第4章 ヒトとヒトならざる者

第一幕:扉の向こうにある生活

 ごとん。


 鉄球の音が、床に響いた。


 今日のリリアは、修道服ではない。

 魔王リュシアが仕立ててくれた、“動きやすくて軽い”薄手の旅装束。


 背中には、かつては誇りだった、でも今は“問い”になった武器――鉄球。


 扉の前で、リリアは息を吸い込む。


(……魔族の町、ね……)


 教会にいた頃、何度となく耳にした言葉。

 “悪しき者どもの集落”。“理性なき混沌”。“魔の巣窟”。


 けれど、いま扉の向こうにあるのは――そんな恐ろしいものじゃない。

 少なくとも、城の窓から見下ろした町並みは、どこにでもある市場のように見えた。


「緊張してる?」


 後ろからかけられた声に、リリアはびくっと振り返る。


 黒と赤のドレスに身を包んだ魔王リュシアが、やわらかく笑っていた。


「そ、そりゃ緊張しますよ! “敵の中に突っ込め”って言われたようなもんですもん!」


「ふふ、今日は“おつかい”って言ったでしょう? 城下町にある薬草店へ、“このリスト”のとおりに買ってくるだけ」


「買い物……ですか……?」


「ええ。あとは、見たいものを見て、感じたことを持ち帰ってくれれば」


 リリアはリストを受け取った。そこには、ハーブや香油などの日用品が丁寧な字で書かれていた。

 最後にひとこと――「焦らず、無理せず、リリアらしく」とあった。


「……なにこれ、めっちゃ甘やかしメモじゃないですか」


「ご褒美予告よ」


「予告すんなぁぁぁ……!」


 わざとらしく嘆くように肩を落としてから、リリアはしっかりと鉄球の柄を握り直した。


「じゃあ、行ってきます。……任務、開始、です」


「気をつけて。あなたのその“目”で、世界を見てきて」


 魔王の言葉を背に、リリアは扉を開けた。


 ***


 魔族の町は――思っていたより、ずっと静かだった。


 活気はある。店が立ち並び、人々(種族はバラバラ)が行き交い、子どもが駆け回っている。

 でもそれは、かつてリリアが訪れたことのある人間の市場と、何ひとつ変わらない光景だった。


「……魔族って、もっとこう……尖ってて、暴れてて、毒とか吐いてくるイメージだったんだけど……」


 リリアは思わず、口に出してからハッとして周囲を見た。


 けれど、誰も気にしていないようだった。


 リリアのことを見て「わっ、聖女だ!」と逃げる者もいなければ、にらんでくる者もいない。


 それどころか、


「お嬢ちゃん、野菜いらんかね?」


「ねーちゃん、それ重そうだなー、手押し車貸そうか?」


 声をかけてきたのは、獣人の商人とスライム体質の青年だった。


 ふたりとも笑っていた。敵意も、恐怖もない。


「……なに、これ……」


 教典では、“魔族は人間を狙うもの”。

 “狡猾に近づき、油断したところで牙をむく”。


 でもいま目の前にいるのは、ただの“町の人たち”。


 笑って、働いて、子どもに声をかけ、道端の花に水をやっている。


 そこに“魔”の影は、なかった。


 ***


 昼頃。リリアは、リストにあった薬草屋の店先で、品物を選んでいた。


 ガラス瓶に入った粉末ハーブ。精油。軟膏。消毒用の樹液。


「あら、よくわかってるわね。これ全部、今日入荷したばかりよ」


 声をかけてきたのは、背の曲がった老獣人の女性だった。

 年齢はリリアの三倍はありそう。灰色の毛と、くりくりした目が印象的。


「あなた、魔王様のおつかい?」


「えっ、えっと……そう、です」


「なるほどねぇ。あの子、“あったかい紅茶を淹れてくれる子なのよ”って、自慢してたもの」


「そ、そんな話を!?!?」


「ふふ、あんたの顔、よく赤くなるわねぇ。かわいいわ」


 リリアは口元を押さえながらうつむいた。


 照れくさい。でも、それ以上に不思議な気持ちだった。


(こんなふうに、普通に話してくれるんだ……)


(魔族なのに。敵なのに。――いや、そもそも、“敵”って……)


「あなた、“聖女”だったんでしょう?」


 不意に、老獣人がそう尋ねた。


 リリアは一瞬、答えるか迷った。


 けれど、目をそらさずに頷いた。


「はい。……まだ、そう呼ばれることが多いです。

 でも今は、自分がそれにふさわしいのか、よくわかりません」


「ふさわしいかどうかなんて、誰もわかりゃしないわよ。

 でも、“わからない”って思える子は、きっと優しい子よ」


 その一言が、胸にじんわりと染み込んでくる。


 リリアは、はにかむように笑って言った。


「……ありがとうございます」


 その笑顔が、ほんの少し、“祈り”の形に似ていた。

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