Ⅲ ディラエ湿地
高い木々の枝葉の間から覗けば、空には美しい星々が輝いている。しかし清かな輝きにも、そこにいるだけで服が濡れるほど湿度の高い森の、陰鬱な雰囲気を払拭する効果はなかった。
暑くもないのに首筋を滴っていく汗を、ディーはいかにも面倒そうに手の甲で拭う。
ロズとディーは、王都より北上した辺りにある『ディラエ』と呼ばれる地域の、夜の森の中を前後に並んで進んでいた。王立大学校を訪ね、ミナに幻惑夢蝶捕獲許可の代理申請を願ってから、二日後のことである。
ミナの言っていたとおり、捕獲許可はその日の夜の間に出た。ロズとディーは次の日の朝から、男に手渡された地図で示されていた場所への移動を始め、今日の夕方からディラエの森に足を踏み入れたのだった。
魔物の捕獲は危険が伴う行為である。王立大学校の教授が捕獲許可を取得し、誰か別の者に魔物の捕獲を依頼するということはよくあることであり、この旅にミナは同行していない。
ディーは、一度も振り返ることなく自身の前をずんずんと歩いていくロズの広い背中を見た。
ロズとバディを組んでオアシス消失事件の調査をはじめて、早くも二週間が経過している。二人だけでいることも、余計な会話がほとんどないことにも慣れた。経験豊富で、様々な方面においても隙のないロズだが、特に街を離れてフィールドにいる時のロズの頼もしさは、ディーが今まで出会った人物の中でも群を抜いていた。
ロズの背中には、今日も大きな盾が担がれている。
特殊な金属でできたロズの盾は、丹念な手入れをされている証拠に鈍い独特な光沢を放ちながらも、その表面には大小様々な傷がいくつも見える。それは、いざという時には自らの命を挺してでも仲間を守るというロズの決意が具現化したような存在だった。
そんなロズの後ろ姿を何となしに見ていたディーは、不意に足元を取られて体のバランスを崩す。森全体を覆う土の粘度は高く、一歩ごとに体力をじわじわと奪われていたのだが、ディーが片足を踏み込んだその箇所が一層ぬかるんでいたのである。
「う、お……っ」
小さく声を漏らして、自然と前へつんのめる。と、前を歩いていたロズが振り返り、無言のまま片腕でディーの体を支えた。ロズの手を借りたまま、ディーは深みに嵌った自分の右足を引き抜く。
「すいません、ありがとうございます」
「これだけ地面がぬかるんできたってことは、そろそろ目的地に近いな。湿度はたまらんが、マスクをして備えよう。それと、俺に偽装術をかけてくれ。幻惑夢蝶の棲息域に入るわけだし、何をしなくとも近寄ってくるだろうが、念のためにな」
「わかりました」
体勢を整えたディーは一度深く息を漏らすと、ロズへ向けて両掌を突き出す。ゆっくりと目を閉じ、口の中で呪文を囁く。すると、ぼんやりとした青白い光がディーの掌から放たれ、ロズの体全体を覆う。最後には、ロズの体の中へと吸い込まれるようにして消えていった。他人や魔物の力量を見抜く力が弱い人の目にはよくわからないが、ロズの放つ強者独特のオーラというものが、魔術によって閉じ込められたのである。
ロズは二、三回掌を握ったり開いたりという動きを繰り返してから頷き、荷物からマスクを二つ取り出した。目元に強化ガラスが嵌め込まれ、口元には分厚いフィルターを備えた、顔面を全て覆う形状のガスマスクらしいガスマスクだ。その一つをディーに差し出し、二人は各々己の顔にマスクを装着する。
幻惑夢蝶の生態は実にシンプルだ。縄張りに侵入した対象の生物に、幻覚を引き起こす成分が含まれた鱗粉をふりかけ、近くの沼に誘う。
鱗粉の効力は非常に強い。一度体内に取り込んでしまえば、時間によって自然と幻覚が解けるのを待つしかない上に、呼吸器官と眼球から体内に取り込まれてしまう鱗粉を魔術によって防ぐ方法はない。
