第15話 聖女の慈悲
ピシュンッ、という軽い音を最後に、俺とセレスティーナを包んでいたのは完全な静寂だった。
先ほどまでの黴と腐臭に満ちた湿原とはうって変わり、澄んだ空気と木々の香りが鼻腔をくすぐる。
俺が転移先に選んだのは、次の狩り場として目星をつけていた〈エルフの森〉近辺にある小さな湖の畔だった。
月光が湖面を照らし、幻想的な風景を作り出している。
RTAのチャートを組む上で、安全かつ効率的な休息地点の確保は基本中の基本だ。
「……こ、ここは……?」
俺に手を引かれたままセレスティーナが呆然と呟いた。
一瞬で戦場からこの場所に移動したという現実が、まだ彼女の頭の中で処理しきれていないのだろう。
その翠色の瞳は恐怖と混乱で揺れ動いている。
俺は彼女の手を離すと、懐から一本の小瓶を取り出し無造作に投げ渡した。
「えっ……きゃっ」
彼女は慌ててそれを受け止める。
中には青く澄んだ液体が満たされていた。
最高級の〈ハイ・マナポーション〉だ。
「まず、それを飲め。枯渇した魔力を回復させろ。それがお前への最初の命令だ」
「……めいれい……?」
「そうだ。俺はお前を俺のレベリング効率を最大化するための〈リソース〉として確保した。リソースは常に最高のパフォーマンスを発揮できる状態でなければならない。座って、回復に専念しろ」
俺の言葉には気遣いも優しさもない。
ただ、機械のメンテナンスを指示するような無機質な響きだけがあったはずだ。
セレスティーナは俺の顔とポーションを交互に見て何か言いたそうに唇を震わせた。
彼女にしてみれば、虐待されていた主人から、今度は得体の知れない怪物の所有物にされたのだ。
その心中は複雑だろう。
だが、彼女は結局何も言わず、おずおずとポーションの栓を開け、その中身をゆっくりと飲み干した。
ポーションの効果は絶大だった。
彼女の青白かった顔に、みるみる血の気が戻っていく。
体内の魔力が回復していき、同時に体調も回復していったのだ。
しばらくして彼女の魔力が七割方回復したのを見計らい、俺は本題を切り出した。
「さて、第二の命令だ。これからお前の無駄だらけの戦闘思考を矯正する」
「……え? せんとう、しこう……?」
「そうだ。まず、先ほどのヒュドラ戦。お前の〈ヒール〉の使い方は非効率の極みだった」
俺はまるで詰将棋の盤面を解説するように、淡々とロジカルに彼女の欠点を指摘し始めた。
「お前は軽傷を負った前衛の騎士に貴重な魔力を浪費していた。結果、本当に防御障壁が必要な場面で魔力切れを起こす。優先順位の付け方が根本的に間違っている」
「で、でも、仲間が傷ついていたら癒すのが治癒師の……」
「仲間ではない。ただの肉壁だ」
俺は彼女の感傷的な反論を一言で切り捨てた。
「お前の役割はパーティーの生命線を維持すること。そのためには、個人の小さな傷より致命傷になり得る攻撃を防ぐための魔力を温存するのが最適解だ。そもそも、お前は自分自身の才能を全く理解していない」
「わたしの……才能?」
「そうだ。お前の隠しギフト【聖女の慈悲】。あれは対象の負傷度合いとお前の治癒への『集中力』に応じて、回復魔法の魔力消費を劇的に軽減する効果がある。だが、お前はただ闇雲に魔法を使い、その恩恵をドブに捨てていた」
俺の言葉にセレスティーナは息を呑んだ。
その顔には「なぜ、あなたが私のギフトのことを……?」という驚愕が、ありありと浮かんでいる。
「ど、どうして、それを……。あれは、わたしの家の者にしか伝わっていないはず……」
「俺が知る必要のあることは全て知っている。それだけだ」
俺は彼女の疑問には答えず、懐からミスリルの短剣を取り出すと、ためらいなく自分の左腕を浅く切りつけた。
赤い血が、じわりと滲む。
「ひっ……! な、何を!?」
「実践訓練だ。この傷を癒せ。だが、条件がある。第一に、傷口の治癒に必要最低限の魔力だけを使うこと。第二に、魔力の流れを、お前の指先から俺の傷口まで一本の糸のように意識して集中させること。やってみろ」
セレスティーナは戸惑いながらも、俺の命令に従った。
彼女は俺の腕にそっと手を触れると、目を閉じ、祈るように集中し始めた。
「……〈ヒール〉」
やがて、彼女の指先から放たれた光は、以前のような拡散したものではなく、一本の凝縮された光の糸となって俺の傷口に吸い込まれていった。
すると、どうだ。
傷は瞬く間に塞がり跡形もなく消え去った。
「……あ……」
セレスティーナ自身が驚きの声を上げた。
彼女は自分の掌を信じられないもののように見つめている。
「今のが……わたしの、本当の……?」
「そうだ。今の〈ヒール〉の魔力消費はお前が以前使っていたものの一〇分の一以下。威力は三倍以上。これが、お前の本来の力だ」
そう伝えながら俺は思考を巡らす。
(ふむ。学習能力は高いな。このリソースへの初期投資は、すぐに回収できるだろう)
俺が内心で満足していると、セレスティーナは顔を上げて俺のことを見ていた。
その瞳から先ほどまでの怯えは少しだけ薄れていた。
代わりに宿っていたのは、畏怖と、そして自分の未知なる可能性への扉を開いた俺という存在に対する、強い好奇心の光だった。
彼女はまだ俺が何者なのか、何が目的なのか、何も知らない。
だが、この瞬間、彼女の中で俺という存在が「得体の知れない怪物」から「規格外の師」へと、わずかに変化を始めたことだけは確かだった。
俺はそんな彼女の心情の変化には気づかないまま、次の育成チャートを脳内で組み立て始めるのだった。
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