​第一章:白皙の少女

 ​斎渦村は、常に熱気に浮かされていた。

 海より来る黒潮に乗って、南方の珍品を積んだ商船が絶えず入港し、港に面した市場は、日の出から日没まで喧騒が途切れることはない。威勢のいい男たちの怒声にも似た呼び声、日に焼けた女たちの甲高い笑い声、そして、それら全てを包み込む、潮の香りと魚介の生臭さが混じり合った濃厚な空気。それが、我が故郷、斎渦村の日常であった。


 ​俺、カイトが営む宿屋「海猫亭」も、その活気の渦中にあった。絶えず流れ込む商人たちで、夜ごと宴が開かれ、安酒と根も葉もない噂話が酌み交わされる。


「聞いたかい、また一人『うつろ』になったそうだぜ」


「ああ、東の船着き場の番頭だろう。これで三人目だ。まったく、根方彼岸ねがたひがんから来たっていう精霊様の呪いは恐ろしいもんだ」


「馬鹿言え、呪いなもんか。海の彼方の理想郷から来たお方が、俺たちみてえな俗人に気まぐれを起こしただけさ。魂を抜かれるのは、選ばれたってことよ」


 ​彼らはそう言って、どこか悦に入ったように笑う。だが、俺はその笑い声の裏に、べっとりとした恐怖が張り付いているのを知っていた。


 この村では、奇妙な病が静かに、しかし確実に蔓延していた。罹った者は、まるで蝋人形のように生気を失い、感情の光を消した瞳で、ただ日々の作業を機械的に繰り返すだけの存在と成り果てるのだ。


 それでも村の活気が失われぬのは、この熱狂に惹かれて、常に新たな「獲物」──いや、新たな商人が流入し続けるからに他ならなかった。まるで、巨大で緩慢な捕食者の口のように、この村は絶えず新鮮な生命の「熱」を啜っていた。


 ​その日も、市場の喧騒が頂点に達した昼下がりだった。


 ふと、やかましいはずの空気が、水面に落とされた一滴の雫のように、静かな波紋を広げたのを俺は感じた。人々が何かに惹きつけられるように口を噤み、その視線が一つの方向に吸い寄せられていく。


 そこに、彼女はいた。


 ​白皙はくせきの少女、寿華じゅか


 ​小柄な体躯を真っ白な、染み一つない衣に包み、背には年季の入った木製の氷箱を背負っている。陽光を弾くかのように白い肌、長く艶やかな白髪、そして、その容貌かんばせに穿たれた二つの孔のごとき、底知れぬ漆黒の瞳。


 その容姿は、人ならざるものだけが持ちうる、一種、冒涜的なまでの美しさを湛えていた。見る者すべてを魅了するが、それは生命の暖かみからくるものではない。むしろ、あらゆる感情や人間性を削ぎ落とした果てに現れる、絶対的な空虚さに起因する美しさだった。彼女の視線は常にどこか虚ろで、誰を見るでもなく、何を見るでもなく、ただそこに「在る」だけだった。


​「……白皙の少女だ」


 誰かが、畏れと憧憬の入り混じった声で呟く。彼女は新月の日を除いて、毎日、山向こうの息渦村いきうずやまから、この斎渦村へと氷を売りに来る。


 俺は宿屋の軒先から、彼女がゆっくりとこちらへ向かってくるのを見ていた。その歩みは音もなく、まるで幽鬼のようだった。


​「氷を、一つ貰えるか」


 俺が声をかけると、彼女はこくりと頷き、背の箱から氷塊を取り出した。真夏の盛りだというのに、その氷は冷たい白煙を上げ、まるで溶けるという自然の理を拒絶しているかのようだ。素手で受け取った俺の掌は、一瞬で感覚が麻痺するほどの底冷えする冷たさに襲われた。


 彼女は代金を受け取ると、再び無言で歩き去っていく。その背中を見送りながら、俺は掌に残る奇妙な冷たさと、微かな疲労感を覚えていた。この氷で冷やした飲み水は格別の美味だと評判だが、それを口にした者は誰もが、言いようのない精神的な冷えをその日の終わりに伴うのだった。


 ​村人たちの多くは、この不可解な少女に、ある種の盲信を抱いていた。寿華が村に現れる日は、不思議と「うつろな者」が増えることがない、と。彼女の神々しいまでの美しさが、村に蔓延る奇病を鎮めているのだと、本気で信じている者さえいた。だからこそ商人たちは、その美しさに魂を奪われたように、競って彼女の氷を買い求める。


 ​だが、俺には分かっていた。それは安堵などではない。もっと質の悪い、甘い毒のようなものだ。


​「カイトや」


 背後から、皺がれた声がした。宿屋の雑事を手伝ってくれている、村で一番の年寄りであるハナ婆さんだ。彼女は、俺が見つめる寿華の後ろ姿に、忌まわしげな視線を向けていた。


「あの子の目を見てはいけないよ。あの子の美しさは、人のものじゃない。魂の底まで凍っちまうよ」


 ​ハナ婆さんの言葉が、俺の胸に突き刺さった。俺は、数ヶ月前に「うつろ」になった幼馴染のリョウのことを思い出していた。快活で、誰よりも太陽が似合う男だった。しかし今、彼は港の隅で、ただ宙を見つめて座っているだけだ。そして、その目──生気の一切を失い、ただ外界の光を反射するだけの、あの虚ろな瞳。


 それは、今しがた俺の前を通り過ぎていった、あの白皙の少女の瞳と、不気味なほどよく似ていた。


 ​俺は、自分の内側で、冷たい決意が固まっていくのを感じた。この村の活気は偽りだ。奇跡などありはしない。寿華の美しさ、彼女が運ぶ氷、そして村を蝕む病。その全てが、一つの巨大で邪悪な環で繋がっている。


 俺は彼女の美しさに惹かれ、同時に、その奥に潜む名状しがたい何かに恐怖していた。だが、もう目を逸らすことはできない。


 この甘美なる破滅の真実を、俺はこの手で暴かなければならない。たとえその先に、ハナ婆さんの言うように、魂の凍結が待っていたとしても。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る