しかし、鱗粉を振りかけてくる以外の攻撃はしてこない。
幻惑夢蝶のことが研究されるまでは、当該地域から多くの被害者を出した厄介な魔物であるが、幻惑夢蝶がそこにいるとわかっているのであれば、対策は容易だ。今ロズとディーの二人がしたように、ガスマスクによって物理的に遮断すればそれだけで事足りる。
マスクが隙間なく装着できたことを確かめると、ロズは背中に担いでいた盾を左腕に構えた。
「偽装術をかけたことによって、他の魔物も近寄ってくるようになるかもしれない。注意して進むぞ」
マスク越しのロズの声はくぐもっているが、言っている内容は問題なく聞き取れる。ディーは背筋を伸ばして頷きで返事をすると、踵を返したロズの後について再び歩き出した。
黙々と歩き続け、周囲に変化が生じたのは、それから僅か十分後のことだった。
マスクによって狭まっている視界の端に、何かが過った。ディーはそちらに顔ごと向けて、空を飛ぶ存在を捉える。幻惑夢蝶がどんな外見をしているか知らなかったディーだが、一目でそれとわかった。
大きさも形状も普通の蝶と変わりない姿をしているが、翅をひらひらと動かし優雅に飛ぶ姿は実に妖艶で美しい。発光しているというわけではないのに、不思議と夜闇に浮かび上がるような、深く鮮やかな青色をしている。翅から零れ落ちる微細な青い鱗粉が幻惑夢蝶の飛行の軌跡を描く様も相まって、実に幻想的な姿だ。
「ロズさん、これが幻惑夢蝶ですよね。捕まえますか?」
「いや、一匹だけ捕獲したところで意味はない。沼の近くではもっと大きな群れになっているはずだ。こいつが誘ってくるままに進むぞ」
ロズの言うとおり、幻惑夢蝶は二人の頭上をあちらこちらに飛びながらも、まるで森の奥へと誘っているような動き方をしていた。
幻惑夢蝶の姿を視界にとらえながら、相変わらずロズが先導し、ディーがその後に続く。気がつけば、初めは一匹しかいなかったはずの幻惑夢蝶は二匹に、三匹にと、徐々にその数を増やしていっていた。
もしマスクをしていなければ、今頃二人はすっかり正気を失い、心地よい夢の中で死へ向かって真っ直ぐに進んでいたはずだ。そう考えると、複数の幻惑夢蝶が優雅に飛び交う美しいはずの姿は、妙に恐ろしくも感じられるのだった。
それから数分後。
深い森が途切れ、二人は湿地帯へと出た。木々によって遮られていた視界が開け、一面の沼が広がる。
そこで目撃した光景に、ディーは思わず立ち尽くし、感嘆の息を漏らす。
「すごい……」
幻惑夢蝶の大群が広々とした沼の上を飛んでいた。
目の前にあるのは、一度足を踏み入れれば、自力では抜け出せない性質を持つ沼だ。しかし、水面は澄み渡り、空の星々と、月、それから優雅に飛び回る幻惑夢蝶の青を反射している。
幻想的で、筆舌に尽くし難いその光景は、ディーが『今まで自分が見た中で、最も美しい光景だ』と断言することができるほどのものだった。
「うっかりマスクを外すなよ」
横からロズに声をかけられ、ディーはハッとする。ガラスに遮られることなく美しい光景を直接見たい、というどうしようもない欲求が浮かび、無意識のうちにマスクの顎部分に手をかけていたところだったからだ。
「美しさもまた、幻惑夢蝶という魔物の武器なのかもしれないな」
「本当に、綺麗です。いくら恐ろしいものだとしても、死ぬまでにこの光景を見られてよかったと思います」
しみじみと感想を口にするディーに、ロズはマスクの下で柔和に微笑む。
長年、冒険者として多くの地を訪れ、多くのものを見てきたロズは、重ねた年齢も相まって、もう滅多なことでは感動しなくなっている。
