめていた。史桜の計り知れないほどの痛みが伝わり、隼人はもう史桜を抱きしめるよりほか、何もできなくなってしまっていた。
認める。その瞬間だけ、三朝のことは頭になかった。史桜の痛みにさらされた、その一瞬だけは。
三朝は、それこそ史桜が現れてからずっと、思い悩んでいたのだろう。最初こそ『心配ないでしょ?』と口にしたものの、彼女に会いに行かないのはどうしてか、会えばどうなるか自信がないのではないか、と問い詰めてきたこともある。
仕事の都合上、三朝に彼女の聴取をまかせっきりにしている。三朝が自分の気持ちに答えているとわかっていて、その隼人自身が三朝に史桜を任せるという指示を下した。状況からも、公私の別をつける、という面から見ても致し方ないことではあっても、こんなに残酷な指令があるだろうか。
三朝は仕事を通じて、隼人が過去に愛した女の、しかもこれ以上なく傷ついた姿をまざまざと見せられ、現実としての今の史桜、それを丸ごと受け止めさせられた。
三朝が自分との関係を史桜に明かした様子もない。史桜がまだどれほど、過去に止まったままなのかはわからない。けれど三朝はその史桜の想いを、まるで突きつけられるようにして、接触するごとに感じていたはずだ。史桜にそのつもりはなくても。
隼人は自分なりに、三朝が本気で自分との関係に向き合っていると思っている。少なくともそう感じている。同時に、三朝が史桜に対して引け目を感じているのも、また感じてしまっている。ちゃんと史桜に対して、自分がいまの隼人の彼女であると告げていないことが、それを証明している。
史桜はいま彼女が今まで知ることのなかった暗闇にいる。それも深い、深い、光の兆しさえ見えない暗闇のまっただ中に。その彼女が胸に秘める、唯一の希望が隼人なのだ――三朝はそう思っているのだろう。そこへ自分が隼人との関係を明かすことは、彼女を暗闇へと完全に閉じこめてしまう『最後通告』だと三朝が意識しているのは、隼人ははっきりと知っていた。そう三朝に意識させたきっかけを作ったのが、ほかならぬ地便自身なのだ。
ひどい。
しかも三朝を失いたくないと、おろかにも怯え、同時に史桜から逃げている。
隼人はたまらず、ハイライトのきつい煙をぐっと吸い込んで一息に吐き出した。
三朝が本当に最後通告を出すべきなのは俺だ、と隼人は思い、また改めて泣きたいほど三朝を好きなのだ、と痛感していた。
9
三朝が司令室に戻ると、一人でタバコを吸っていた幌が顔を上げた。
「お、お疲れ」
「どうしたんですか?」
部屋の中に進みながら、三朝は幌にそういった。気のせいか、入ってきた三朝に驚いているように見えたからだ。
「いや、ボーっとしてたからビックリしただけ」
「そうですか?」
「おまえ、『そうですか?』って疑い込めていうなよ」
「え? でも何か変だな、と思って」
なぜか居心地の悪さを感じて、三朝は幌から目をそらしてイスに腰掛けた。
「おまえのこと考えてたからじゃねえかな」
「は?」
三朝は振り返った。幌はあらぬ方向を見つめていた。さらにそのまま続ける。
「はやく帰ってこねえかな、ってな」
「…………」
三朝は首を傾げ、幌の言葉を待った。幌はちら、っと三朝を下目で見る。
「司令室待機のはずなのに、いなかっただろ? 先に主任が帰ったらどうするんだ、と思ったらもうハラハラしてさ。気が気じゃないっつの」
幌が笑う。ああ、と三朝は思った。居心地の悪さを感じたのは幌が笑ってなかったせいか、と。
「いや、ちょっと他の部署に行ってたもので」
「へえ、通信部? それとも図書室?」
うっ……。
突然、痛いところを突かれ、三朝は幌を見た。今にも笑い出しそうな表情を浮かべて、幌はタバコを灰皿へ押しつけている。
「ビックリしたか? ま、秘密があるのはお互い様だけどな」
「っていうか、知ってるんですから秘密じゃないんじゃ……」
まいったな、と肩を落とした。いつもの調子に戻ったかと思うと、いきなりこうだ。秘密のつもりが秘密では通らない。
「お、観念するか? とぼけた方がイイんじゃないの?」
「だって無駄でしょう、顔に出しちゃいましたから。それに否定したところで通用しないでしょ」
「はは、それおまえ、買いかぶりすぎ」
「いいえ、んなことありません。まったく、人が悪いんだから」
「はは、悪い。でも中身までは知らないから詮索せずにおくよ」
「そうしてください。助かりますから」
三朝は言い、席を立った。幌に背を向けて司令室内の給湯室に入り、背の低い冷蔵庫の前にかがんだ。
「なにか飲みます?」
「コーヒー冷えてる?」
「ありますよ」
三朝は返事し、冷蔵庫の奥に手を伸ばした。頭上から陰りがかかって暗くなるのに気づいた。
冷蔵庫の扉を隔ててすぐそこに、幌が立っているのだとわかった。
「おまえ、なんとも思ってないだろ」
「……まさか」
片手を冷蔵庫の扉にかけたまま、三朝は答えた。
「俺が口説いてること、覚えてる?」
「もちろんです」
幌は、わずかにため息をつきながら顔を背けた。
「そりゃよかったよ」
「なんで怒ってるんですか」
「別に」
どっちも黙って、三朝は動けなくなった。ジーンという冷蔵庫の音だけが残る。滲み出るような冷気を足下に感じながらも、扉を閉められない。
「……ごめんな」
幌が笑って差し出した手に、三朝も笑いかえして、扉のポケットから出した缶コーヒーを置いた。
「そうやって、はぐらかしててくれよな」
「…………」
「ま、相手にしてないだろうけどね。最初から」
幌が笑うので三朝も笑い、立ち上がって横をすり抜けた。
「そう言われたら、なにも言えません」
「かな、やっぱり」
「もともと、なにも言えませんけど」
「どうして?」
「うまく言えませんけど……好きな人いるから、ごめんね、とか言うのは違うと思うんですよね。好きな人いたって、ある日突然、別の人に惹かれることも世の中にはたくさんありますから」
「おい、」
「今は隼人でいっぱいですよ、アタシは。でも、それが理由じゃないんです。だからなにも言えない」
「…………」
「混乱しました?」
「いや、そうじゃないけど」
幌がまいったというように笑ったとき、三朝はあわててタバコの火を消した。幌が怪訝な顔でその仕草を見つめ、立ち上っていた煙が霧散したところにドアが開き、隼人が入ってきたのだった。
10
それぞれの想いが交錯する。秘密が秘密を呼ぶ。誰も本音をぶつけられぬまま、波のそこへ押し沈められていく。夜の闇もやがては明ける。朝日が昇って、人の息吹が帰ってくる。明けない闇はない。
誰かを想って悩み、とまどい、苦しみもがく。それぞれに訪れた闇も、夜明けのように白み始める日はいつのことだろう?
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