婀娜めく少女の怪〜L'Abomination de Fille fatale〜

火之元 ノヒト

プロローグ 新月の告白

 ​人は熱を奪わるるを以て凍えと称するが、真の凍えとは、魂魄の芯より這い出づる冷たきものに触れ、その精神の構造そのものを異形の氷晶へと変質させらるることなり。


 ​――『エイボンの書』氷に関する異説より

 


 ​忌み嫌うべき渦の中心、斎渦村いみうずむら。その名は、この地に満ちる名状しがたい淀みを的確に言い表していた。海より吹く湿った風すら、路地裏に溜まった汚水と魚の臓物の腐臭をかき混ぜるだけで、何ら清めることはない。ことに新月の夜は、月光という最後の慈悲すら天から剥奪され、村は純然たる闇と静寂に沈み込んでいた。


 ​その闇の底、朽ちかけた廃屋の庇の下で、一人の男が泥のようにうずくまっていた。源三と呼ばれていたその男は、かつては血色の良い漁師であったが、今やその面影はない。虚ろな眼窩は、ただぼんやりと地面の一点を凝視し、弛緩しきった口元からは意味をなさない涎が垂れていた。彼は、この村で増え続ける「うつろな者」の一人であった。


 ​その時である。何の前触れもなく、源三の全身が弦を弾かれたように激しく痙攣した。がたがたと歯の根を鳴らし、ひきつけを起こしたように手足を震わせる。やがて、その動きがぴたりと止むと、固く閉ざされていた瞼がカッと見開かれた。そこに宿っていたのは、数刻前までの昏迷の色ではない。それは、地獄の釜の底を覗き込んだ者のごとき、純粋な狂気と筆舌に尽くしがたい恐怖であった。


 ​ちょうどその横を、日雇いの仕事を終えた行商人が通りかかった。その足首を、枯れ枝のような源三の手が、信じがたい力で鷲掴みにした。


「ひっ……!」


 行商人が驚きと嫌悪に声を上げるのを意にも介さず、源三は泡を吹きながら喘ぐように叫んだ。


 ​「あれは……あれは、奇跡なんかじゃない……。あれは呪いだ。あの『白皙はくせきの少女』は……あいつは、氷だ……。生きている氷なんだ。奴は、俺たちを……俺たちの魂を……内側から凍らせる……」


 ​その言葉は、もはや人間の声帯から発せられたものとは思えぬほど、切迫した響きを帯びていた。


​「新月の夜だけだ……。この忌まわしい闇夜だけ、ほんの一瞬……ほんの一瞬だけ、呪いが解ける……。 だが、またすぐに……。またすぐに凍らされる……。あの虚無の中に……再び……」


 ​行商人は、「また奇跡に浮かされた気の触れた男か」と顔をしかめ、忌々しげにその手を乱暴に振り払った。村では、新月の夜に「うつろな者」が一時的に正気を取り戻す現象が「無月の奇跡」と呼ばれ、神の慈悲だと信じる者さえいた。しかし、その結果は決まって、このような意味不明な狂乱か、あるいは自ら命を絶つという結末であった。


 ​掴むものを失った源三の視線は、再び虚空をさまよい始めた。恐怖に歪んでいた顔から急速に表情が抜け落ち、眼光は輝きを失い、再びあの生ける屍のそれへと戻っていく。彼は、糸の切れた人形のように前のめりに崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。


 ​その力なく開かれた手から、ことり、と乾いた音がして何かが滑り落ちた。それは、この湿っぽい夏の夜にはおよそ不似合いな、冷気を放つ小さな氷の塊であった。


 ​源三の最後の言葉は、誰に聞かれるでもなく、斎渦村の不穏な闇の中へと、まるで吸い込まれるように消えていった。それは、これからこの村を覆い尽くす、緩やかで、しかし抗いようのない破滅の、最初の告白であった。

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