5.思いもかけない知らせ
朝から許容量を超える食事をとっているせいか、昼になっても空腹にすらならない。
だが、万が一にもあの男が聖堂に呼びに来ても困る。
そんな思いから、人のいない聖堂を出て手を洗ってからキッチンへ向かった。
「あぁ、白夜。昼は軽くしといたぞ、どうせ食べきれないとか言うだろう、お前?」
「――それはどうも」
テーブルを見ると、ハムときゅうりのサンドイッチが置いてある。
「コーンスープは?」
「……少しだけ、いただきます」
躊躇いつつも応じた。ゴリ押しされてマグカップいっぱいのスープを出されても困る。だったら最初から要求量を伝えた方がいいと学んだ。
俺の反応に男は気を良くしたのか、カップに半分程……控え目な量のスープを出してくれた。
椅子に腰かけて祈りを捧げ、サンドイッチを一つ手に取る。
合間合間にコーンスープで何とか流し込むありさまだったが。
俺の向かいに座っている男は、よほどの健啖家なのか、朝もしっかり食べたのにサンドイッチをむしゃむしゃ食べている。
……よく食べるな。
そういえばいつの間にか炊飯器なんて買って来ているが、この男、金銭的には余裕があるのか?
くだんのベッドだって決して安物ではないだろうし、買ってきたものだろう纏っている衣服も、カジュアルな見た目にも関わらず質は良いように見えた。
金持ち狂人の暇潰しに付き合わされているのだろうか、と内心でため息を吐いた。
なんとかサンドイッチ一つを食べ終え、食後の祈りを詰まりながら済ませ、ゆっくりと体を動かすように意識して洗面所へ向かった。急に動いたら吐きそうだったからだ。
なんとか辿り着いた洗面所で歯を磨いてから、よろよろと聖堂に戻る。
長椅子に腰を下ろす。
今跪いたら、吐く。
その危機感から、普段は信徒のための場所に一旦座って小一時間ばかり過ごす羽目になった。
夕刻、祈りを捧げていた時に、一人の顔馴染みの信徒がやって来た。
「神父様、こんにちは」
声をかけられて身を起こすと、意識して表情を緩める。
「こんにちは、小野寺さん」
挨拶をすると、小野寺さん――近所に住んでいる主婦の方だ――は、いつもより心持ちゆっくりと歩んでくる。
ん? どうしたんだろうか?
疑問を面に出さず、小野寺さんがやってくるまで主祭壇の前で待った。
俺の前までやってきた彼女は、嬉しそうに笑いながら口を開いた。
「神父様、ようやく祈りが神様に届いたんです」
――は?
突然の言葉に、一瞬反応が遅れるが、不意に思い出した。
そうだ、彼女はたびたび口にしていた。
中々子供を授からない、と。
ということは。
「今日、お医者様に診ていただいて、お腹に赤ちゃんが、と」
「それはおめでとうございます」
にこやかに伝えると、小野寺さんを長椅子に座らせた。
さすがに妊婦さんを立たせておくわけにはいかないだろう。
体を気遣いながら話す小野寺さんの言葉を聞き、空々しい神の祝福などを述べる。
産めよ増やせよ、神の教えだ。結構なことだな。
ぼんやりとそんなことを考えつつも、小野寺さんが喜びに溢れた様子で話しているのを聞いていた。
「本当に……ずっと待ち望んでいた赤ちゃんが、一度に二人もなんて」
ザッ、と鳥肌が立った。
双子……?
「双子なんですか、これはお母さんは大変ですね」
「えぇ、それでも神様に授けていただいた子達ですもの」
コロコロと笑う小野寺さんに悟られないように、必死で取り繕う。
バレていないことを願うばかりだ。
「これからご主人に?」
「えぇ、真っ先に神様にご報告をと思いましたから」
そう言って、小野寺さんはその場で手を組んで目を閉じて祈りを捧げると、ホッとしたように笑った。
「これからはミサへも毎回来るというわけにも行かなくなるでしょうけれど」
「そればかりが信仰の形ではありませんよ。お体を労って、元気なお子さんを迎えてください」
俺の愛想たっぷりな言葉に、小野寺さんは立ち上がった。
「ありがとうございます、神父様。本当に神様は見ておられるのですね」
小さく頭を下げて「それでは」と言い残して彼女は聖堂を出ていった。
――まぁ、これも仕事だからな。
背を見送って息を吐くと、微かに電話の鳴る音が聞こえた。
「ん?」
さすがにあの狂人が勝手に電話に出ることはないだろうが、万が一ということがある。
俺は慌てて聖堂を出ると、電話のあるキッチン前の廊下へと急いだ。
しつこく鳴り続ける電話に飛びつくようにして受話器を取ると、落ち着いた声をつくろった。
「もしも」
「白夜!」
応答を待たず、開口一番、名前を呼ばれる。
それで相手が誰だかわかった。
「……母さん、何?」
母親だ。電話をかけてくるなんて滅多にないというのに、どうしたんだろうか?
