第二十九章 崩壊と祈り

第二十九章 崩壊と祈り


第一話


 モニターが急激なアラーム音を響かせた。

ピッ、ピッ、ピピピピ――。

心拍数が一気に跳ね上がる。

「バイタル異常値!」

「先生を呼んで!はやく!」

複数の看護師が走り込み、由梨のベッドの周囲が騒然とする。だが、本人の体は変わらず無言で横たわったまま、ピクリとも動かない。

それでも、その目尻から――一筋、涙が静かに伝っていた。

そのとき、由梨の“内側”では、別の激震が起きていた。


(ダメ……ダメ! これ以上は……!)

(なにかが壊れていく……あの夢が、溶けていく……)

(意識が、私の意識が、私じゃなくなっていく……)

(やめて……お願い……)

彼女の心は叫んでいた。苦痛と混乱の闇の中で、ふいに何かが断ち切れる感覚があった。


(もういいの……もう、やめよう……)

(もう誰も、傷つけなくていい……)

(もう、復讐なんて……いらない)

(私はもう、充分に――生きたよ……)


 誰かに、あるいは“かつての自分”に語りかけるように、由梨の意識は静かに変容していった。 


(あなたは……私じゃない)

(だから、もう――終わりにしよう)


 由梨の閉じたままの瞼の端から、二筋目の涙が流れ落ちた。


 病室には看護師たちの呼び声が飛び交い、心拍数の警告音がなおも響き続けている。

けれどその中心にある少女は――まるで、なにかを赦し、なにかを手放したように、どこまでも静かだった。

 


第二話


 夜の風が吹き込む廃工場は、かつて機械の唸りを響かせていた広大なフロアだけが、無機質な沈黙に包まれていた。今、その静寂を裂くように、左右にずらりと並べられたドラム缶の中で、不規則に揺れる炎が燃えていた。

電気は通っていない。

それでも、この炎の赤だけで、空間は十分に支配されていた。


――異様で、異質で、そして恐ろしい。

炎が照らすたびに、黒く焼け焦げた床と、割れた窓の影が天井に揺れ、まるでこの工場そのものが生きているかのような錯覚を覚えさせる。


 中央に、白いワンピースをまとった少女が静かに立っていた。


白鷺ユリ


 整った顔立ちも、夜の闇と炎に染まると、その輪郭には冷たく不気味な輪郭が浮かぶ。まるで、この世のものでない存在のように――静謐でありながら、恐怖そのものだった。

ユリの両脇には、二人の大人が並んでいた。

無表情で立つ女教師・花園。そして、腕を組んだまま何かを見下すような男・佐々木。

どちらも、すでに“ユリ側”の存在だと一目で分かる。常人とは異なる、妙な静けさがその体全体から滲み出ていた。


 そして――その背後。

太く朽ちかけた鉄柱に、ロープでぐるぐると縛られた少女が一人、ぐったりと身体をもたれさせていた。


 佐倉ひより。

目を閉じてはいるが、生きているのは確かだった。時折、小さく身体が震え、呼吸の浅さが遠目にも見てとれる。

彼女から少し離れた別の柱には、もう一人。

もうひとつの小さな身体が、同じように縛られていた――。


 工場内に満ちた不穏な空気の中、揺れる炎がユリの横顔を赤く照らしていた。

その目は遠くを見つめ、誰にともなく小さくつぶやく。 


「――きっと来るわ」

その声には確信しかなかった。

ユリはゆっくりと振り返り、フロアの端、天井近くに設けられた鉄骨階段の先を見上げた。

そこには、かつて事務所として使われていた部屋がある。今では電気も通っていないが、工場を見下ろすのに都合の良い監視場所だった。


「私たちは、上で見学させてもらいましょう」

その言葉に、隣の佐々木が軽く頷く。

「複製の配置は問題ないですね?」

「ええ、ぬかりはありません。迎撃と包囲、両方に対応できるように調整済みです」

佐々木の声には淡々とした冷静さがあった。まるで“仕事”を遂行するかのような口ぶりだった。


「……じゃあ、行きましょう」

ユリがすっと踵を返す。

その後を、無言で付き従う花園。

階段を軋ませながら登る三人の背中は、異様なまでに整然としていた。何もかもが計画通り、という雰囲気がその姿からにじんでいた。


 ふいに、ユリが足を止める。

背後の暗がりを一瞥し、ゆっくりと目を細めて、つぶやいた。

「――真嶋響、あなたは……私がいただくのよ」

その声音は優しげで、けれど底知れぬ狂気を孕んでいた。

それは、狩人が標的に向けて発する愛にも似た執着の言葉だった。

やがて三人は姿を消し、監視所の闇に包まれた。


 下のフロアでは、ひよりが依然として柱に拘束されたまま、かすかにうなされている。

何かが始まろうとしていた。

火は、静かに赤く揺れていた――。

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