第三幕:とろける心に、触れるということ
夕方、リリアは町のはずれにある井戸の前に立っていた。
鉄球を下ろし、水筒に水を汲もうとしたそのとき――
ちょろ、という水音とともに、声がした。
「あれ? お姉さん、人間?」
声の主は、井戸の向かい側にいた。
半透明の身体。ぷにぷにと揺れる輪郭。
身体の中に光るコアのようなものが浮かんでいて、透けて見える。
――スライム族の少女だった。
(わっ……!)
リリアは一瞬、言葉を失った。
教典では、「スライムは人間を溶かす危険な存在」「触れてはならない魔性の泥」だと教わっていた。
そのイメージが、無意識に彼女の身体をこわばらせる。
少女は、そんな様子を見ても気にせず、にこっと笑った。
「びっくりさせちゃった? ごめんね。慣れてないよね、人間の人って」
「えっ、い、いや、その……ちがっ……」
否定しようとしたのに、言葉が詰まった。
否定できない。だって、ほんの一瞬、「怖い」と思ってしまったから。
少女は、あっけらかんとした調子で話し続ける。
「よく言われるの。『見た目が気持ち悪い』とか、『触らないで』とか。
同じ魔族の子にも言われたこと、あるよ?」
その言葉が、まるで突き刺さるようにリリアの胸に降ってきた。
“同じ魔族の子にも”。
つまり、魔族の中にも差別はあるということ。
スライムであるというだけで、彼女は何度も「境界線」の外に置かれてきた。
そして――自分も、同じだった。
「……ごめんなさい……!」
「えっ?」
「わたし……怖いって……思いました。無意識に。
悪気もなかった。……でも、そういうのが、いちばん悪いんです……!」
リリアは頭を下げた。
ごつんと、鉄球が揺れる音がした。
「あなたに、何の罪もないのに……私……っ、
“魔族は人間じゃない”って、教えられてきて……
そのまま、何も考えずに、ずっと……ずっと……!」
少女は、目を瞬かせてから――ふふ、と小さく笑った。
「ありがと。素直に言ってくれる人、あんまりいないから」
「えっ……?」
「差別って、“そんなつもりじゃなかった”って顔する人が一番こわいんだよ。
でもお姉さん、ちゃんと自分で気づいて、ごめんって言えた。
それって、すごいことだと思う」
リリアは、もう一度、顔を上げた。
スライム娘は、にこにこと笑っていた。
揺れる身体も、透けて見える内側も、ぜんぶ堂々としていて。
「わたしね、町の清掃係してるの。
細かい隙間にも入れるし、火も通さなくていいし、便利屋って言われてるよ」
「……すごい……」
「うん、でも“汚れたら自分で掃除しろ”って、言われるの。……人間にも、魔族にもね」
少女の声は明るかったけれど、どこか、にじむものがあった。
それが、リリアの心を打った。
彼女の存在が、“誰かの中の境界”を溶かしている。
それは、魔法でも祈りでもない。
ただ、誇りを持って、生きていることそのものだった。
リリアは、そっと手を伸ばしかけ――少し戸惑ってから、もう一度息を吸って、こう言った。
「……触っても、いいですか?」
「え? うん、もちろん!」
リリアの指が、少女の手に触れた。
やわらかくて、つめたくて、でもやさしい感触だった。
(……怖くなんか、なかった)
(あんなに、“触れちゃいけない”って言われてたのに……)
「ありがとう……。私、ちゃんと、変わっていきたい。
教えられたとおりじゃなくて、見たまま、感じたままで……」
「ならきっと、だいじょうぶ。
お姉さんの中にある“固いとこ”、少しずつ溶けてるもん」
「……うん……!」
少女は、リリアの手に、小さなゼリー状のお菓子を渡した。
「これ、わたしの手づくり! “スライムぷるぷる寒天”!」
「な、なまえが強いっ!?」
「お姉さんみたいにがんばってる子にだけあげてるの。特製なんだよー?」
「……っ、ありがとう……」
リリアは、その日いちばんの笑顔を浮かべて、菓子を両手で受け取った。
ぷるぷると揺れる寒天は、きっと心の奥まで、とろけさせてくれる。
――誰かを“異物”として見る目線。
それは、自分の内側にあるものだった。
そしてその目を、まっすぐ正してくれたのは――
透明で、まっすぐで、やさしいスライムの少女だった。
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