第2話 貴鞍の国

 牛車に揺られること数日。牛車の外がだんだんと騒がしくなってきたことに、澪咲みさは気付いた。

 人々の足音、会話する声、鉄を叩くような音、がらがらと車輪が引かれていく音。賑わいに誘われるように、澪咲は顔を上げた。

貴鞍たかくらの都でございますよ」

 外から、牛車についてくれていた貴鞍の従者が呼びかけてきた。

 澪咲は牛車のすだれの隙間に指を入れて、ほんのわずかに捲ってみる。

 目に飛び込んできた光景に、澪咲は目を見開いた。

 整備された道、ずらりと立ち並ぶ店。行き交う人々の身なりはきちんとしていて、表情も生き生きとしている。店の前では店の者と客との会話がにこやかに交わされ、はたまた鍛冶屋らしき店では、上半身を裸にした男が鉄を打っていた。その前を、何か品物を満載にした台車を引いて通り過ぎる男に、子どもと手を繋いで歩く女……。

 その光景は、活気に溢れていたのだ。

「あの、今日はお祭りですか?」

 澪咲は従者に尋ねる。

「いいえ? いつもこのような様子ですよ」

 不思議そうな返事が返ってきた。

 ——聞いていた話と違う。

 貴鞍では軍備に力を入れるあまり民は貧しく、冬を越すのもやっとなのだと。この様子を見る限り、それはまったくの誤りだった。

「殿がしっかりまつりごとをしてくださっていますからね。都の治安も良いですし、皆、ある程度は豊かです」

 従者の声が追い討ちをかけるように澪咲へと届く。

 当主の暉賢あきまさは、暴君ではなかったのか。とはいえ、そんなことを尋ねるわけにもいかず——。

 困惑したままの澪咲を乗せ、牛車はとうとう、貴鞍の当主家の屋敷に到着した。

 貴鞍の屋敷は、それはそれは立派なもので、香春高かわらだかの屋敷とそれほど変わらないくらいだった。

 澪咲は牛車から降りた瞬間、そよそよと吹き抜けた風に懐かしい匂いを感じた。貴鞍には、初めて訪れたはずなのに。しかし緊張が勝って、その小さな違和感はすぐに澪咲の頭から消えてしまった。

 しずしずと歩きながら、澪咲は目だけで辺りを見回した。

 薙刀なぎなたを持った軽鎧姿の武者が二人、門の両脇に立っている。そこを通り過ぎて敷地に入ると、屋敷の外構はどこも綺麗に整えられていた。屋敷の中も手入れが行き届いており、すれ違う侍女も家臣もみな、憔悴した様子は微塵も感じられなかった。

 案内されるままに屋敷を歩き、御簾みすの下ろされた部屋の中へと通された。部屋の中の几帳きちょうの向こうには、侍女らしき女が座して床に手をつき、頭を下げていた。

「ようこそお越しくださいました」

 彼女からの言葉に、澪咲の心臓がどきりと鳴った。

 遂に、やってきてしまった。貴鞍の、地に。

「……お出迎え感謝いたします。お顔を上げてくださいな」

 澪咲の声に、頭を下げていた女が顔を上げた。

 歳の頃は十五、六か。あどけなさが残りつつも可憐な容姿をしている。彼女と目が合い、そのままじっと見つめられた。

「……なんて綺麗なお方……」

 少女がほやっと頬を染めて呟いた。

「え?」

「こ、これは、失礼いたしました! 私は、舞純ますみと申します。澪咲様お付きの侍女として、本日よりお世話させていただきます」

 舞純は再び床に手をついてぺこりと頭を下げると、顔を上げてにぱっと笑った。あまりに純粋な笑顔に、緊張でがんじがらめにされていた澪咲の心が少しほぐれた。きっとこの子は、良い子だ。

「ありがとう。よろしくお願いしますね」

 澪咲が微笑むと、舞純が目を輝かせて頬を染め、あわあわと両手をばたつかせ始めた。

「わああ、こんなに美しくてお上品なお方にお仕えできるなんて、侍女冥利につきます!」

 その様子に澪咲の目がぱちぱちと瞬いた。

 ……良い子、なのだろうけど。ちょっと、変わってる……?

 舞純はひとしきりあわあわした後、はっと我に返ったように動きを止めた。

「あ、こうしてはいられません。澪咲様、早速ですがお召し替えを。殿とご対面がありますから」

「え、あの、殿、というのは」

「はい、当主の貴鞍 暉賢たかくら あきまさ様でございますよ」

 その名を聞いた途端、ほぐれていた緊張の糸がまた澪咲の心を縛りにきた。

 輿入こしいれしたのだから、対面するのは当然のこと。しかし、気持ちの準備が一切できていなかった。

 暴君だと聞いていたのに都はしっかり整備され、民にも活気がある。この屋敷だって隅々まで手入れが行き届き、綺麗に整っていた。

 澪咲の中の「貴鞍 暉賢」像がぐらぐらと揺れて、覚悟ができなくなっていた。

 しかし、時はそんな澪咲の心中を待ってはくれない。澪咲は無理やり自分を奮い立たせ、舞純が着替えを進めるままに受け入れた。

 旅装束を脱ぎ、小さな紋がいくつも施された水縹みずはなだ色の上質なうちぎと藍色のはかまを合わせて、髪は緩く結い上げる。薄く紅を引けば、澪咲の花のような気品と、柔らかな佇まいが更に引き立った。

「……お美しいです、澪咲様」

 舞純がうっとりと呟く。

「さあ、対面のお部屋はあちらです。参りましょう」

 舞純の声に、澪咲は静かに頷いた。こっそりと、あの大事なかんざしを懐に忍ばせるのも忘れない。

 澪咲は、震える手のひらを袖の中でぎゅっと握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。

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