第四幕:蜜月の残響
日は傾きかけていた。
神都の空に、柔らかな夕焼けの橙がゆっくりと広がっていく。
リリアの執務室。
昼間の喧噪も、書類の音も、今はすべて片付いていた。
机の上には、片付けきれなかった一冊の手帳と、冷めた紅茶。
「……おつかれさまです」
セリアが小さく頭を下げて退室していった扉が、静かに閉じる。
リリアは、ゆっくりと一人きりの部屋に息を吐いた。
肩の力を抜いたとき、
何かが、胸の奥からこぼれ出そうになる。
それは、ため息でも、声でも、祈りでもなかった。
思い出という名前の、静かな疼きだった。
紅茶のカップを持ち上げる。
ぬるくなった液体はもう、味も香りも薄れていたけれど、
リュシアと囲んだ囲炉裏の記憶だけは、まだ熱を持っていた。
「……あの人なら、どう言うかな……」
ひとりごとのように、リリアはぽつりと呟いた。
それから、ふらりと立ち上がる。
足が自然と向かうのは、部屋の隅――
クローゼット。
取っ手に手をかけ、静かに扉を開けると、
そこには今も変わらず、一着の赤いドレスが掛けられていた。
深紅のビロード。
魔王リュシアが、たまに羽織っていた、
どこかくすぐったくなるような派手さを持った一着。
触れることさえためらわれたその衣に、
リリアはゆっくりと手を伸ばし――
ぎゅっと、顔をうずめた。
香りはもう残っていない。
でも、あたたかさだけがまだ、そこにあった気がした。
「……これで、よかったんだよね?」
問いは小さく、震えていた。
強く問いただすのではなく、誰かに許しを乞うように。
「あなたが……残してくれた火を……
ちゃんと……守ってるつもり、なんだけど……」
声がだんだんと歪んでいく。
唇が震えて、言葉が途中で喉に詰まる。
「……あなたが、いてくれたら……
もっと……いっぱい、話したいことがあったのに……
わたし、ほんとは、もっと甘えたかったのに……」
涙が落ちた。
ドレスの肩口に、静かに染みていく。
それは、燃えずに残った火。
灰にもならず、光にもならなかった、名もない想い。
こらえていたものが決壊するように、
リリアは声を上げずに、ただ震えて泣いた。
子どものように、少女のように、
そして、大人になってしまった自分を受け入れきれずに。
「……どうして……どうして、いないの……」
ドレスに頬をすり寄せるたび、
そこにリュシアの体温があったような気がして――
その幻を、抱きしめるようにして、目を閉じる。
やがて――
カーテンが、春の風にふわりと揺れた。
リリアは、長い長い時間をかけて、
ようやく、カップに残っていた紅茶を一口だけ飲んだ。
苦かった。
でも、その苦さは、どこかで知っていた味だった。
火を守ることは、時に熱く、時に苦く、
それでも、人の夜を照らすという約束を含んでいる。
顔を上げる。
涙の痕は乾いていないけれど、その瞳は前を向いていた。
「……行こう。火はまだ、待ってるから」
彼女はもう一度、ドレスに触れてから、
クローゼットの扉をそっと閉めた。
その手は、小さな祈りのように静かだった。
***
机の上。
冷めた紅茶のそばに置かれていた一輪の赤い花が、
最後の夕陽を受けて、ほんのすこしだけ揺れた。
その火は、誰も焼かない。
けれど確かに、今日も――誰かの夜を照らしている。
―――『鉄球と蜜月』 完。
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