うっかり転移

 “屋敷”の中は外観に反して豪奢だ。


 仕切りのない一室。真紅のカーペットが一面に広がり、目がちらちらする。中央にガラス製のテーブルとチェス盤。それを囲むように二人掛けの皮張りのソファ。奥の壁際に一冊の魔導書が置かれた書斎机と椅子がある。


 天井に吊るされたシャンデリアは、扉の開閉をワンセットにそれが奇数回――つまり人が部屋に入ると魔力によって灯りをともし、偶数回で消える優れモノだ。


 どれも公爵家が家具を新調する際に拝借したものだ。


 当然、許可は得ていない。


 どうにも圧迫感があるのは、窓がないせいだろう。要人を軟禁するための部屋のようだ。


 ここが偉大な魔術師の研究施設であるとは到底思えない。


 実際、それは正しい。


 この“屋敷”はいわばエントランスだ。居心地は、悪くない。しかしこんなところで魔術の実験なんぞした日には、母さんに叱られてしまう。


 僕は子供だから、母さんに叱られるのはイヤだ。


 だから、誰にも叱られず、邪魔をされない場所を求めた。


 しかし世界広しといえど、意外とそういった場所は見つからないものである。荒れ果てた荒野にも生態系がある。それを破壊してまで研究や実験はすべきではない。


 では、どうしたのか。


 異空間転移がその答えである。


 収納魔法というものがある。術式を刻まれた武具や道具を、異空間に収納し、任意で出し入れを可能とするものだ。主に冒険者がよく使うこの魔法によって、異空間の存在が認められている。しかし、この異空間に生身の人間が到達したという報告は未だかつて聞こえてこない。


 人類未踏の地。


 なんて甘美な響きだろうか。


 五歳の僕はロリポップをちらちらされたように、夢中になった。


 紙と万年筆を手に、この問題に着手した。


 つまり異空間に僕という存在を収納し、取り出せればいいのである。ということは、自分に術式を刻んで、第三者に使用させることで、これが可能になるのでは? 仮にこれで異空間に入り込むことができたとして、その環境は? 無機物の保管は可能でも、人間の生存可能条件を満たしているのか?


 熟考に熟考を重ねた。しかし疑問ばかりが噴出し、答えは出ない。そもそも答えなぞ初めからないのである。考えるだけ無駄だ。ともすれば取るべき行動は一つ。


 僕は拙い字で遺書をしたため、皆が寝静まったころを見計らい、“屋敷”で事に転じた。


 協力は求めなかった。求められるはずもなかった。誰が好き好んで子供の自殺行為に目を瞑るというのか。


 僕は厨房の棚からくすねたクッキーを、最後の晩餐といわんばかりに味わった。


 遺書をガラス製のテーブルに置き、杖の先端に魔力を集中させ右手の平に簡易術式を刻む。簡易術式の効力は朝日が昇るころにはなくなる。半永久的に術式を消えなくする方法もあるが、鋭利な刃物で突き刺すような痛みを伴う。痛いのは嫌いだ。それに異空間が人間の身体に適した環境でなければ、どちらにせよ意味がない。


――やっぱり、やめようかなぁ。


 と思考が過った。


 瞬間、誤って親指と中指をこすり合わせた。うっかりと魔力を込めてぱちんとなったそれは、「あっ」と思う間もなく、魔法陣を展開させ、刹那的な閃光と共に僕を転移させた。

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