電話の向こうの母さんは、普段のおっとりした様子とはまるで違う、興奮した口調だった。
「何って、何言ってるの! 極夜、あなたのところにいるんでしょう!?」
――は?
いま、なんて……?
「母さん、何のこと?」
口から勝手に零れていた言葉に、母さんはまくしたてる様に続けた。
「午前中に電話があったのよ! 大学を出てから就職もしないでフラッといなくなったあの子が、今はあなたのいる教会に身を寄せているんですって?」
ちょっ、と……待ってくれ……母さんは、何を言っているんだ?
「極夜、やっと戻って来て落ち着く気になったのね……もう、お母さんがどれだけ心配したか……それより、極夜に聞いたわよ、あなたろくに食事も取っていなかったみたいじゃないの。極夜がご飯を作って食べさせてるって」
「ごめん、母さん……何の話してるのか……」
俺が口を挟むと、母さんは一瞬押し黙って怪訝そうな声で言った。
「白夜、あなたどうしたの? 大好きな双子のお兄ちゃんじゃないの。極夜がいなくなった後、一番うろたえていたの、あなたでしょう?」
「は……?」
どろりと脳裏が赤く染まる。
離れていく小さな影が、声が。
「本当に困ったお兄ちゃんね……白夜は神様にお仕えするっていう立派なお勤めをしているのに、どこをフラフラしていたのか、五年も経ってからひょっこり戻って来て」
なにを……なにをいっている……?
いない、双子の兄なんていない。
母さんはあの極夜と名乗る男に騙されているのか?
何か催眠術みたいな……いや、馬鹿げた話だと思うが、そうとしか考えられなかった。
「母さん……その、俺は一人っ子だよ……極夜なんて……」
「もう、お兄ちゃんに置き去りにされたこと、まだ拗ねてるの? とにかく白夜、お休みを頂けたら極夜と一緒に一度帰ってきなさい。極夜はちゃんとお説教しないとね」
「ちょっと母さん……まっ」
「いいこと、白夜。極夜はしばらく教会に置いてもらうって言ってたから、仲良くしなさいね。お兄ちゃんべったりだった白夜なら心配ないかしらね?」
笑いながら「じゃあね」と言い残して母さんは電話を切ってしまった。
受話器を手にしたまま、呆然と俺は立ち尽くしていた。
嵐の只中にいるような気分だった。
そうだ――状況を整理しよう。
急に教会にやってきた謎の男は、俺の双子の兄を自称し、三冬極夜と名乗った。
強引に教会に住みつき、あれこれと俺の世話を焼いている。
俺は狂人の戯言だと諦めて、男が納得して出ていくまで神の家の責務としてあの男を置いている。
が、状況はここへきて一転した。
母親が、俺には『極夜』という双子の兄がいたと証言した。
極夜は今から五年前、大学卒業と共に姿を消し、今になってひょっこり帰ってきた。
その際に俺が酷くうろたえていたと母親は言うが、当然俺にはそんな記憶はない。
――いくら神父になるまでの記憶が曖昧だとは言え、五年前のことは憶えている。
断言できる、五年前の俺には極夜という双子の兄などいなかった。
じゃあ、なんだ。
母親はやはり、あの男に騙されているのか? 変な言いくるめでもされてありもしない事を真実だと思い込まされているのだろうか?
