第2話:ユキちゃん家到着

こぢんまりとしたアパートの階段を上り、2階の部屋へ。

ドアには可愛らしいベビーシューズの飾りが揺れ、

その横の表札には「結城」の名字と、旦那さんの名前に並んで、

ユキと小さな赤ちゃんの名前が新しく加わっていた。


私たちがチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開く。


「わぁ、みんな、よく来てくれたね! さ、上がって上がって!」


少し眠たそうな目をしながらも、ユキが満面の笑みで迎えてくれた。


「ユキ、おめでとう。はい、これ。みんなからのお祝い」


私が代表してプレゼントを渡すと、ユキは嬉しそうにそれを受け取った。


「うわぁ、嬉しい!本当にありがとう!」

「そんなことより、持ってきたケーキ早く食べようよ!」


パー子の言葉に、ユキの笑顔が一瞬、固まる。


「……」


「少子化対策という観点から、統計的にはあと二人欲しいね。

パー子と私の分も考慮すれば、合計八人の出産を推奨したいけど」


ロンちゃんの言葉に、ユキの顔が引きつる。


「そんなに、産めるわけないでしょ!」

私がすかさず、ツッコミを入れる。


「……」


そう、これが私たち四人組の、いつものコミュニケーションなのだ。


ダイニングに通されると、ユキの旦那さんが水槽の前に座り、

隔離された容器の中の小さな生き物に、そっと餌を与えていた。


その透明な水の中を、鮮やかなオレンジと白の

ストライプ模様をまとった無数の小さな命が、

ふわふわと漂っている。


「うわーー、これ何!なに!?」

パー子が水槽に駆け寄る。


「これはエメラルドパファーの稚魚だよ。三日前に生まれたばかりなんだ」

旦那さんが、はにかみながら教えてくれた。


「えー! すごい!フグまで生まれるなんて、ダブルでおめでたいですね!」


私がそう言うと、パー子も目を輝かせた。


「オレンジと白のしましま、めっちゃ可愛い!いいなぁ」


その時、奥の部屋からユキが、柔らかな産着に包まれた赤ちゃんを抱いて現れた。


部屋に差し込む光が赤ちゃんの産毛に触れ、

天使の輪のように輝いている。


「ほら、赤ちゃんですよ。ちゃんと見てあげて?みんなにご挨拶」


ユキはそう言うと、赤ちゃんの小さな手を優しく握り、

私たちに向かって振ってみせた。


「わぁ、可愛い!ユキにそっくりね!」


私が言うと、ユキは「ありがとう!」と

嬉しそうに微笑んだ。


パー子はフグの稚魚に夢中で、

赤ちゃんには一瞥もくれない。


一方、ロンちゃんは、赤ちゃんをじっと観察している。


「出産という極めて困難なプロセスを完遂したこと、賞賛に値するよ」

 啼泣も活発そうだし、健康状態は良好のようだ。おめでとう」


「……うん、ありがとう」

ユキが、ふと我に返ったように言った。


「あ、ごめんね。ケーキとお茶、用意するね」

「私がやるよ。ユキは座って休んでて」


キッチンに立ち、ケーキを皿に取り分けながら、

私は静かにため息をついた。


(まったく、パー子は空気を読まないし、

 ロンちゃんは論理で人の心まで解剖しようとするし……)


冷蔵庫からミルクティーを取り出し、ポットに注ぐ。


(仲良し四人組、だなんて。

 よくもまあ、こんな奇跡的なバランスで成り立っているものだ……)


ティーカップの数を数えていると、

リビングから微かに赤ちゃんの泣き声が聞こえた。


(それでも。今日くらいは、穏やかに過ごせるって、思ってたんだけどな)


私がケーキとお茶をテーブルに並べ、

みんながフォークを手に取った、まさにその時だった。


「ねえ、これ言ったら怒るかもしれないけど……」


私の手が止まる。

「パー子、待って。お願いだから、何も言わないで」


だが、もう遅かった。


「フグの赤ちゃんのほうが、ぶっちゃけ可愛くない?」


その瞬間、旦那さんを含め、

その場にいた全員の空気が凍りついた。


ユキの顔から、すっと表情が消え、

口元が微かに引きつるのが見えた。


「まず分類学的に、“赤ちゃん”という呼称は、魚類には適用されないから…。」

ロンちゃんが冷静に指摘する。


「そういう問題じゃない!」

私は叫んだ。


「……あ、あはは……」

ユキは笑っていたが、

その顔は明らかにひきつっていた。


(ああ、どうしてこの子たちは、こんな残酷なことを言えるんだろう。

 せっかく、可愛い我が子に会いに来てくれたっていうのに……)


心なしか、ユキの腕に抱かれた

赤ちゃんの体が、わずかに強張ったように感じられた。


ロンちゃんが眼鏡をクイッと押し上げ、

冷徹に分析を続ける。


「人を『可愛い』と思う感情は、多くが血縁関係か社会的な刷り込みによるものだよ

 純粋な見た目の魅力で言えば、

 人間の赤ちゃんが持つベビーシェマは本能に訴えかけるが、

 それを客観的に『可愛い』と感じるかは別問題だね。

 むしろ少数派なんだ。

 だから、パー子の『フグの方が可愛い』という発言は、

 お世辞抜きの本音の可能性が高い。

 ユキが動揺しているのは、母親としての期待と、

 その事実とのギャップに戸惑っているからだろ」


「ロンちゃん!もういい加減にして!

 ユキは今、赤ちゃんを産んで、寝る間もないくらい大変な毎日を送ってるの!

 それを『合理性』だの『ベビーシェマ』だの、そんな言葉で切り捨てないでよ!」


自分でも驚くほどの大声が出た。


パー子もロンちゃんも、

鳩が豆鉄砲を食らったように口をぽかんと開けている。


「……私だって、いつも仲裁ばっかりで、もう疲れたのよ。

 たまには私の言うことも、聞いてよ……」


胸の奥に、ずっと澱のように溜まっていた

何かが、涙となって滲み出た。


「え、でもフグの赤ちゃん、ほんとに可愛いじゃん?」

パー子が、悪びれもせずに言う。


「……う、うん、フグも、可愛いよね……?」

ひきつった笑顔で、ユキがなんとか答えた。


その目は一瞬だけ、

水槽の稚魚たちに向けられたように見えた。


旦那さんが、水槽から顔を上げて無理に笑う。


「ハハ、どっちも可愛いよ。うちはフグも赤ちゃんも、どっちも宝物だから!」


その言葉が、かえって場の空気を重くした。


ユキはどこか寂しそうに赤ちゃんを抱きしめると、

ケーキには手を付けず、そっと奥の部屋へと消えていった。


その背中には、言いようのない疲労と、

小さな怒りの炎が揺らめいているように見えた。


旦那さんもその場の空気に耐えられなくなったのか、

「少し外の空気を吸ってきます」と言い残し、

逃げるように家を出て行ってしまった。

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