でも、君は綺麗だよ?
「なんであの人、走っているの?」
屋敷に戻る途中、グラウンドで走る人影を見た。随分と距離があるから、顔までは分からない。姉さんが僕を探しているというのはシルヴィアから聞いていた。まさか姉さんではあるまいて。しかし頭のところから伸びる、馬の尾のようなシルエットには見覚えがあった。
シルヴィアが隣に立ち、僕の視線を追った。「日課ですから」
「僕を探していたのでは?」
「ええ、ですから、あのように」
「つまり?」
僕はシルヴィアにその先を促した。彼女は黙して語らず。仕方なく、僕は思っていることを口にした。
「犬みたいに?」
静かに瞳を閉じるシルヴィア。
それを同意として受け取らないのは無理がある。
――ああ、哀れ。
使用人にこのように思われているだなんて、涙を禁じ得ない。
僕が行方知らずの間、神経衰弱を起こしていたそうだが、そんな風には到底見えない。元気に駆け回る姿に思わず口角が上がる。わざわざ骨を持って行ってやる必要はなさそうだ。
その時、僕の腹が鳴った。
「おなか空いた」
夜中の小冒険に精を出したのがたたったのだろう。あるいは育ち盛りが原因かもしれない。なんにせよ、自分の腹の音を聞いたのは久しぶりだ。
「食事の準備をいたしましょう」とシルヴィアがいった。
僕はそれに頷いた。
そこでふと妙案が浮かぶ。
「シルヴィア」屋敷の方に歩き出す背中に言った。彼女が振り返った。「三人分、用意してくれ」
「太りますよ」
「僕が食べるんじゃないやい」
シルヴィアは僕の考えを察して露骨にイヤな顔をした。
「ラボの方に持ってきてよ。きっと彼女たちも腹を空かしているからさ」と僕は言った。
実にいい案ではないか。新たな友人たちと朝食の時間を共に過ごし親交を深める。たちまち流布された事実無根の愛人関係は、僕が彼女たちに会いに行くそれっぽい理由に見えるだろう。これから僕が足繁くラボに通ったとして、「それだけあのオンナに夢中なのだ」と、ゴシップに飢えたハイエナたちは考える。
ラボ自体に用があるだなんて、よもや思いもしないだろう。
楽観的が過ぎるきらいが確かにある。しかし何か事を起こそうとするときに、コチコチで身動きが取れなくなるよりもマシだ。
シルヴィアが言った。
「お控えになるべきかと」
「なんで」
「無謀なことをしようとしているのです。きっと夜通し作業をしているはず。疲労はたまり、顔は浮腫み、深いクマと荒れた肌。そんな姿を見られたいオンナがいるでしょうか」
もっともらしいことを、もっともらしい顔で言わせたら右に出るものはなさそうだ。
確かに、シルヴィアの言い分はもっともだ。三日足らずで服を仕立てるというのは、容易ではない。しかしあちらもプロだ。やるといったからにはやり通すだろう。なによりも、ここで首を縦に振ったならば、僕の完璧なラボ通い計画がご破算になってしまう。
僕はすました顔を繕い、小首を傾げた。
「でも、君は綺麗だよ」
シルヴィアが小さく息を飲んだ。
僕の部屋の前で寝ずの番を見事に完遂した賜物だろう。顔は浮腫まず、深いクマもなければ肌荒れもない。透き通るような肌は、年端もいかない見習い騎士を篭絡せしめ、澄んだ青い瞳はその心を射止めるのに十分な効果を発揮することだろう。
機を見るや敏。
僕はもう一押しとばかりに、微笑みかけた。
すると、シルヴィアは瞬時に踵を返し、逃げるように去っていった。にわかに耳が赤く染まったのを、僕は見逃さなかった。
小さく息を吐き、得意気に眉を上げた。
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