第二話 落ちた異界の片隅に奇縁の結ぶ誼あり

 枝の折れる音が下から上に吹き上げて、最後は尻餅の感触。

「あいたたた……」

周囲のものを触れると、ごつごつざらざらとした、木の肌のような感触。冷たい空気にマツやスギの枝からする樹脂の匂いがして、珠々は落下地点は森か林か、樹のあるところだとわかる。

「……ダイレクトに落ちたら本当に死んだな」

一体町からどれだけ離れてしまったんだろう。これだけの木があるならあるいは、入ったら出られないとかいう樹海かしら。珠々は鷹揚に考えながら手足を眺めた。枝で擦った傷はそれこそ見えている肌一面にあるが、骨には異常がなさそうだ。

「よいしょ」

ほうほうの体で珠々は樹から滑り落ちた。とにかく生き延びたい本能に似た何かがそうさせたのだと思う。新しい擦り傷が手足に出来たがそんなことはどうでもいい。こんな場所にはもう一瞬たりともいたくはなかった。

 ここが樹海であってもなくても、今の彼女には強い味方があった。

「きっとこれは悪い夢だ」

夢ならばそのうち、お菓子の家でも仙人の家でも忽然と現われるのだ。そして、異常なまでの歓待を受けて、山ほどのご馳走を口にしようとしたとたん目が覚める……そんなことは生まれて四半世紀近く、覚えていられないほど何回も経験したはず。

 珠々は一応、見え隠れする木々の間のわずかな月光だけを頼りに斜面を下り始めた。足元はほとんど見えない。岩や木の根が飛びだし、時々つまづく。痛みが異様に生々しい。気がつけば、月光さえもない。あちこち破れたパジャマ一枚で靴下もない彼女の足は血で真っ赤になっているだろう。傷口から立ち上る血の匂いにむせながら、珠々は、バランス感覚が伝えてくる下り坂の感覚を頼りに麓を目指した。早く、お菓子の家でも仙人の家でも出てきてくれないだろうか。


 木々の間から光るものがちらちらと見え始めたとき、珠々はそれまでの疲れを一瞬忘れた……はいいが、近付こうとはやるほど、体はきしむ。

 光に向かって進むと、急に視界が開けた。

 小さい光が、目一杯に広がる。もしかして星でも落ちたかと空を仰ぐ。梢と思しき頭上の月はなく、やがてその光に照らされているのは家々の集まりや、道のようなものだとわかってくると、急に安心感のような脱力感のような、とにかく緊張の糸がぷつりと切れたような感覚を覚える。

「お菓子の街かな……それとも……」

 珠々はまた気を失った。

「地獄の一丁目は……流石に言い過ぎか……」


 目が覚めたら、建物の中だった。

 起き上がる。手足には手当の跡だった。苦いような匂いは、薬か何かか。服もいつの間にか、和服のように衿を合わせるものになっている。

 だが珠々は愕然とした。まだ残る手足の痛みも、服や布団の暖かい柔らかい感触も、そこが現実なのだといやというほど主張していたからである。

 どうしよう。またぺたりと布団へ仰向けになると、

「姉さん、あの子、気がついたみたいだよ」

「そう、よかった」

こんな声がした。少年と、その姉らしき、落ち着いた若い女性の声。少年の声は、自分を攫ったものとは違う。物音のする部屋の入り口のほうを少し構えて見やると、若い女性が、盆に湯気のたつ器を乗せて現われた所だった。

「おかげんはいかかですか?」

女性は柔らかく声をかけ、珠々の手に湯飲みを握らせた。傷の薬とは違う、何かの花のような、すっきりとする香りがした。

「弟が昨日、山菜を採りに山へ入ったら、この町はずれの里山の入り口にあなたが倒れていたと…… 息があったのでここにつれて参りました」

息があった、か。そこで死んだと思ったら夢オチだったとしたらどんなに楽か。まさか自分にこんな虫のような生命力があろうとは。

 しかし、これが現実とわかった今、明るくなって自分が家にいないと知った親は、それはもう血眼になって自分を探しているだろう。過保護というわけではないが、家族としてはそうしていてもらいたい気がする。