しかし、ディーの素直な反応を隣で見ていると、鈍磨していた心が一緒になって動くのを感じた。それは妙にくすぐったいようで、とても喜ばしいことだった。
「……そうだな、綺麗だ」
「はい」
群れの大きさは、今までにロズが見たこともないほどの規模だ。ただし、いくら群れようとも、幻惑夢蝶は物音を発しない魔物である。
極めて静かな沼畔を眺め、ロズはあることを悟ると、左腕に構えていた盾を背中に担ぎ直す。
他の魔物や生物はガスマスクを備えていない。そのため、幻惑夢蝶は自然界に天敵を持たないのだ。唯一の天敵と言えば人間だが、捕獲を禁ずる法律ができたことで人間からも守られ、幻惑夢蝶はその数を存分に増やしている。
ディラエ湿地は、今や幻惑夢蝶だけが生きられる楽園になっているのだ。他の生物を警戒する必要はない。
魔物から襲われる危険性を常に意識すべきフィールドにおいては珍しいことに、ロズは完全にリラックスした状態で、幻想的な光景をディーと共に眺めていた。
しばらくの後、二人は持参してきた折りたたみ式の虫取り網を取り出すと、周囲を舞い飛んでいる幻惑夢蝶を捕獲していった。普通の蝶とは違い、警戒心が全くない幻惑夢蝶は、飛んでいるところに網を被せればいとも簡単に捕獲することができる。
「魔物の捕獲に虫取り網を使うって話を聞いたときはどうかと思いましたが、逆に普通の虫取りよりも楽ですね」
鱗粉を周囲に撒き散らさないよう、ガラスで密閉できる箱に捕獲した幻惑夢蝶を入れながら、ディーが興味深そうに言う。
「普通の虫取りなんてやったことあるのか?」
「はい、とても小さい頃ですが。こういう虫網を持って、家の近くにあった小さな公園に兄と出かけました。兄は虫取りも上手くて、たくさん捕まえては、一匹も獲れない俺に分けてくれたものです」
「そうか。魔物を含めたどんな生き物も、本来は幻惑夢蝶に接近した段階で正気を失っちまうからな。幻惑夢蝶自身が、敵に確保されるっていう状況を想定していないんだろう。まあ……こいつは魔獣じゃなくて魔物だからな。自分が確保されて魔薬になったら、より多くの人間の命を刈り取れる、というところまで計算に入れてるのかもしれないが」
元々の幻惑夢蝶の数が多い上に簡単に捕まえられるため、二人がかりで捕獲を進めると、鱗粉も漏らさないようにと持参してきたガラスの箱はあっという間に満杯になった。
「あとは、こいつを王都まで持ち帰れば調査が進むっていうわけだ」
「予想していたよりも簡単でした」
「まだ気を抜くなよ。マスクも、俺がいいと言うまで絶対に外すな。こういう毒を撒き散らすような魔物と接触した後は、結構面倒なんだ」
そうして二人は収穫物を手に来た道を戻り、森の入り口に近い場所に、予め作っておいた野営地へと辿り着いた。朝までここでキャンプをする予定になっているのだが、マスクは、周囲に幻惑夢蝶の姿がなくなってからもずっと装着し続けていた。
つまり、二人の体には、あちこちに幻惑夢蝶の鱗粉が付着したままになっている状態なのである。その状態でマスクを外すと、不用意に舞い上がった鱗粉を吸い込んでしまう可能性がある。
まずはロズの指示でディーが旋風魔術を使い、二人の体や荷物についている鱗粉を風で丹念に吹き飛ばす。次にロズが細部まで鱗粉が残っていないかどうかを確認してから、ようやくマスクを外す許可が出た。
およそ三時間ぶりにマスクを外したディーは、顔を拭いながら空気を胸いっぱいに吸い込む。行きには鬱陶しいだけだった湿度の高い森の空気が、今は不思議と甘く感じられたのだった。
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