第八幕:火のそばにいるために
夕暮れの職員室には、ひと気がなかった。
白いカーテンがゆるく揺れて、外から吹く春の風が資料の端をそっとめくる。
デスクに並んだ出席簿を整理する手を止め、紗里はふと窓の外を見た。
校庭にはもう生徒の姿はない。
けれど、胸の奥にはまだ、午前中の凛愛のまっすぐな視線が残っていた。
ノックの音がする。
「……どうぞ」
現れたのは、制服のままの凛愛だった。
少し息を弾ませたまま、真っ直ぐに紗里の元へ歩いてくる。
「紗里先生。少しだけ、お時間いただけますか」
その声は落ち着いていたが、どこか必死で。
何か、今この瞬間にしか言えないことを抱えているようだった。
「もちろん。廊下に出ましょうか」
ふたりは人気のない廊下へ出た。
夕日が廊下のタイルを染め、足元にふたつの影が並ぶ。
しばらく、沈黙。
先に口を開いたのは凛愛だった。
「……今日のこと、私……すこし言いすぎたと思っています。
ごめんなさい」
「ううん、いいのよ。むしろ、ちゃんと話してくれて、ありがとう」
そう応えた紗里の声も、どこか優しさと迷いを含んでいた。
凛愛は続ける。
「先生の言っていたこと、頭ではわかってるんです。
でも、心が追いつかないんです……」
一歩、踏み出して、
手を胸の前に重ねるようにして、彼女は言った。
「先生のそばにいないと、私……うまく呼吸ができない。
怖くて、すぐに、あの“終わり”に引きずられてしまう気がして……
誰の声も届かない場所で、独りぼっちになりそうで……」
目に光が滲んでいる。
それでも、泣くことなく、まっすぐに立っていた。
「だから、近づきすぎだって言われても、離れろって言われても、
どうしても、それだけは、できなくて……」
紗里は、しばらく何も言わなかった。
そして、小さく目を伏せたあと、ふっと笑った。
「……あなたは、昔と何も変わらないのね」
その言葉に、凛愛の目がゆっくりと揺れる。
紗里はゆっくりと口を開いた。
「本当は、ずっと言うつもりはなかったの。
でも……今日、あなたの言葉を聞いて、決めた」
顔を上げる。
まっすぐに、凛愛を見る。
「私も、転生してきたのよ。……前の名前は、セリア。あなたの、副団長だった」
風が止まったような一瞬の沈黙。
凛愛は、目を大きく見開いたまま、言葉を失った。
「……うそ……」
かすれた声で、そう呟く。
紗里は微笑む。
「嘘なんて、つかないわよ。……あなたを守れなくて、
何もできなくて、最後まで言葉をかけられなかった。
あの夜、あなたを囲炉裏に置いて去ったこと、ずっと後悔してた」
凛愛の頬に、涙が一粒落ちた。
言葉もなく、ただ、もう一歩だけ近づいて――紗里に身を寄せる。
抱きしめるでもなく、しがみつくでもなく。
ただ、寄り添う。
「……そうだったんですね……」
「ええ。だから、あなたを責めたくなんてなかった。
ただ、近くにいるだけでいい。遠くてもいい。
でも……今日は、思い知ったの。
やっぱり私は、あなたのそばで――火のそばで、生きたいって」
紗里は、小さく笑った。
「……もう、白旗よ。
私にできるのは、あなたたちを見守ることだけ。
でも、それなら喜んで、最後まで見届けるわ」
凛愛は、こくりと頷いて――そっと、紗里の胸に顔を埋めた。
昔と同じ、火の前で見せたような表情で。
ふたりの影が、夕陽の中に寄り添って溶けていく。
少し離れた廊下の先で、真央が静かにその様子を見ていた。
何も言わず、ただ、あたたかく――目を細めて、微笑んでいた。
それは、焼くための火ではない。
ただ、照らすためにそばにある火。
この世界でも、もう一度、火を囲むように生きていく。
―――完
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