 もしここが自分の住んでいた町と地続きであれば……いやそうでないにしても、せめてもっと開けた場所に出て、あるいは自分の出自に関して理解のある人に遭遇して、こちらからできる限りのアプローチを考えなくてはならない。そんな目で自分を見れば、ここで力尽きなかった虫のような生命力は満更いやとも思わない。

 さて姉と呼ばれた娘が

「どちらからいらっしゃったの?」

と尋ねる。この際、言葉がどうして通じるかとか、余計なことは一切考えないことにして、珠々は

「遠くから、です」

それだけいった。急に日本のどこそこと言っても通用しないと思った。だが、女性は案外あっさりと

「遠くから、ですね」

と返して、それ以上は聞かなかった。

「なにも聞かないんですか?」

と珠々が言う。

「だって、隠れ住んでいたのを、狩り出されてきたのでしょう。ここはそんなこと珍しくはないですから」

「狩り…… 一体、ここはどこなんです?」

物騒な言葉に珠々が泡を食うと、

「大龍神帝国、西の賎民街」

「せんみんがい? ……どういうことですか?」

場所を告げる娘の顔は浮かなかった。聞かなければよかったかな、と珠々は反省した。

「いえ、事実存在するのですから説明しなければなりません。

この国は『龍』が住んでいます。あなたも、お国である遠い所で、龍の話を聞いたことはあるでしょう」

珠々はまたラーメンの丼とかを思い出した。だが、流石にそうとは言いづらく、古い掛け軸を見せられた時の説明のままに、

「雨とか、風とか、そういうものを操る神様ですよね? こう、雲をもくもくさせて」

と言う。

「まあ、あなたのお国でも、龍とはそういう生き物なのですか」

「実際に生きてるところを見たことはないですけど……」

 娘の話によれば、そういう強大な力を持ち振るう龍といっても、普段はいわゆる人間と姿に大差はないそうで、ただ、龍は自分たちの先祖が龍であることをとても大切にしていて、頭に角を残しているという。

 そして、龍たちに言わせれば、それはよんどころない生活の必要にして廻りにあわせてわざわざ「そうしている」姿だと言うのだ。

「龍は、龍を祖先に持たない他国のものを見下しています。

 龍と他国の人とのあいだに生まれたり、あるいは両親が龍であっても角を持たないものは劣った種族として、都市に遠くはなれたこんな辺鄙な場所に押し込んでいるのです」

女性はそういって軽く唇をかんで、自分と弟もそんな「無角」のひとりだと言葉を締めた。

 珠々はおそるおそる聞いた。

「私にも角なんてないですけど……それじゃ、私はここから出られないんでしょうか」

「ここに出入りする者、特に出るものには厳しい制限があります。街の境には柵が設けられ、門では警備の官吏が目を光らせています」

娘は頬に手を当てて困ったような顔でいる。そこで彼女の弟という少年が口を出してきた。

「ここから出たいのかい?それなら、そのうち祭りがあるだろ?

 祭りの間、あいつらは酒とご馳走があれば、お勤めなんか忘れちまうよ」

「つまり、それを利用して脱出しろってことですね?」

珠々が言うと、

「こっちの姉さんは話がわかるもんだなぁ」

少年は笑って、姉娘に嗜められた。

「……弟の言うように簡単にできるかどうかはわかりませんが、もしあなたに本当にそのつもりがおありなら、お手伝いしましょうか」

珠々はぱっと顔を明るくする。

「はい、手伝ってください、私、ここから出たいです!」

その勢いでボフン、と布団を叩く。手の傷がどくん、と跳ねて、珠々は

「あいたたたた」

思わず声をあげる。

「だめだよお姉ちゃん、うっかりしてたら祭りなんてすぐだ、傷はしっかり治さないとな」

弟の方がははは、と笑った。

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