第二章:帝都の光と影、英傑の葛藤
第5話:光の統治、民の叫びに応えよ
洛陽からの苦い撤退から数日、俺は献帝を伴い、幽州に近い安全な都市へと拠点を移していた。あの夜の惨状が脳裏に焼き付いて離れない。董卓の猛威、そして何より、俺の慢心が招いた部隊の損害。多くの兵を失ったわけではないが、完璧な未来予測に頼りきっていた自分への戒めとして、その痛みは深く心に刻まれていた。
会議室には、趙雲と、この公孫瓚に古くから仕える幕僚たちが集まっていた。彼らの顔には、疲労と、洛陽での敗北に対する悔しさが滲んでいる。
「殿、今回は、まことに悔しき結果となりました。董卓め……」
幕僚の一人が、拳を握りしめながら言った。
「私の見通しが甘かった。董卓は、私が想像していた以上に狡猾だった」
俺は、静かに言った。自分の非を認めるのは、転生者としてのプライドが傷つく。だが、ここで強がっても意味がない。その言葉は、幕僚たちの緊張をわずかに和らげたように見えた。
「しかし、殿は陛下をお救いになられました。それは何よりも大きな功績にございます!」
趙雲が、力強く俺をかばった。彼の瞳には、俺への変わらぬ信頼と、純粋な喜びが宿っている。その言葉は、凍てついた心を温める。趙雲がそばにいてくれることが、今の俺にとってどれほどの支えになるか、痛感した。
「うむ。陛下の身柄を確保できたのは大きい。これで我らには、天下に号令する大義がある」
俺は頷いた。しかし、大義だけでは民は救えない。実際に、洛陽の民は今も董卓の暴政に苦しんでいる。そして、この洛陽周辺にも、戦火を逃れてきた難民が溢れかえっていた。彼らは飢え、疫病に脅かされている。
「我々は今、この洛陽周辺の民の心をつかまねばならない」
俺は、卓に広げた地図を指さした。荒廃した洛陽から逃れてきた難民は、周辺の村々に溢れていた。彼らを救い、この地を安定させることこそが、俺の「善政」の第一歩だ。それは、先の敗北で痛感した、理想だけでは足りない現実への対処でもあった。
「まずは、食料の確保と衛生管理の徹底だ。周辺の安全な村々を把握し、そこから米や水を運び入れる。そして、医術に長けた者を集め、疫病の発生を防げ」
俺は、矢継ぎ早に指示を出した。現代知識を活かした、衛生的な水の確保や、食料の効率的な配給方法などを具体的に指示する。幕僚たちは、聞き慣れない言葉に戸惑いながらも、その指示が理に適っていることを感じ取ったのか、真剣な顔でメモを取った。
「殿……医術に長けた者と申されましても、これほど広範囲で疫病を防ぐなど……」
幕僚の一人が、戸惑ったように言った。この時代の医術では、広範囲の疫病対策は困難だ。治療はできても、予防という概念が希薄なのだ。
「簡単なことだ。まずは清潔にすることからだ。安全な水を確保し、人々に飲ませる。そして、病人を隔離し、汚物を適切に処理する。さらに、食料は煮沸してから与えるように徹底せよ」
俺は、当時としては革新的な衛生知識を教えた。手を洗い、糞尿を埋め、水を煮沸する。現代では当たり前のことが、この時代では画期的なことだった。幕僚たちは半信半疑の顔をしていたが、俺の言葉に迷いがないため、命令通りに実行に移した。公孫瓚という立場を利用して、彼らに指示を徹底させる。
その指示は、すぐに効果を現した。
俺たちの拠点となった地域では、日を追うごとに民の顔に生気が戻っていった。飢えは収まり、疫病の発生も劇的に減少した。兵士たちも、民衆への略奪を厳禁され、むしろ積極的に救援活動に参加したため、民からの信頼は厚い。白馬義従の兵士たちが、畑を耕したり、井戸を掘ったりする姿は、この乱世においては異様とも言える光景だった。
「殿……これほどの善政を、私はかつて見たことがございませぬ」
趙雲が、民の笑顔を見つめながら、感動したように言った。彼の瞳には、純粋な喜びが宿っていた。
「私の知る『未来』では、このようなやり方は存在しない。しかし、殿はそれを可能にした」
趙雲の言葉に、俺は胸を張った。これが、俺の転生の意義だ。劉備が掲げる“義”は、時に民の犠牲を厭わぬ、武力による漢室再興を優先しがちだ。だが、俺が目指す“善政”は、一人でも多くの民を救い、その生活を直接的に豊かにすることだ。その違いが、俺の強みとなる。
公孫瓚の統治が、周囲の諸侯にも知れ渡り始めた。
「公孫伯珪は、天子を擁しただけでなく、洛陽周辺の民心を掌握したというではないか!」
「彼の治める地は、乱世にあって、まるで別天地のようだとか」
各地の群雄が、驚きと警戒の声を上げた。特に、洛陽を奪われた董卓は、その報せに激怒し、周辺地域へのさらなる略奪を命じたという。しかし、その残虐な行為が、かえって公孫瓚の善政を際立たせる結果となった。董卓の暴政と俺の善政。その明確な対比が、民衆の目に公孫瓚を「救世主」と映らせた。
ある日、献帝が俺を呼び出した。献帝は、いまだ怯えを隠せない様子だったが、顔色には以前よりも生気が戻っていた。
「公孫将軍……そなたの治世は、朕(ちん)の知る限り、未だかつてない清らかさである」
献帝は、病弱な体を起こし、俺に深々と頭を下げた。その細い指が、わずかに震えている。
「……朕は、漢の末裔でありながら、もはや何の力も持たぬ。民を救う手立てもない。そなたが羨ましい……いや、忌ましいほどに。」
献帝は、そう呟くと、自嘲するように目を伏せた。彼の心には、皇帝としての無力感と、俺への複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。だが、その一言は、俺の胸に重く響いた。彼もまた、この乱世の被害者なのだ。
「陛下、私に、その資格があるのならば」
俺は、献帝の前に片膝をつき、誓った。それは、帝への忠誠であると同時に、俺自身の「過去の代償」への誓いでもあった。
外では、訓練を終えた白馬義従の兵たちが、夕日を浴びて輝いていた。白馬のたてがみが、太陽の光を受けて眩く輝く。それは、民の希望を乗せた、新たな時代の幕開けを告げるかのように見えた。
「おい、聞いたか?あの白馬の軍は、畑を荒らすどころか、耕していったのだぞ……こんなこと、あの董将軍の兵にできるものか」
「ああ、病に倒れた俺の爺さんも、あの兵士たちに連れて行ってもらったら、あっという間に元気になったってよ!公孫様は、まさしく天からの使いだ!」
そんな市井の声が、風に乗って俺の耳に届いた。民の笑顔が、俺の疲れた心を癒やしていく。
趙雲は、その民の声に耳を傾けながら、静かに佇んでいた。彼の顔には、安堵と喜びが浮かんでいる。だが、ふと、その瞳の奥に、微かな陰りがよぎったように見えた。
(……この殿がもし、義ではなく力のみに傾けば、それは董卓と何が違うのだ?)
趙雲は、一瞬、公孫瓚の背中に視線を向け、再び民の方へと目を戻した。
この洛陽の地で、俺は「光の統治」の第一歩を踏み出したのだ。それは、武力だけでは成し得ない、民の心に深く根ざす覇道への確かな一歩だった。
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