受話器を持ったまま突っ立っている俺に、不意に声がかかる。
「白夜? 電話、母さんからか?」
「――何をした……」
「ん?」
「母さんを騙して、ありもしない記憶を植え付けてまで俺に近づく理由は……」
男はため息を吐いて、俺から受話器を取り上げて電話に戻すと、ぽんぽん、と俺の背を叩いた。
「最初に言っただろ、お前を助けに未来から来た。それと、騙してはない。辻褄を合わせただけだ」
「辻褄……?」
呟く俺に、男は悪魔のように笑う。
「俺がいなくなったのは今から二十年前だからな、間のことは誤魔化すしかないだろ?」
「――」
言葉が出なかった。
「母さんの記憶を接合するのは簡単だった。やっぱり母親だな、でっち上げて貼り合わせればすぐに戻った」
男はそっと、俺の腰に手を回す。
「お前の記憶は面倒だな、白夜。ここまで拗らせたのは俺のせいだろうけど」
されるがままに男の腕の中に収まる。
何も考えられなかった。
ただ、どろどろと、頭の中が、赤く赤く……。
「考えなくていい、白夜。俺は極夜、お前を助けに来ただけだ。今はそれだけでいい」
「……っ」
息が詰まる。
ぐるぐるぐるぐる、頭の中が、赤く、蕩けて。
そっと背を撫でられる。
懐かしさだけが一気に吹きあがった。
「しらない……しらない……」
「うん、それでいい。今はそれでいいよ、白夜。さぁ、聖堂の戸締りをして、戻っておいで」
諭されるような言葉にこくこくと頷いていた。
分からないけど、体が勝手に動いていた。
そっと離れた体温に、思わず男の服の裾を掴んでいた。
「ぁ……」
「大丈夫だ、俺はもういなくならないから」
その一言に、ストンと力が抜けた。
理由が分からない安堵で、へたり込みそうだった。
髪を梳かすように、サラサラと撫でられた。
「……あ、の……」
「混乱してるんだろ、頭を冷やしたい、違うか?」
ぎこちなく頷くと、男は……極夜は薄く笑った。
「聖堂行って、落ち着いたら戻ってこい。俺は晩飯を作ってるからな」
「は、い……」
辛うじてそれだけ言うと、俺はフラフラと聖堂へと向かっていく。
主祭壇の前に崩れ落ち、呆然と正面に佇む主の像を眺める。
――神なんていない。
そして、同時にいもしない双子の兄がなぜかいる。
それだけしか飲み込めなかった。
聖堂が薄暗くなるまで呆然と主の姿を視界に入れていた俺は、冷えてきたからか、体を大きく震わせて立ち上がった。
ギシギシいう体を何とか動かして、施錠をして回り、あっという間に暗くなった聖堂を後にする。
廊下を歩きながら、眼鏡を外してキャソックのポケットに突っ込み、部屋に戻って部屋着に着替える。クロゼットの中には極夜の服が並んでいた。
「……」
ざわ、と背中が震えた。
部屋を出て、洗面所に行って手を洗い、キッチンへと足を運ぶ。
ふわっと良い匂いがした。
俺の足音に気付いたんだろう、極夜はちらりと振り向いたようだった。
「もうすぐできるぞ、晩飯はグラタンだ」
「そんなに食べ」
「られないって言うだろうから、お前のは小さいグラタン皿で焼いてる」
「それは、どうも……」
いつの間にオーブンが設置されたんだろう。
グラタン皿なんて持ってなかったのに。
色んな思いが渦巻くが、なんだか懐かしい匂いでどうでも良くなった。
電子音と共に焼き上がりが告げられ、極夜が取り出した熱々のグラタンを出してくれる。
「冷まして食べろよ、お前、猫舌なんだから」
「なんで知ってるんですか……」
「そりゃあ、知ってるからだろ」
答えになってない。
混乱を全てため息として吐き出して、手を組んで食前の祈りを口にした。
アーメン、と締め括り、いただきます、と呟いて子供のようにふーふーと冷ましながら食べ始める。
チーズとホワイトソース多めのマカロニグラタン。
これも、子供のころの俺の好きなものだった。
「餌付けでもしているつもりなんですか」
ポツンと零すと、極夜は一瞬動きを止めた。
表情の変化は分からないし、視界に入れられない。
それでも、極夜の声は聞こえた。
「餌付けとは人聞きが悪い、好きなものを食べさせてやりたいだけだ」
酷く優しい響きだった。
俺は小さな一口で一本のマカロニを噛みしめる。
思えば、ここへ現れてからずっと、極夜は子供のころの俺の好物を作り続けていた。
あまりにも色々なことが一日で起きて、俺にも制御できなくなっていたんだろう。
「ありがとう、ございます……」
呟くような礼の言葉に、向かいにいる極夜の纏う空気が弛緩した様な気がした。
「おう、ちゃんと食べきれよ」
「はい……」
もぐ、と再びマカロニを口に運ぶ。
美味しいな……。
ぼんやりとそんなことを考えた。
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