雅なる陰陽師と身代わりの姫:月影の誓い
小乃 夜
黎明章:異界への誘い
「え、死んだ……私?」
薄れゆく意識の中、**桜井花音(さくらい かのん)**はそう思った。つい数秒前まで、友人の美咲と連れ立って、賑やかな渋谷のスクランブル交差点を、当たり前のように渡ろうとしていたはずだった。けたたましいクラクションの音、目の前に迫るトラックの巨体、そして咄嗟に美咲の背を突き飛ばしたあの衝撃と、アスファルトに叩きつけられる鈍い痛みが、花音の最後の記憶だった。あの喧騒、カラフルなネオンサイン、どこまでも続く人の波。それら全てが、一瞬にして掻き消された。
高校2年生、平凡で、ちょっと歴史と乙女ゲームと、あと異世界転生ものの小説を読むのが趣味のごく普通の女子高生。特に波乱もない日常を送ってきたはずなのに、まさかこんな形で人生が終わるなんて。推しの乙女ゲームの新作も、最終巻がまだ出てない漫画も、発売日を迎えることのないまま、全部お預けか。そう思うと、悔しさよりも、どこか呆れたような気持ちが勝った。
次に目を開けた時、花音の視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。煤けた木の梁が規則正しく組まれ、磨りガラスではなく、一枚の**障子(しょうじ)**から柔らかい光が差し込んでいる。どこか懐かしいような、それでいて全く知らない、古めかしい日本家屋の造りだった。体は、信じられないほど軽く、そして、年齢の割に華奢(きゃしゃ)で、まるで生まれたての仔鹿のように手足が覚束ない。手足を動かす感覚も、どこか自分のものじゃないみたいにぎこちない。
「おや、桜姫様、お目覚めになられましたか」
耳に届いたのは、驚くほど古めかしい、しかし優しく、どこか格式ばった女性の声だった。目を向けた先には、優雅な和装を身につけた老女が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。その着物の色合いや柄は、今まで花音が歴史の教科書や図録でしか見たことのない、まさしく平安時代のもの。柔らかな**十二単(じゅうにひとえ)の袖が風に揺れ、まるで屏風絵から抜け出てきたような佇まいに、花音は内心で動揺した。「桜姫様?」なにそれ、どこの乙女ゲームのキャラクター? いや、待って、これって……。花音は混乱した。体が思うように動かせない。腕を上げてみれば、そこに広がっていたのは、見慣れた制服の腕ではなく、真っ白な小袖(こそで)**の袖だった。手は小さく、華奢で、自分の知るそれとは全く違っていた。
そして、脳裏に流れ込んできた、まるで奔流のような膨大な記憶。それは、自分の記憶ではない。幼い頃から病弱な妹、鈴。父が度重なる不運に見舞われ、没落した実家。そして、その妹を救うため、家を立て直すために、都の大貴族、左大臣家から持ちかけられた縁談……。それは、平安時代中期に生きる、藤原の姓を持つ、とある貴族の末裔の娘、藤原の桜姫の記憶だった。彼女は、父の不運により没落した家の再興と、重い病に伏せる妹の薬代のために、都の陰陽頭、藤原宗継との契約結婚を強いられる運命にある、という。
「……藤原の、桜姫……?」
思わず口から出た言葉は、どこかたおやかな、自分のものではない声だった。まさか、あのトラックに跳ね飛ばされたと思ったら、平安時代の姫君に転生したってこと? しかも、その姫君は、病弱な妹のために、愛のない契約結婚を強いられる運命にある、という、なんとも乙女ゲーム的な設定の、ド真ん中に立たされている。しかも、相手は「氷の陰陽師」と畏れられる、まるでゲームの攻略対象キャラのような存在。花音の頭の中では、「え、これ、まさかの悪役令嬢転生ものじゃないよね?」「いや、ヒロイン側だ、よかった……のか?」「待って、死亡フラグ回避して、この世界で頑張れってこと?」などと、現代的な思考がぐるぐると渦巻いた。
桜井花音、いや、これからは桜姫として生きることを覚悟した彼女は、転生という奇妙な運命に呆然としながらも、平安京の雅やかなる世界、そして、その裏に潜む怪異と、後に夫となる「氷の陰陽師」の存在に、ただならぬ胸騒ぎを覚えていた。これは、ただの「ゲーム」ではない。まさしく、現実の物語の始まりなのだと、彼女は直感した。体の中に流れる、この時代の血と、遠い未来の知識を持つ魂。その奇妙な融合が、桜姫の運命を大きく変えていくことになる。
第一章へ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます